井上成美

この本は、なにか賞を取ってるんですよね。
いろいろな提督の伝記があります。
伝記刊行会なんて、会を作って編集する形が多いんですが、
非売品のものも多くあります。増刷なんで、まず考えにくい。
ところが、この井上成美伝記刊行会の作った『井上成美』は、
初版が昭和57年。
ボクの持っているのは第10版、で昭和62年のものです。
本として、資料として価値を認められた作品といえます。

この存在は早くから知っていましたし、
売ってる店舗も知ってました。
ボクは、はじめは本など書く気はなく、
ただ知りたくて古本を読み漁っていました。
読み漁るといっても、ボクは本を読むのが遅いんで、
それほどのペースでは読めないわけです。
そんな人間からしますと、このような厚い本
(広辞苑とまではいきませんが、中型辞典よりは大ぶりです)
は、気後れしますし、金額的にも、
いつもは300円、500円とかで買っているのに、
もう一個丸がついてるんです。
でも、そういう理由でためらって、
次の機会に無くなっていた本などもありまして、
やっぱり、見つけたときは買うときだな。と、
それでも、厚い本ですから、
買ってからもしばらく飾ってありました。

そして、この本を読みだした頃には、
井上さんの話題性のあるエピソードは、ほぼ知ってましたから、
新たに、そうなんだ。というものはなかったんですが、
すごく大切なことに気づいたんですね。
小説に出てくるセリフなど細かい部分はデフォルメされたり、
作家の思いによって屈折することがあるということです。
このことに気づいてからは、
なるべく一次資料に近いものを探すようになりました。
ただし、注意点もありますね。
自叙伝であれば、その人の性格によっては、
小説家以上の屈折があることがあるということ。

井上成美

井上成美伝記刊行会 

  目次
 はじめに
第一章
 生いたち
  君子は人の美を成す
  一本気で厳格な父
  母は琴に堪能な姫君
  強い個性の兄弟たち
  殿様ご自慢の「シゲちゃん」
  寄宿舎のような自治生活
 自由と規律と夢の青春
    ――兵学校生徒時代――
  英語が苦手の三号生徒
  バッジが襟に光る井上伍長
議論より実践の宗谷組
    ――少尉候補生時代――
  われら”ベッキ組”(近海航海)
  兵卒並の宗谷組候補生(遠洋航海)
  教育の成果は二十年後
  最先任者として少尉任官
第二章
 勉学、結婚、そして海へ
    ――初級将校から大尉まで――
  遣英艦隊として皇帝載冠式へ(鞍馬乗組)
  米内、山本との出会い(砲術学校・水雷学校普通科学生)
  物足りない初陣(高千穂・比叡乗組から第一次大戦へ)
  一人前の海軍将校に(桜乗組と扶桑分隊長)
  四年ぶりの陸上生活(海大乙種学生・専修学生)
  再び海へ(淀航海長)
 西欧精神に学ぶ
    ――スイス・ドイツ・フランス駐在時代――
  ドイツ語の夢を見た(スイス駐在)
  高い身分には義務が伴う(ドイツ駐在)
  義務感旺盛な西欧人に接して(フランス駐在)
 律儀で折り目正しい航海長
    ――球磨航海長時代――
  任務遂行に全力傾注
  シベリア出兵と井上の戦争観
 エリートへの関門
    ――海大甲種学生時代――
  筆答六十番、口頭一番
  恩賜の軍刀はもらわず
 初めての海軍省勤務
    ――軍務局B局員時代――
  法律を基礎から勉強
  生涯の友、榎本を知る
 国民性にガッカリ
    ――イタリア駐在武官時代――
  彫刻家の意欲を誘った井上の顔
  高木惣吉との出会い
 軍政畑からの戦略教官
    ――海大教官時代――
  異論よぶ独自の教授方針
  探偵小説と戦略の関係
  情報を重視した先見性
  N二乗法則と軍縮条約
第三章
 孤独な闘い
    ――軍務局長第一課長時代――
  軍政参画の第一歩
  無理が過ぎれば道理が引っ込む(軍令部条例と省部互渉規程の改定)
 馘どころか一国一城の主
    ――比叡艦長時代――
  失意のなかに得た好ポスト
  艦隊派のねたみ
  怪しい会合には出るな
  満州国皇帝の御召艦
  ニミッツとの出合い
  長井宅の完成と航空写真
 米内光政との初コンビ
    ――横須賀鎮守府参謀長時代――
  参謀長は長官の小間使い
  二・二六事件を予測して
  女は不得手、隠し芸は七面相
 機関科将校問題に取り組んで
    ――軍令部出仕兼海軍省出仕時代――
  差別の歴史的背景
  結論は一系化、実施されたのは七年後
 日独伊三国軍事同盟の阻止
    ――軍務局長時代――
  海軍省の”左派”トリオ
  国軍を政策に使うは邪道なり
  理に徹しすぎる余り
 事変処理に手腕を買われて
    ――支那方面艦隊参謀長時代――
  「級友三代相伝」のポスト
  馘を覚悟ならどうぞ
  軍楽隊も”指揮”した参謀長
  矛盾に苦しむ作戦指導
 日米戦争形態の的確な予測
    ――航空本部長時代――
  中央は人も空気も変わっていた
  すべてはあとの祭り、三国同盟
  艦隊決戦思想を打破した新軍備計画論
  わずかな機会を捉え戦争回避に努力(次官代理)
  南部仏印進駐に警告を重ねる
第四章
 史上初めての母艦決戦
    ――第四艦隊司令長官時代――
  広大な防備海域、旧式の兵力
  長官の優雅な一日
  コンパクトを少女に贈る
  ウェーク攻略に一度は失敗
  珊瑚海海戦は「消極的」だったか
 時流に抗してジェントルマン教育
    ――海軍兵学校長時代――
  母校の校長へ
  戦時教育の苦心
  ジェントルマンをつくる
  みがけますらを 大和だましひ
  数学パズルと英英辞典
  マンモスクラスの誕生
  実らぬ稲を刈るな
  巣立った若者たち
  全生徒の眼に灼き付いた答礼
 戦争終結への決断と行動
    ――海軍次官・軍事参議官時代――
  政治のときは天井を
  戦いに即さぬ赤レンガの空気
  絶望的な戦況
  政治嫌いの政治活動
  戦敗れて大将あり
  有終の美を全うせよ
第五章
 隠棲の日々
    ――戦後の生活――
  ギターを弾く老提督
  苦悩の生活の始まり
  子供らに愛を注いだ英語塾
  清貧の中にも矜持を保つ
  旧部下たちに接して
  働いて働きぬく生活
  小松でも英会話の先生
  病に倒れる
  再婚の式はお稲荷さんで
  防大の正門はくぐらず
  兵学校の教え子たちとの交流
  世に出た”荒崎放談”
  終焉
  残された聖書と讃美歌
  悲しくも立証された予言
 協力者名簿
 参考文献
資料編

