悪魔的作戦参謀辻政信

「稀代の風雲児の罪と罰」という副題がついてます。
まぁ、越権行為は陸軍の専門特許ですから、
いや、それにしても、この人はひどかったみたいです
ただ、ボクの印象では黒島亀人なんかに比べたなら
アイディアいうか着眼というか、いいものを持ってたと思いますね。

第25軍がコタバル上陸を言い出しますが、
これ、この辻政信が提案したんです。
身の危険を冒して偵察にも出ています。
ただ、山下奉文さんはこう書き残しています。
「この男、やはり我欲強く、小才に長じ、いわゆるコスキ男にして、
国家の大を為すに足らざる小人なり。使用上の注意すべき男なり」
なんだか、ピッタンコって感じ。

悪魔的作戦参謀辻政信

生出寿 〈光人社NF文庫〉

  目次
第一部
 奇襲電撃作戦
 機略縦横
 最前線の一匹狼
 英軍最後の部隊
 真の勝利
 悪魔の仕業
第二部
 東條と辻と
 功名に走る男
 奇怪なる事実
 杜撰なる敵情判断
 賭け勝負の思想
 責任転嫁
第三部
 東奔西走
 参謀本部への栄転
 近衛首相爆殺計画
 滅亡への道
 惨憺たる結末
 参謀の資質
 全滅の責任
 時代の寵児
  文庫版のあとがき

陸軍の参謀といえど、参謀には指揮権はありません。
ただし、ややこしいのは、派遣参謀。
派遣されてきた参謀は、その前線の上部組織から来ますから、
だからといって指揮権があるわけではないんですが、
辻はやったんです。
ノモンハンで作戦主任の服部卓四郎の下、いろいろやらかしました。
その辻が、山下奉文さんの第25軍の作戦主任参謀となります。
参謀本部作戦課長であった服部が、
課の戦力班長であった辻を推薦しました。
山下さんのような戦略家で勇猛な指揮官に、
辻をくっつけたら鬼に金棒だろう。と、
一部長も次長も参謀総長の杉山元までが適切と判断し、
陸相の東條さんが賛成して実現したものです。
朝枝繁春さんは、ノモンハンのときの
辻の立場で、辻の下につきます。

辻が第25軍にやってきたのは山下さんよりも前です。
司令官は飯田祥二朗中将。
小澤治三郎さんと仲のいい陸軍将官です。
人柄の優しい人で、参謀たちがダラけてました。
その様子を見て辻が意見具申するんですね。
ダラけ具合がどんなものかといいますと、
「日本の将校さんたちは、女郎屋へ通うのに、
 堂々と軍の車に乗り、入り口に番兵を張り番に立たせている。
 フランスの将校も女郎屋へ行かないこともないが、
 平服で、人目を忍んでいく。これでは日本は負けるにちがいない」
ハノイの現地人のメイドの言葉です。
「ぜひとも司令部の軍紀を粛清すべきである」
こういうこと言う人です。
満州でもやってます。
今村均さんが関東軍参謀副長をしていたころ
今村さんに直談判しています。
「公費での飲食は禁止すべき」
上の人間は、こう言ってもらうとやり易いですよね。
そんなわけで、敵もつくるんですが、
急速に上司に近づきます。

しかし山下さんなんかには、すぐにバレちゃう。

後ろにいるときだけ威勢のいいヤツっていますけど、
辻は、それとは違います。
やるときはやります。

たとえばコタバル上陸。
このアイディアを実現させるために
辻は自ら偵察に出かけています。
開戦前の神無月です。
「明日、南部タイと北部マレーを飛んでみたいが、やれるか」
「はい、飛びます。参謀殿がいかれるなら、わたくしが操縦します」
「そりゃあ、ありがたい。じゃあ、日の丸を塗りつぶしておいてくれ」
「わかりました」
無断で他国の上空を飛ぶわけですから、
発見されれば戦闘機がやってきます。
戦闘機に追われれば、まず生きて帰れない。
二つ返事のこの偵察将校も立派ですが、
辻は弾雨を恐れる参謀ではありませんでした。