この資料編がかなりのボリュームでしてね。
339ページ、しかも字が小さい。

『新軍備計画論』のなかの「日米戦争の形態」

ちょっと、軽い言葉にします。

日本がアメリカと戦うことになった場合、
負けないというやり方を狙えないでもない。
でも、アメリカを負かすことはできない。これは明白。
アメリカは広いから
向こうが音を上げるところまではやっつけられない。
完全な海上封鎖はできないし、
できたところで向こうは海外依存してないから意味がない。
逆にアメリカが日本を攻める場合、
首都占領も可能だし、海上封鎖も可能。
これやられたら日本はお手上げ。

だから日本はアメリカとやっちゃダメだし、
やるならどうやって負けないようにするかを考えて、
それに沿った軍備をしなきゃ。

そのための、新軍備計画論なんですね。

井上成美

井上成美

阿川弘之著 新潮社
この本、目次がないんです。

表紙などにフリガナはないんですが、
これなんていうんだろう、最後のところ
著者や発行者、発行所とかが書いてあるところ
ここの題名には「いのうえせいび」ってふりがながあります。
変わった人ね、阿川さん。

本文には、第何章って記述はあります。
ありますが、題名はないです。
そんなわけで、差し出がましいのは重々承知の上で、
各章の紹介もかねて、
ボクが題名なような紹介文を書くことにします。

序章 (8項)
主に海兵37期の同期生を通した井上成美の評判です。

第一章 (10項)
軍事参議官時の副官金谷善文大尉の紹介から、井上英語塾開校まで。

第二章 (10項)
米国戦略爆撃調査団から、杉田主馬の紹介、
海大教官、軍務局第一課長。

第三章 (9項)
ミスター井上の英語塾、山崎晃の紹介から、
米内光政の死、娘靜子の死、そして孫。

第四章 (12項)
「比叡」艦長時代、今川福男大尉と花岡雄二大尉、
そして、大井篤と海大34期の海兵51期組。
横須賀鎮守府参謀長、二・二六事件。

第五章 (9項)
一系問題、そして、米内光政海軍大臣、
山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長で三国同盟に反対。

第六章 (9項)
「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」
平沼内閣の総辞職から、支那方面艦隊参謀長。
須賀彦次郎少将のこと。

第七章 (9項)
海軍三国同盟承認、航空本部長へ。
中山定義少佐と扇一登中佐。
『新軍備計画論』一系問題に取り組む高田利種。
臨時局部長会報と司令長官への説明会。

第八章 (12項)
第四艦隊司令長官、近衛内閣総辞職。
土肥一夫少佐の焦燥。作戦打ち合わせ会議。
開戦。ポートモレスビー攻略計画、珊瑚海海戦。
松田夫婦、新宮一司の話。「小松」トラック支店。
ガダルカナルの攻防。海軍兵学校校長へ。

第九章 (10項)
山上実機関参謀、「東京タイムズ」記事を見るから、
井上塾生たちの話。今川福雄との貧窮問答から、吐血。そして再婚。

第十章 (9項)
飯田秀雄参謀を随え、海軍兵学校へ。各改革。
企画課長小田切政徳。
予備学生教官。賀陽宮治憲王への訓示。

第十一章 (8項)
教育者井上。森浩主計中尉から帯刀与志夫主計中尉へ。
嶋田海軍大臣兼軍令部総長。

第十二章 (8項)
東條内閣総辞職。米内大臣、井上次官。
軍令部出仕兼海軍大学校研究部員次官承認服務、高木惣吉。
兵備局二課長浜田祐生。倉橋友二郎少佐。調査課中山定義中佐。

第十三章 (10項)
陸海軍統合案。鈴木貫太郎内閣。米内海軍大臣続投。
ドイツ降伏。大将昇進、軍事参議官へ。
水交社、井上・高木・中山。ポツダム対日宣言。
原子爆弾。情報参謀中島親孝の発言。終戦。

終章 (10項)
喜寿の祝い。幹部学校長中山海将補、高木惣吉連続講義。
富士子夫人。孫、丸田研一の訪問。古鷹ビル、深田秀明・岩田友男。
海上自衛隊幹部学校長石塚栄。防衛大学校長猪木正道。豊田譲。

井上成美

太平洋戦争秘史

副題に「海軍は何故開戦に同意したか」とあります。

執筆は保科善四郎さん、大井篤さん、末国正雄さん。
総括編集・財団法人日本国防協会となっております。

保科さんというのは、戦争が始まる前に
軍務局から兵備局が分かれるんですが、
その局長に収まる人です。
時期が時期でして、山本五十六さんは
保科さんに潜水艦の使い方を研究してほしい。
だから、お前潜水戦隊の司令官やってくれ。
軍務局と人事局には言ってあるから。
こんなこと言われちゃうんです。
保科さんは潜水艦のことを知りませんから、
まず断る。断り切れないとみると、
じゃ、一ヶ月研究させてくれ、その後でお受けする。
そう答えたんですが、実は人事局でも
伊藤整一さんが、自分のあとを保科にやってほしい。
って思ってた。大井さんは、海軍反省会で、
「その時保科さんが人事局長やってたら、
 戦争にならずに済んだ」こんなこと言ってます。
保科さんってどんな人なんでしょう。

米内光政さんが第三艦隊司令長官のとき、
保科さんは、その先任参謀でした。
揚子江を遡ったとき、座礁事故を起こしまして、
米内さんは進退伺いを書きます。
保科さんは、それを預かると
そのままポケットに入れてしまいました。
こんなことで、この人の経歴に
傷を付けちゃいけないと思ったみたいです。
こうすべきってことは、独断決行できる人です。
しかも、仕事大好き人間で、
「保科を殺すには、仕事を取り上げたらいい」
なんて言われるような人です。

こんな人なんで、井上成美さんが海軍次官を退いてからは
海軍次官を継いだ多田武雄はお飾りで、
軍務局長の保科さんが米内大臣の右腕となっています。
そして、米内さんの遺言を守るため、
衆議院に出、国防協会の初代会長にもなります。

大井さんや末国さんは、
海軍反省会での発言がかなり多い人たちで、
末国さんの場合は、ずいぶん研究されてて、
その発表をする場面が多く、非常に分かりやすいです。
大井さんの場合は、発言が多いですね。
理屈っぽい人で、
そのこだわりが、ボクは好きなんですが、
人によっては辟易するかもしれない。

海軍反省会は全11巻で終了し、
録音テープが残っていない回などもかなりあり、
たまたま末国さんが登場するところが
多く残っただけなのかもしれませんが、
防衛庁戦史室調査員として研究した時期がありますので、
研究調査の量が多いんだと思います。

海軍は何故開戦に同意したか
    『太平洋戦争秘史

保科善四郎・大井篤・末國正雄

目次
 序
第一篇 保科メモの全貌と回想
  はしがき
 第一章 大東亜戦争(日本側呼称)への道
  第一節 遠因はワシントン、ロンドン条約に
  第二節 世界恐慌と二・二六事件
  第三節 南北論争と「国策基準」の決定
  第四節 陸軍のドイツへの接近
  第五節 「日独伊三国同盟」締結の内幕
  第六節 開戦直前の私の進言
 第二章 開戦に至るまでの秘録
  第一節 日米首脳会談の流産
  第二節 政略重点から戦略重点へ
  第三節 白紙還元―国策の再検討
  第四節 御前会議―深夜の大激論
  第五節 開戦直前の「保科メモ」
 第三章 兵備局長時代の回想
  第一節 兵備局長の任務
  第二節 兵備局長初期の物動計画
  第三節 海務院の誕生
  第四節 物動計画(昭和19年度)
  第五節 サイパン奪回作戦論議の真相
  第六節 レイテ決戦敗北以後
 第四章 秘められた終戦工作
  第一節 知られざる東条発言
  第二節 保科兵備局長の和平工作
  第三節 岡軍務局長の独ソ和平工作
  第四節 保科兵備局長のサイパン奪回作戦
  第五節 東条内閣総辞職の意義
 第五章 終戦への動き
  第一節 陛下の御信念
  第二節 時局収拾への御前会議
  第三節 お召しによる六巨頭会議
  第四節 ポツダム宣言「諾」か「否」か
  第五節 御聖断下る―終戦決定
 第六章 日米単独講和の条件
  第一節 在スイスの藤村中佐からの電報
  第二節 藤村中佐のGHQでの陳述
  第三節 米国務省から見た藤村工作
  第四節 米国首脳の「天皇制存置論」
  第五節 知日派グルーの活躍
  第六節 無警告原爆投下の決定
  第七節 歴史の歯車は狂った
 第七章 終戦余話
  第一節 クーデター前後
  第二節 米内海軍大将に関する余話
  第三節 日本本土分割案
  第四節 戦後の「保科メモ」から
  第五節 大東亜戦争を回顧して
  あとがき

第二篇 開戦と終戦
 第一章 海軍は何故に対米開戦に賛成したか
  第一節 開戦時私は海軍省人事局員
  第ニ節 海軍の日独伊同盟への賛成
  第三節 三国同盟成立後の海軍中央
  第四節 永野修身の軍令部総長就任
  第五節 開戦決意を迫る参謀本部
  第六節 及川海相退陣
  第七節 ついに嶋田海相が開戦に同意
 第二章 終戦における海軍の役割(水交会月例講演)
  第一回 昭和61年1月20日
  第二回 昭和61年4月14日
 第三章 米内海軍大将の現役復帰、海軍大臣就任の経緯とその意義、太平洋戦争関係海軍大臣更迭の経緯
  一、米内海軍大将の経歴概要
  二、米内海軍大将の組閣とその内閣の崩壊
  三、嶋田大将、海軍大臣として登場
  四、東條内閣とその崩壊
  五、後継内閣成立までの過程
  六、小磯内閣の組閣、米内大将の登場
  七、鈴木貫太郎海軍大将の内閣成立と米内海軍大臣の留任
  八、東久邇宮稔彦王陸軍大将の内閣
  九、幣原内閣の誕生と米内大臣留任の経緯
  十、終戦処理内閣東久邇宮内閣と幣原内閣における米内海軍大臣のとった措置

附表
 一、参考資料
 二、主要事件略年表
 三、太平洋戦争中歴代内閣閣僚一覧
 四、太平洋戦争中各部各方面の幹部首脳者一覧
 五、太平洋戦争中陸海軍中央省部首脳者一覧

保科さんの「はしがき」を抜粋。

「私は昭和五年六月、米国の名門エール大学に在学していた。
翌六年九月一八日に満州事変が勃発したが、
そのとき米国に在住する中国人の反日への結束ぶりと、
米国人の中国に対する同情の深さを目の当たりに見聞して、
私はただならぬものを感じ取った」
「日本のことを知らない米国人なら、
中国人の誇大な排日・反日の宣伝にすぐに同調してしまう。
そのため日本に対する無理解のために、
どんな不祥事が発生するか分からない。
日本はもっと自分の立場をPRする必要があると、
しみじみと痛感させられたのであった。
その後中国に勤務したが、いたるところで
排日・抗日・侮日の運動が執拗にくり返されており、
中国人の国民性のしつこい胆汁質は、
日本人のあき易い、忘れっぽい淡白性から見ると、
実に恐るべき民族的差異だと感じた」
「私は多忙の中で走り書きの日記を綴っていた。
それは私の個人的備忘録であったが、
今や当時の海軍省の中枢部の動向を伝える
資料の一つとなった。この際
『大東亜戦争秘史』として世に真相を発表することは、
私の最後の祖国への義務だと思うようになってきた」

保科さんは、ルーズベルトの腹黒さは
知らないままであったようです。

「実際のところ、
日本も米国も進んで戦争を起こす気は毛頭なかった。
しかしそれなのに戦争に突入してしまったのは、
つまり米国も日本も相手のことが
よく分からなかったからである」

アメリカ国民が戦争を欲していなかったのは事実ですが、
ルーズベルトは、日本を戦争に巻き込みたかったのです。
戦争をしないと言って大統領に再選したので、
どうしても、日本に手を出させたかったのです。

ちょっと内容が違うと思われますが、
    ↓↓↓↓↓↓↓↓

大東亜戦争秘史





一海軍士官の回想

この本を書いた中山定義さんは、
井上成美さんが支那方面艦隊の参謀長だったときの
政策担当参謀で、井上さんが軍令部に乗り込んでいって、
アホなこと(対米戦になりかねない政策)すな!
って言い寄ったときにお供させられた人です。