シンガポールが落ちると、辻は参謀本部に復帰し、
待望の作戦課作戦班長に就任します。
そして班長補佐の瀬島龍三を随えマニラに飛びます。

辻は勝手に捕虜を殺せって軍命令を出します。
141連隊の今井武夫連隊長や、
第10独立守備隊の神保信彦高級副官などは、
本間雅晴軍司令官がこんな命令を出すわけがない。と、
確認につとめ、
142連隊の藤田相吉連隊副官は
「わたくしを軍法会議にかけてください」と、
ガンとして拒絶しています。

辻は、どこに行ってもこういう勝手な命令を出すんです。

辻政信、のちには国会議員になっています。
讃えられるべき功績もあったのでしょうが、
こういう品位のない人間を、重い仕事に就かせてはいけませんね。

悪魔的作戦参謀辻政信


特攻長官大西瀧治郎

海軍の将官で、腹を切ったという人は、
あまりいないように思います。
飛行機で突っ込んだ宇垣纒さんなんかは、
部下も連れて行ったということで批判を受けたりしています。

戦後の裁判なんかでも、
海軍で死刑になった将官は、
南方の根拠地隊の司令官だった阿部孝壮さんとか、
インド洋で敵交通線破壊作戦で商船を拿捕した
第16戦隊司令官左近允直正さんとかが、
捕虜の取り扱いで死刑を宣告されたというのはありますが、
東京裁判で死刑になった海軍軍人はいません。

海軍が司法取引をしたんじゃないか。
こういう考え方もあると思います。
もう一つ言えるのではないかと思うのは、
アメリカ側も陸軍と海軍は違いますから、考え方が違う、
それと同時に案外海軍というだけで世界共通認識があったんじゃないか、
そんなことも働いているような気もします。

さて、大西さんが全部をひっかぶって腹を切ったおかげで、
ある程度知らん顔した司令レベルの人たちが居ます。
だいたい宗教家になってます。仏教なりキリスト教ですね。
純粋に部下の供養のためにそういう身の処し方をした人っていたのかな。
勝手な想像ですけど、己自身が帰依したのではないだろうか。

陸軍にはいましたね。
何度も何度も特攻を志願した教官が。
藤井一中尉は妻帯者ですし、特攻は許されません。
そのとき妻のとった行動は、子供たちを連れての入水自殺でした。
これで心置きなく行けるでしょう。と、遺言を残して。
ここで軍も事情を酌んで、やむなく許可します。

海軍では、こういう方が話題に出てきませんね。
この本で生出さんはこんな紹介をしています。
「神風特別攻撃隊の戦死者2524名のうち、
 佐官は神雷部隊隊長野中五郎少佐(61期)唯一人である」
この野中さんは、二・二六事件の
中心人物とされた野中四郎さんの弟さんです。
「兵学校出身者は、69期が3名、70期が10名、
 71期が30名、72期が42名、73期が25名である」
「敗戦にあたって、特攻隊の戦死者に対して謝罪し、
 自決した関係将官、佐官、尉官は、大西のほかに見当たらない」

特攻長官大西瀧治郎

生出寿 〈徳間書店〉

まえがき
体当りをやるほかない
「死の踏絵」を踏まされた甲飛十期生
指揮官関大尉は予定の人身御供
大西長官の特攻訓示に感銘せず
玉井副長、中島飛行長と、特攻隊員のズレ
芸者を殴り海大失格という真相
「国を以て斃るるの精神」に傾倒
「戦闘機無用・戦艦無用論」の代表
奥田司令、身代わりで死す
参謀長ではなく乱暴長
乗せられた蛮勇の将
「特攻教」教祖と化す
負けて目ざめることが最上の道
米内海相の人形芝居の人形
二千万人特攻か降伏か
あとがき

昭和19年長月の末ごろ、台南空で搭乗員総員集合がかかった。
高橋俊策司令は「妻帯者と一人息子はここから出るように」と言った。
しかし、誰も出ていかない。
誰もが、そろそろ特攻が始まるということを知っていたためで、
四ヵ月前に結婚したばかりの関行男大尉も出ていきませんでした。
「海軍はいよいよ特攻をやることになった。
 志願するものは、あとで、上司に直接志願書を出してもらいたい。
 ただしこれは、あくまでも志願である」
関さんは「特攻志願書」を寺島美行飛行長に提出しました。
その後すぐ、関さんは201空に転属になります。
201空は、戦闘機の部隊ですが、関さんは艦爆乗りです。
201空には気力充分技量抜群の菅野直大尉がいました。

生出さんは『神風特別攻撃隊の記録』(猪口力平・中島正著)などを
引きながら、このような推察をしています。
ちなみに、猪口は当時の第一航空艦隊先任参謀、中島は201空飛行長。
201空の副長玉井浅一は猪口とは同期です。
そして、第一神風特別攻撃隊員は、すべて
この玉井副長の子飼いの第十期甲種飛行予科練習生だそうです。
「さて、指揮官をだれにする」となったとき、
菅野がいれば。。。というわけですが、
菅野大尉は、飛行機を受け取りに内地に行っていました。
この任務を受けたとき、菅野大尉は拒みます。
そろそろフィリピンで大戦があることは想像がついていたからです。
ところが、中島飛行長が「お前だけ戦地が長いから」と、
いろんな理屈を付けて強引に追い出しましす。

生出さんはこう言うわけです。
「『神風特別攻撃隊の記録』では、
 たまたま菅野が内地に飛行機を取りに行っていたような
 言い方をしているが、はじめから菅野を残すために内地に送り、
 他所から艦爆乗りの関を持ってきたのではないか」


特攻で散華された英霊の皆さんの尊い思い、意思を考えると、
それを指揮した人たちに対しては、
どうしても厳しい注文をしたくなってしまいます。

特攻長官大西瀧治郎

井上成美のすべて

執筆者は、半藤一利、野村実、千早正隆、
大井篤、深田秀明、妹尾作太男、生出寿。

半藤さんと言えば、ボクには長老のイメージだけど、
この中に入っちゃうと小僧ですよね。
他はみんな海軍兵学校出てるから、
半藤さんの年は、戦争に駆り出されない世代の年長かな。

野村実(71期)、防衛庁の戦史室戦史編纂官をしてらして、かなり多くの海軍に関する著作のある方です。現役時に、小沢治三郎さんとも直接会話を交わした最後の世代くらいになるんじゃなかろうか。

千早正隆(58期)、終戦時は連合艦隊参謀。小澤さんの参謀です。GHQの戦史室調査員になったことなどから、『トラトラトラ』を訳したりしてます。千早猛彦さんのお兄さん。

大井篤(51期)、このクラスは終戦時は大佐ですから、司令や課長など重い役職についています。大井さんは海上護衛総司令部立ち上げ時からの作戦参謀。高松宮様の日記が発見されて、妃殿下から委嘱を受けて整理閲読にあたったのが、この大井さんと同期の豊田隈雄さんでした。

深田秀明(73期)、井上さんが送り出した最後の卒業生クラス。井上成美伝記刊行会の代表。

妹尾作太男(74期)、この期は井上さんが校長になって最初に迎え入れたクラスです。ということは、井上さんの同期である前校長草鹿任一さんとは、現役時は縁がなかったはずですが、草鹿さんの晩年は縁が深かったようで、草鹿さんの伝記刊行会の幹事をされています。

生出寿(74期)、妹尾さんと同期。
妹尾さんも本を書いたり訳したりしていますが、生出さんは完全に作家ですね。ボクの海軍軍人へのとっかかりは、この生出さんでした。

井上成美のすべて

〈新人物往来社〉

  目次
井上成美アルバム
昭和海軍のなかの井上成美
            半藤一利
珊瑚海海戦は果たして失敗だったか
            野村実
情報・戦略に見る井上成美
            千早正隆
昭和海軍の軍政と井上成美
            大井篤
教育家としての井上成美
            深田秀明
アメリカ海軍が見た井上成美
            妹尾作太男
井上成美エピソード抄
            生出寿
井上成美略年譜
執筆者略歴