開戦時は南米におり、
「中山さん。日本の海軍機がパール・ハーバーの
 米艦隊をさかんに攻撃しているというニュースが
 繰り返されていますからお知らせします」
という、同盟通信の椎名氏からの
突然の電話が第一報となったそうで、
「パール・ハーバーだけですか。
 フィリピンというような地名はありませんか」
と答えたそうです。
というのは、3日前にワシントンから
暗号関係を処分したという機密電報を受けており、
時間の問題。と観念していたからだそうです。
その後はチリで監禁状態。
第二次交換戦で昭和18年霜月、横浜着。
昭和18年といえば、ガダルカナル撤退、
山本五十六さんの戦死、アッツ島の玉砕と、
みるみる戦況が悪くなった年で、
中山さんがチリを出たころには、
イタリアが降伏しています。

中山さんは、駆逐艦艦長を強く希望しましたが、
「君の乗るような駆逐艦はもう一隻もない」
なんて一蹴されてしまい、相手にされなかったそうです。
海軍省副官、第二艦隊参謀、軍令部五課(米国情報)、
軍務局二課などが、ワシントンから
南米経由で帰った中山さんを欲しがっていました。
辞令は「海軍省軍務局二課」でした。
ドイツ駐在が決定していた扇一登さんの後です。
ひと月もすると、こんな事例が追加されます。
「調査課課員、兼軍務局局員、南方政務部部員」
調査課といえば、
高木惣吉さんが作ったブレーン・ブラストがあります。
そんなわけで、中山さんは
次官を退いてからの井上成美さんとの連絡など、
高木さんの終戦工作にかかわることになります。

一海軍士官の回想

開戦前夜から終戦まで

中山定義 〈毎日新聞社〉

  目次
Ⅰ 北米時代
  危機せまる米国へ
    井上成美参謀長の憂い
    「米国駐在を命ず」
    「鎌倉丸」の乗客たち
    野村大使の述懐
    神ならぬ身
    北米大陸に第一歩
    Gメンに追跡される
    ワシントンへ
  プリンストン大学
    大の日本海軍ファン
    アインシュタイン博士
    直接の殺し合いは避けよう
    教会の反日演説
    レーダー情報
    アナポリス見学
  視察旅行
    一ヶ月のドライブ旅行
    在留邦人に時局講演
    大西洋の独・英艦隊決戦
    米大統領の「国家非常事態宣言」
    立花事件
Ⅱ 南米時代
  アルゼンチンとブラジル
    次は中山だ
    米国から南米へ
    チリ進出を意見具申
    欧州から転進の海軍使節団
    最後の日本船「東亜丸」
    来るべきものが来た
  日米開戦下のチリ
    アンデスを越えて
    チリ公使館附海軍武官
    ドイツ武官と情報活動
    自前の情報宣伝戦
    大本営発表
    盗聴覚悟の電話連絡
    ついに国交断絶
    監禁生活
  帰国の途へ
    第二次交換船
    帰国の途へ
    上甲板の「海ゆかば」
    交換船「帝亜丸」
    昭南寄港
    マニラから最後の航海へ
Ⅲ 海軍省軍務局時代
  新任務と帝国議会
    帰朝報告に反応なし
    新配置
  ブレーン・トラスト
    調査課のブレーン・トラスト
    二年現役主計士官のこと
    地価大食堂の激論
    石川信吾少将の政治活動
  東条政権の崩壊
    反東条熱に驚く
    四方東京憲兵隊長
    自滅の道をたどる
    潜行する内閣打倒運動
    海軍人事に陸軍の横槍
    「敵はついに倒れたぞ」
    飛行機工場の現実
    原子爆弾
  小磯・米内協力内閣と海軍
    海軍に活気戻る
    米内大臣と井上次官のこと
    大臣演説草案に四苦八苦
    陸軍強硬派からのアプローチ
  鈴木内閣と終戦
    小磯内閣から鈴木内閣へ
    激化する空襲
    本土決戦の準備
    混乱の第87臨時議会
    身を切られる思いの終戦工作
    幻の大和大本営
    ぐずぐずしてはいられない
    エピローグ
 注
あとがき
  索引

サイパンからの決別電は文月の六日です。
12日、東條は、嶋田繁太郎と申し合わせ、
内閣改造で乗り切ろうとします。
そのことを木戸幸一内大臣に伝えると、
木戸から条件を出されます。
統帥権の確立(総長と大臣の分離)。
嶋田海相の更迭。
重臣(総理経験者)の入閣。
木戸は、陛下の思し召しであることをほのめかします。
東條は、参謀総長には梅津美次郎さん、
嶋田は軍令部総長に専任させ、
新海相には野村直邦を当て、
阿部(陸軍大将元総理)と米内さんの入閣を
求めるという内閣改造方針を木戸に説明し、
了解を取りつけます。
そんなわけで17日、野村海軍大臣が誕生しますが、
米内さんに入閣を断られ、
18日東條内閣は総辞職します。
重臣会議が開かれ小磯国昭が選ばれますが、
19日、近衛が米内さんを訪ねます。
「小磯一人じゃ心配だから、
 あなたが出て連立でやってもらえないか」
米内さんは連立なんてうまくいくはずがない、
としたうえで、海軍大臣ならやれると告げますと、
近衛は、小磯首相・米内海相というお言葉を
陛下からいただくように木戸に含みます。
20日、小磯・米内の二人に組閣の大命が下ります。
可哀そうなのは野村君で、
小磯から辞表を出せと言われるわけです。
「お上から米内を現役に戻して大臣にするよう言われて
 おりますので、海軍の方で、手続きをお願いします」
21日、野村君は参内して陛下に確認します。
「その通り」
小磯・米内連立内閣は22日誕生します。
米内さんは副総理格ですが、
小磯には「お前がやれ」と、海軍大臣に専念します。
葉月の5日には井上さんが次官になります。

中山さんによれば、海軍の空気がガラッと変わり、
海軍省を訪問する顔ぶれが一変したそうです。
中山さんの表現ではこうなります。
「とにかく米内海相・井上次官のコンビが
 出現したことは、海軍省構内に聳え立つ
 あの高い無線用鉄塔の上に、
 いわば”霞ヶ関灯台”とでも称すべきものが点灯され、
 遠く日本の針路を照射しだしたような思いで、
 懐中電灯で足元を照らしながらうろうろし、
 とかく大きい針路を見失いがちな
 われわれ事務当局にとっては大助かりであった」


一海軍士官の回想

米内光政正伝

米内さんって人気あるんですよね。
副題にこんなのついてます。
「肝脳を匡の未来に捧げ尽くした一群人政治家の生涯」
幣原内閣誕生の時、
米内さんはさすがにもう体がもたないと思ったんです。
それで、お断りして豊田副武を推しました。
幣原さんはやむなくその線で
マッカーサーにお伺いを立てますが、
マッカーサーが米内でなきゃだめだ。というんです。
豊田副武はAダッシュ戦犯候補になっていましたから、
というのもあるんですが、やはり向こうでも米内さんの評価は高かったようです。
このとき、米内さんは血圧が260でした。