野村実さんが珊瑚海海戦を解説してくれています。
従来、井上は戦が下手だ。と、
さんざんな言われ方をしていますが、
情状酌量の余地あり、と言ってますね。

野村さんの意見は本を読んでいただくことにして、
井上成美の遺言:海軍兵学校第37期編〈中〉
で触れたこともあることですし、
ここは、ボクが弁護側として訴えることにします。
珊瑚海海戦の現場指揮官は高木武雄さんで、
航空戦の指揮に関しては第五航空戦隊司令官の原忠一さんでした。
そして、もうひとつ参加した部隊があります。
山田定義さんの第25航空戦隊で、
この部隊は井上さんの指揮下に入らず、
もともとの上司、第11航空艦隊司令長官の
塚原二四三さんの指揮下のままです。


さらに、井上さんの第四艦隊の参謀をしていた
土肥一夫さんが海軍反省会でこういう証言をしています。
「あの作戦は、まったく事前の打ち合わせができていなかった」
実際原さんの部隊がトラックに来たのは卯月の25日、
皐月の1日には出撃しています。
土肥さんの言葉を借りれば、
「参謀が飛行機で駆けつけて打ち合わせただけで」
図演などもやってないわけで、即席の寄せ集めなんです。


作戦が始まってからも、
井上さんが、連合軍側の基地航空部隊を
たたくことを強く求めますがゴネます。
そのやり取りを聞いてた連合艦隊の方が、
ミッドウェーのことがありますから、
それまでは航空機を温存しておきたくて、口をはさんできます。
戦闘に入ってからも、敵部隊を2つ発見して、
井上さんが西の部隊へ行けって言ってんのに現場が従ってません。
山田さんにも要請はしてますけど、指揮権がないから、
命令は出せず、サボられています。


そして、問題の「北上せよ」ですが、
土肥さんが言います。
「味方の飛行機が返ってきて着艦が始まったとき」
土肥さんは総攻撃の命令を書いて
井上さんのところに持っていったそうです。
「君、これ間に合うかい」
こう言われたというんですね。
土肥さんとしては状況は分かりませんが
行くしかないと思ってますから、
「間に合います」って言うわけです。
井上さんはサインをくれたそうで、
それを暗号室に持って行ったんだけど、
5分もしたら暗号室から、
原さんから「北上す」って電報が来た。と、
時間を見ると30分前に発令してる。
その時間を考えると相当北にもう行ってる。
それで、井上さんは「北上よろしい」という意味で、
「攻撃を止め、北上せよ」という電報を打ったというんです。


前線指揮官として、井上さんが向いていなかった。
これは、ある程度言えると思います。
井上さんは、軍政一筋みたいな海軍生活をしてきました。
小澤さんのように中佐時代から先任参謀として
戦隊の指揮を切り盛りしてきたような人だったら、
違う結果もあったでしょう。
さらに、このときの四艦隊の参謀も、
参謀長、先任参謀が共に優秀な能史型
の人だったそうです。

別の点でいいますと、
この時点で海軍の暗号は取られています。
そして、それまでの日本海軍が築き上げた戦歴
(真珠湾奇襲やマレー沖海戦)とは違い、
敵は準備を整えて臨んできていたという点。
中央は、この点を抜きにして、批判しているように思えます。

野村さんは総括でこう言っています。
戦術的な失敗の責任は、高木、原、山田にあり、
戦略的には塚原を指揮できる立場にあった山本に大半がある。


井上成美のすべて


捨身提督小澤治三郎

ミッドウェー海戦のとき、
連合艦隊司令部より真剣に戦況を注視していた人がいました。
南遣艦隊司令長官であった小澤治三郎さんです。
第一航空艦隊ができたとき、
司令長官は南雲さんよりも小沢さんがなるほうが自然であった。
そんな見方をする人が多いんです。
ジツは、航空艦隊(または機動艦隊)を作るべき
と提案したのは、この小澤さんだったんです。
しかし、日本海軍の人事は年功序列でいきました。
南雲さんも小澤さんも水雷で、南雲さんが一期先輩です。