お酒好きでしたけど、それよりも、、。
まぁ、それもあって、としましょうか。
米内さんは配給食のみで終戦を生き抜きましたので、
かなり栄養状態も悪かったと思います。
副官とかが気をまわして、
なにかと米内宅に届け物をするんですが、
「父に叱られましたから」と、
未亡人となって家に入っている娘さんが返しに来るんです。
昭和20年水無月の8日、
重臣会議の席で、秋永月三内閣総合計画局長官が
「秋には石油はじめ軍需品が不足して、
 戦争遂行能力がなくなり、
 国民のなかに餓死者が出はじめるかもしれない」
という報告をしていますが、このこと、実感をもって理解したのは、配給だけで生きていた
米内さんくらいだったんじゃないか、なんて思ったりします。
こういう、清貧って、日本人は好きなんですよね。

米内光政正伝

実松譲  〈光人社〉

目次
序〈阿川弘之〉
まえがき
第一章  出会い
 努力、努力、努力の人
 欧州方面の実情を知る
 慈父のごとき米内艦長
第二章  母と子
 自身の意見を持つべし
 激動の昭和を邁進する
 何事にも一身を掛けよ
第三章  盧溝橋
 境遇を意義あらしめる
 政党政治をほふる陰謀
 「金魚大臣」の真骨頂
 抜き差しならない日本
第四章  下剋上
 「兵とは国の大事なり」
 日米関係悪化への序章
第五章  暴走
 筒抜けのマジック情報
 仏印進駐と対日包囲網
 リッベントロップの怪
第六章  大御心
 張鼓峰事件のてんまつ
 乗じやすき国――日本
 世界の情勢にどんかん
第七章  霞ヶ関
 私はきっと帰ってくる
 井の中の蛙の鬩ぎ合い
 主張と信念に忠実な人
 刻々クーデターの危機
 国を憂える一握のひと
第八章  分岐点
 うごめく青年将校たち
 統制を失った帝国陸軍
 日独伊三国同盟の裏表
 米内海相退陣のみやげ
第九章  立往生
 山本を殺してはならぬ
 こじれた日米関係の糸
 次は米内にしては如何
 斎藤隆夫の”反軍演説”
 ”バスに乗り遅れるな”
第十章  西園寺
 米英独ソ対日本の関係
 日独伊三国同盟の陥穽
 駆逐された海軍良識派
 英米蔑視の風潮を生む
 バスに乗り違えた海軍
第十一章 嵐の前
 戦争にいたらない方法
 どんづまりの日米交渉
 ハワイ奇襲ナゾの漏洩
 日本に勝利の機会なし
 お先不明の時代へ突入
第十二章 聖断
 米内邸に集まった人々
 ソロモン消耗戦のあと
 東條内閣の崩壊と天皇
 難局を収拾するてだて
 統帥を離れて政治なし
 油も資材も底をついた
 和戦について紆余曲折
 理外の理か死あるのみ
 ソ連を頼った日本の愚
 二つの原爆とソ連参戦
 天皇が下した最後の断
 我一人生きてありせば
 戦争終結にいたる道程
第十三章 永訣
 天皇ラジオ放送の前後
 ある日の料亭「山口」
 海軍少佐国定謙男の死
 名刀「国重」のゆくえ
 天皇との別れに際して
 本土決戦回避のために
 ナイス・アドミラル!
 とぼけ通した東京裁判
 束の間に一私人として
 肝脳を国家に捧げ尽す
あとがき
資料談話提供者
参考引用文献
米内光政 年譜

見事でしょ。
小見出しの文字数がパーフェクトに揃ってますよね。
実松さんってこういう人だと思います。

阿川さんが〈序〉を寄せてます。

思えば帝国海軍最後の十年間の歴史は、
勝算の無い対米戦争を何とか回避しようとしながら、
時勢に流されて遂にその志を遂げ得ず、
苦戦の末、予期した通りの終末を迎えて
自らの手で自らを葬る歴史であった。
米内光政は、その帝国海軍の最後を象徴するような提督である。
著者の実松さんは、昭和13、4年、
米内・山本の海軍が日独伊三国同盟の締結に
頑強に反対していたころの海軍大臣秘書官、
日米交渉の時代には在米海軍武官補佐官、
開戦後帰国してからは
軍令部出仕兼海軍大学校教官の要職にあった人である。
米内のものの考え方や人となりに関しては、
最もよく肌身を以て感じとっていた人物の一人であろう。
米内提督のことを書いたものは、
先に小泉信三の「米内光政」、
緒方竹虎の『一軍人の生涯』があるが、
今度実松さんは、豊富な資料と自己の貴重な見聞にもとづいて、
立派な米内光政伝を書き残してくれた。
これは、史実に忠実でありながら
少しも固苦しいところや気張ったところが無く、
米内を深く愛惜しながら独りよがりのところの無い、
米内光政の人柄が
そのまま乗りうつったかと思われるようにすぐれた文章である。
敗戦の折、
陛下が自ら不服の陸軍将校たちを説得してもよいと言い出されたのを、
陸軍大臣はさようお願いしたいと受けたのに対し、
海相の米内は、
「そんなことをお上にお願いせねばならぬようなら、
僕は大臣がつとまらぬということなのだ。
大臣は輔弼の責任をもっている。
陸軍大臣がどういうつもりであるとしても、
海軍大臣としてはご辞退申し上げる」と答えたというくだり、
年少にして身を海軍に投じ、
五十年勤め上げてきたその帝国海軍の葬送の役を果たすことを、
自分の最後の使命と米内が観じて、
医務局長に、「自分の健康は大大臣がつとまるか」と訊ねた上で、
淡々として終戦処理の東久邇内閣の海相に留任するくだりなどは、
読んでいて私は涙をもよおした。
実松さんには、私は、過般、
山本五十六伝を執筆の際、多くの助言と資料を与えられた者であり、
旧海軍での階級秩序は言わぬとしてもはるかな先輩であり、
このような文を草するのは順逆を誤るものではないかと思うが、
乞われるままに感想を誌して序に代える。

開戦後帰国してからは軍令部出仕とあります。
実松さんはアメリカ担当の情報参謀。
国内での捕虜の扱いは陸軍が担当です。
でも情報が欲しいんで、陸軍に渡す前に大船で尋問するんです。
このときに捕虜から情報を聞き出したりしたことがあったため、
東京裁判に引っかかっって
実松さんはけっこう長く巣鴨に入っていました。

米内光政正伝


凡将山本五十六

井上さんは、山本さんのことを一手も二手も先を読んでる人と言っていました。
頭脳明晰、かみそりなどと呼ばれ、『新軍備計画論』などを表わした井上さんがこう言うんです。
その井上さんの教え子である生出寿さんが、
『凡将山本五十六』などという題名の本を書いていいのでしょうか。
とはいえ、山本さんを評した言葉に「統率は申し分なく立派、作戦は落第」などというものも残されていまして、かなり極端な得手不得手があったように思えます。

「山本に半年仕えれば、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろう」などという評価もあります。
そんな人が、部隊の視察中に暗殺されたわけですから、亡くなられたことで神様になっちゃった。
ここが、山本さんの評価が偏ったままの理由なんだと思います。
生出さんは、こんな本を書き、海軍反省会にも顔を出しておりまして、こんな自己紹介をしています。
「浅学非才で、海軍の経験も全くないわけでございますが、ただ、私等が何かを書くとしましたら、先輩方は直接身近におられた方々のことで、遠慮なさっておられるようなことを、私はあまり遠慮することがありませんので、勝手なことが書けるというところがあるんじゃないかというふうに、私は思ってるわけです。そうだといって、でたらめ書いたらしょうがありませんが、間違ったことを書かなければ、やはり思い切って自分がそうだと思ったことを、書いていいんじゃないかということでございます」
生出さんは74期ですから、卒業が昭和20年弥生の30日。本来であれば、卒業後に練習艦隊にて訓練を受けるわけで、生出さんの言う「海軍経験がない」は、謙遜というよりは実感であったと思います。

凡将山本五十六

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
情に流された長官人事
職を賭せない二つの弱み
「真珠湾攻撃」提案の矛盾
井上成美の明察と偏見
退任延期
対米戦開始へ陰の加担
錯誤にすぎなかった真珠湾の戦果
山本五十六の世論恐怖症
珊瑚海海戦への侮り
ミッドウェー海戦前の密会
目も眩むような凶報
航空偏重が日本敗戦の根本原因
暗殺説と自殺説
あとがきにかえて

山本さんは、軍政畑を歩いた人で、
軍令部に務めたことはありません。
司令官も第一航空戦隊の司令官を一年ほどやったのみです。
それがいきなり連合艦隊司令長官になっちゃった。
これには訳がありまして、
海軍次官の時に三国同盟に反対して命をねらわれていまして、
米内さんが心配して海に逃がしたんです。
そこからずうー――と、連合艦隊司令長官。
これも、ジツは異常で、通常長くて二年です。
この二年が開戦の年の葉月で、本人は替われるものと思っていました。
いよいよ戦争ということで替えにくいという考え方もあるかもしれませんが、
日露戦争時のことを思えば、断固変えるべきでした。

日露戦争では、開戦四ヵ月前に司令長官が替わっています。
東郷さんは、四ヵ月前に替わったんです。
替えたのは山本権兵衛海軍大臣。
替えられたのは日高壮之丞中将。
この二人は竹馬の友で、山本さんは日高さんの性格を危ぶみました。
「お前は非常に勇気があって、頭もずば抜けていい。たが、自負心が強く、いつでも自分をださないと気がすまない。司令長官は大本営の指示通りに動いてもらわねばならない。ところがお前は気に入らぬと自分の料簡をたてて中央の指示に従わないかもしれない。東郷はお前より才は劣る。しかし、東郷にはそういう不安が少しもない。中央の方針に忠実であることはまちがいないし、また臨機応変の処置もできる」

東郷さんはこの二人よりも先輩です。
舞鶴鎮守府の司令長官で、退役を待つような立場の人でした。
相当な反論もあったようですけど、山本権兵衛さんは断固東郷さんでぶれませんでした。
これを及川古志郎に望むのは酷ですし、そんな決断ができるのであれば、陸軍に引き摺られて開戦になることもなかったでしょう。

日高さんの更迭が、上記のような理由であったのなら(諸説あり)、
山本五十六続投は、最悪の結果をもたらしたといえます。
山本五十六は、真珠湾攻撃をやらせてもらえないのなら、長官を降りる!といって大本営を脅しました。
ミッドウェー攻略も、軍令部は反対で、山本が押し切って進めた作戦です。
中央の指示に従わない司令長官だったのです。

それでも、山本五十六さんは人気があるんです。
『山本五十六物語』は書いてみたいですね。

凡将山本五十六

最後の海軍大将井上成美

井上さんは、大将になることを
文書にして拒みました。
「大将進級に就き意見」
「当分海軍大将に進級中止の件追加」
「当分大将進級を不可とする理由」などです。

昭和20年になってから、米内さんが内示をしたんですね。
で、その場で辞退したんだけど口頭ではなぁ。と、
文書にしたわけです。
それでも米内さんは井上さんを大将にします。
「陛下が裁可されたから」と、
井上さんとしても、これは拒絶できません。

そんな分けで、大将になるのは五月まで延期されました。
井上さんと同時に一期先輩の塚原二四三さんも大将候補にあげられていました。
井上さんが固辞し、しかも、次官として、この時期に大将をつくることそのものに否定的な文書を出しておりますので、「井上のセイで・・」と、塚原さんは嘆いていたようです。
大佐の時から塚原さんと井上さんは同時に上がっていますから、
中佐に先になっている一期先輩の塚原さんの方が先任者。
そんなわけで、大将の名簿を書いた場合、井上さんが一番最後にきます。

最後の海軍大将井上成美

宮野澄 〈文藝春秋〉

序 章 雨脚のはげしい日に
第一章 人ノ美ヲ成ス人生を
第二章 かわい気のない男
第三章 昭和の動乱の中を
第四章 敗戦の歴史とともに
第五章 教育者としての道を
第六章 名コンビも崩れて
終 章 逼塞生活に徹して
 あとがき
 参考文献
 青年士官教育資料 井上成美

井上さんは13人兄弟の下から二番目で、
「井上家は秀才ぞろい」と評判が立つほどであったそうで、
長兄の秀二などは、中学の時、あまりに頭が良すぎて教師たちの反感を買い、将来慢心のあまり社会を甘く見てはいけないなどと理由をつけられて、一年落第させられています。そして、落第させられても卒業を待たずに高等学校へ入学し、京都帝国大学へ進んでいます。

井上さんは教育者で、軍人には向かなかったといわれます。
四艦隊長官として指揮した珊瑚海海戦での評判がよろしくないわけですが、
珊瑚海海戦に関しては、かなり井上さんにとって不利な状況が重なっています。
その点に関してはこちらを参照。
      ↓↓↓↓

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈中〉

まぁ、不利な状況の中であっても、
たとえば小澤さんや草鹿さんであったらどうだったか、
こういう見方をしたときに、戦況が変わったようにも思います。

井上さんは、実際に決断力・実行力もありますから、
「腰抜け」という部類ではないんです。
ただ、実戦を指揮するには人が優しすぎたような気がします。

開戦には全力で反対し、終戦工作をした人ですし、リベラリストです。
では、九条信者のような人だったんでしょうか。
まったく違います。
「国が独立を脅かされたときは、とにかく立つ。そのためには軍備というものが必要だ。国の生存を脅かされ、独立を脅かされた場合には立つ。そのかわりに、味方をつくっておかなけりゃいけない。自分じゃ勝てない。正々堂々の主張をするならば味方ができる、とわたしは考えています。弱い国を侵略してそれを征服して自分のものにしようということをする者は、必ずほかの国の批判にあって、みそかの晩の金勘定の清算をさせられる時が来る、と思う。軍備というものはいらないじゃないか、戦争しないのなら。そういう意味じゃないですね」
これは、加藤友三郎大将がワシントン軍縮会議で
10対6の割合をのんだときの、
「あれでよかった」よかったんだけど、軍人としては悔しかったんですよ。
でも、国力が小さいってことはそういうものでね。
というお話の中での国防、軍備に対する井上さんの考えです。

このころ、山本五十六さんや古賀峯一さんなどの割合に対する考えは、こんな感じ。
「日本が米英の10分の6に抑えられたと考えるべきではない。国力からいっても、国土の広さからいっても、アメリカとイギリスが日本に対して6分の10で我慢していると見るべきだ」

もうひとつ、井上さんが皇族、伏見宮様をどう見ていたか。
「宮様はね、一番先に話をもっていって、これはこうしたほうがいいと思いますというと、すぐその気になってしまう。一番先に乗り込んだものが宮様に取り入って、結論を出してしまう。宮様の扱いはよほど気をつけないといけない、自分の正しいと思うところにもっていこうと思ったってできないよ。宮様というのは、そういうふうに育っているのだから仕方がない。下の者が持ってくる問題をよきに計らえということになる。それに対して、ハテナという疑いを持とうともしなければ考えてみようともしないんだからね。だから、自分で考えろと要求する方が無理で、むしろお気の毒ですよ」

最後の海軍大将井上成美

昭和最高の海軍大将米内光政

『「東京裁判」を読む』を読んで、
興味を覚えた人が三人います。
米内光政、井上成美、石原莞爾。
この順番。
本屋さんに行きましても
なかなかないんですね。
石原さんはあったかな、今もたくさん出てるから。
そのころは池袋に住んでいましてね。
たまたま西口公園で古本市をやってたんです。
古本を買う習慣はありませんで、
どうやって探したものか、、、と
まぁ、なんとなくその
戦記物って言葉すら知りませんでしたけど、
そういう関連が並んでる本屋さんがありまして、
さぁーッと眺めながら歩いてました。

目にとまったのが『城をとる話』
司馬遼太郎です。
ボクは、司馬遼太郎さんの小説は
すべて読んでいるつもりでいましたから
「ん?」
とりあえず手に取りまして、
やはり読んでないな、、。
でも、これは映画のために書いた小説の模様。
まぁ、古本屋さんで買い物したことがないというのも手伝ってか、
元の位置に返しました。
その隣にあったのがこの本なんです。

昭和最高の海軍大将米内光政

生出寿 〈徳間文庫〉

まっ、この出会いを祝して
司馬さんの本も買いました。

  目次
国を誤る曲解
火種の軍縮条約
領袖の陰謀
陸海軍首脳の邪念
司令長官の明断
謎の海軍大臣就任
支那事変拡大の序幕
金魚大臣
一変
近衛首相のテロ恐怖
「敵は海軍なり」
天皇の感謝
生きた英雄
英国に勝てないドイツ
米内内閣の総辞職
狂踊
海軍の武断派
山本五十六海相案
開戦は人為的結果
受身の哲学
栄転につぐ栄転
東条内閣を倒した老人
異例の海軍大臣復帰
鈴木首相の韜晦
陸海軍死生の対決
生涯最良の日
初刊本あとがき
参考・引用文献
解説 小綿恭一

この本を読んでから、
興味は井上成美さんの方に向かいました。
ただし、あまりないんですよね。
井上成美さんに関する本が、です。
それで、とりあえず、しばらくの間は
この作者、生出(おいで)寿さんの本を
古本屋で見つけては購入するようになりました。
生出さんは海軍兵学校の第74期生で、
井上成美さんが
校長になってすぐに迎え入れた生徒の中の一人です。

ボクには、こういう癖があります。
というのは、気に入るとその作家の本をひたすら読むんです。
生出さんは、どこか叛骨的な感じがあって、
皮肉っぽい言い方をしたりするところが
自分に合っていたんでしょう。

司馬遼太郎さんの小説はすべて読んだといいましたが、
これ、膨大な数で、
読書家と間違われるんですが、
ジツは、司馬遼太郎さんの本しか読んでいなかったんです。

ですから、幕末や戦国でしたら
ついて行けるんですが、
近代って言うんですか?
まったく分からないんで、
登場人物が覚わらない。
海軍の人の名前はもちろん、
陸軍も分からない。
2・26事件の話がいきなり出てくるんですけど、
まったく分からない。
それで、頭の中を整理するつもりで書き始めたのが
こちらでした。

生出寿著・米内光政

生出さんの力作でしょうね。

226といえば、映画がありました。
五社さんの映画(1989年)だったかな。
超豪華キャストで、
見たときのボクの感想。
何が言いたいのかな。(映画に対して)
どちらかといえば、
クーデターを犯した将校に対して
同情的なんですけど、
ボクは、その背景を知らなかったから、
違和感がありました。

生出さんの本を読んで、
より不思議に思いました。
この本は、鎮圧部隊をすぐに送り出した
横須賀鎮守府司令長官の米内さんが主人公なんです。
そして、その参謀長として井上成美さんが仕切ったんです。
背景の説明はありますが、
ストーリーとしては反乱将校が悪者役ですからね。

陸軍上層部が「決起部隊」という表現をしていた時に、
米内さんは「反乱軍」と、何の躊躇もなく言い切っている
ということを評価する文章になってるんですから。

ボクは、226については、
陸軍が地元意識が強く
決起した将校たちはその小隊長や中隊長が多く
農村で苦しむ兵たちの家族の境遇を
切実に思った人たちであることは認めます。
しかも、陸軍上層部の一部にそそのかされたようなものです。
ですが、私に兵を動かしたわけですから、
「反乱軍」です。

そして、この最大の原因をつくったのは、
海軍将校が主体となった5・15事件の
甘すぎる判決にあったと思っています。

昭和最高の海軍大将米内光政

皇大神宮

我が皇祖皇宗

皇大神宮は天照大神をお祭り申してあるお宮でございます。
此のお宮は伊勢の宇治山田市神路山の麓、五十鈴川の清い流れに沿い、千年の老樹の茂った中にいとも尊く厳かに鎮まっていらせられます。
(以下絵の説明)
図の左手に御門、右手奥に正殿がお見えになります。その御模様を拝すると、御屋根は神代ながらの茅ぶき、御柱などは檜の白木をお用いになっています。棟には鰹木を並べ千木を高く打ちちがえ、すべて上古の様をかえないで飾少なくしかも神々しきお造りで、誰でも覚えず頭が下がります。
(以上)
天照大神は皇室の御祖神であらせられますから、皇室の此のお宮様を御大切に遊ばされることは一方でございません。
常々は御名代の宮様をきめて祭事に仕えさせられ、神嘗祭などには特に勅使をお指立てになり、また皇室国家の大事は必ず御報告遊ばされます。
明治天皇の御製に

とこしえに民やすかれといのるなる
わがよをまもれ伊勢の大神

とあります。
以て御尊崇の厚いことがうかがわれます。
勅語に皇祖皇宗とは皇室の御先祖の方々、即ち天照大神を始め奉り以後御代々の神々、御代々の天皇を申されたのであります。
大神は伊勢にお祭り申上げ御歴代にはそれぞれお宮や御陵があらせられますが、更に宮中にては大神を賢所に御歴代を皇霊殿にお祭りして折々の御祭典をいとも厳かに行わせられます。

伊勢神宮

昭和19年文月の26日、兵学校の校長官舎に、海軍大臣秘書官岡本功から電話がありました。
「大臣がお会いしたいといわれています。31日午前8時に海軍省においでください。なおご参考までに申し上げすが、大臣は29日、海軍大臣就任報告のため伊勢神宮にご参拝になり、その晩は京都の都ホテルにお泊りになります」
「それではその晩、京都でお目にかかることに願いたい」
このときの大臣は米内光政。
兵学校校長は井上成美です。
海軍兵学校は広島にあります。
わざわざ東京に出るよりは京都で、ということです。

京都ホテル
「おい、やってくれよ」
「なんのことですか」
「次官だよ」
「冗談じゃありませんよ。私の政治嫌いは先から御存じでしょうに。私には政治を離れた江田島の方が、よほどいいです」
「ううむ、困ったなぁ。他に人がいないんだよ」
「それは、あなたが人を知らないからですよ。第一、あなたは私を買いかぶっていますよ」

東條英機が内閣を継続できなくなり、重臣会議で朝鮮総督の小磯國明が首相に推薦されたわけですが、近衛が、米内にあんたも一緒にやってくれと言い出すんです。そして、副総理格として海軍大臣に就任します。

井上成美は、米内の横須賀鎮守府司令長官時の参謀長で、2・26事件のときに迅速な処置をして米内を援けています。
平沼内閣時、米内は海軍大臣、井上は軍務局長として三国同盟を阻止しました。

山本五十六さんは、開戦前の海軍大臣人事について「どうして井上にしないんだ」と憤激しました。井上だったら東條と言い合っても勝てる、と信じていたようです。

その井上さんは、次官就任一ヶ月足らずで、終戦工作を内密に始めることを米内さんに宣言します。

長くなりましたが、ここでお伝えしたかったのは、米内さんは大臣就任に際して伊勢神宮に報告に行くんですね。

米内さんだけじゃないんです。

昭和16年霜月の6日、広東の今村均将軍に陸軍大臣から電報が届きます。

「貴官は、今般、第16軍司令官に親補せらる。明7日、中央より特派の飛行機により上京、後任の酒井隆中将に業務の引継ぎを行なうべし」

今村さんは、第16軍がどこの部隊かも知らず上京します。

第16軍は蘭印に向かうことを知らされ、日米交渉は決裂し開戦となります。

今村さんは、幕僚とともに伊勢山田の陸軍飛行場に降り、体をぬぐい、服装を正し、自動車を走らせて皇大神宮に向かいました。

西行法師の
何事の おわしますかは 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる

を思い起こし、こんなの句を読んでいます。

何事の 故とも知らで 涙せる
法師の如く 廟にぬかづく

大臣になるとか、
司令官として出征するとか、
国を背負って衝に当たるとき、
皇大神宮にご報告に行くのは
当たり前のことだったんじゃないでしょうか。

オリンピック選手団って
マスメディアが報じないだけで、
伊勢に出向いているんですかね。

井上成美の遺言(予告編)

  目次

イントロダクション

 戦後の井上さんの姿勢
 兵学校校長井上成美中将
 石塚栄氏の訪問
予告編
 直接接点のない二つの頭脳
 二つの海軍軍縮会議
 クビをかけた二つの信念
 二・二六事件
 米内、山本、井上トリオ
 海軍首脳の無責任ぶり
 開戦
 兵学校校長へ
 東條内閣の更迭
 米内、井上、高木ライン
 終戦
 長井へ
あとがき
参考文献

兵学校校長井上成美中将
・・・当時は、英語を敵国語として、カレーライスを「辛味入り汁かけ飯」などと言わせていた時代です。
陸軍では、士官学校の試験から英語を外すことになりました。
アメリカは日本と戦争になると、日本や日本語の勉強を始めます。どっちが勝つかはこれだけで分かりそうなものです。
が、海軍兵学校の話。
教頭司会による教官会議が開かれます。英語科教官以外はみんな陸軍にならえです。陸軍追従というよりはもっと切実で、英語を嫌って秀才がみんな陸軍に行ってしまう。と、こう考えたようです。
教頭「これでよろしいでしょうか」と井上さんに決済を求めます。
「兵学校は将校を養成する学校だ。自国語しか話せない海軍士官など、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわん。外国語一つもできないようなものは海軍士官にはいらない」
さらに、「英文和訳なんぞ、ダメだ!」と、英和辞典を廃止、英英辞典を全生徒に使わせる、というずいぶん本格的というか思い切った方針をとります。・・・

Amazon Kindle 井上成美の遺言(予告編)