小澤さんは南遣艦隊司令長官として、
陸軍のマレー作戦に多大な貢献をしました。
陸軍ではシンゴラ、パタニー(共にタイ)と同時に
コタバル上陸作戦もやりたかったのですが、
これには護衛すべき海軍が反対したのです。
コタバルは英領マレーであり、
有力な飛行場があるため危険が多すぎるというものです。
しかし、攻める側の陸軍からすれば、
この飛行場が敵の管理下にあったのでは、
タイ上陸後の進撃がはかどりません。
中央の話し合いでは結論が出ず、
連合艦隊司令長官として参加した五十六さんが、
「現地の小澤がうまくやると思うんで・・・」
そんなわけで、現地司令官同士が話し合って決める。
という事になりました。
海軍中央は反対でしたが、
五十六さんは反対ではなかったのではないか。
でも、よくわからないし、小澤に任せとけば安心だ。
そんな感覚だったんじゃないでしょうか。
五十六さんは、「作戦は落第」の人ですから。

五十六さんは、軍政のほかは航空関係の仕事が多かったんですが、
部隊の長ではなく、教育や航空行政です。
それで連合艦隊司令長官になっちゃったもんだから、
参謀長も経験し、駆逐隊司令や戦隊司令官を歴任した
小澤さんに頼ることが多かったんですよね。

小澤さんは、コタバル上陸について考え、
これはやるべき。と判断し、できるか。を考え、
陸軍の25軍司令官、山下さんに対してこういいます。
「コタバルには第25軍の考え通り上陸作戦を実行されたい。
 私は全滅を賭しても責任完遂に邁進する」
こんなことがあったので、
陸軍の人は小澤さんのことをひどく尊敬しています。

では、小澤さんは陸軍との協調のために
何でも聞いたのかというとそうではありませんでした。
小澤さんにしてみれば、
コタバル上陸は勝算あってのことなんです。
戦闘が進み、さらに先に陸兵を送りたいので
護衛してほしいという注文がきたときは、
それは危険を冒してまでやる作戦ではない。と、
陸軍を説得しています。
陸軍に、このような交渉ができた海軍の人は、
他にはいなかったんじゃないでしょうか。

そんな小澤さんが、ミットウェー海戦のときは
南方の作戦が一段落し、やることがありません。
小澤さんの参謀などを務めた寺崎隆治さんの言葉をかりれば、
「飯より戦の好きな小澤さんは」
ミッドウェーの状況を無線で聞き、
戦況を地図に書き込むなどして過ごしました。
そして、こう言ったのです。
「これは、暗号が取られているぞ」
米軍の攻撃が、非常に計画的だというんですね。
その後軍令部の山本祐二さんが出張してきたんで、
小澤さんは調査を依頼しています。
「そういう心配は全くありません」
これが軍令部側の答えですが、
このときに認識を変えていれば、
山本五十六さんは暗殺されることはなかったはずです。
中央は今のヤクニンみたいな仕事ぶりだったんだと思います。

捨身提督小澤治三郎

生出寿 〈徳間書店〉

目次
まえがき
国運を担う南遣艦隊司令長官
全滅を賭したコタバル上陸作戦
開戦まえに英軍機撃墜
正解のマレー沖海戦
陸軍の山下奉文、今村均を支援
海軍の諸葛孔明を志す
水雷艇長で船乗り修行
水雷学校、海軍大学校の戦術教官
酒豪提督、「辺幅を飾らず」
永野長官と小沢参謀長の対決
山本五十六と「航空主兵」て一致
兵力激減の機動艦隊を率いる
“鬼がわら”の号泣
アメリカ主力機動部隊撃滅の戦法
敵にわたった軍機作戦計画書
飛べない空母飛行機隊
ニミッツの大謀略
無力化された陸上飛行機隊
攻める小澤、守るスプルーアンス
自分は死に場所をなくした
敵と耦刺を期す
源田実の「戦闘機無用論」
まじめに戦ったのは西村ひとり
ハルゼー艦隊を釣り上げる
大和の沖縄特攻は自分に責任あり
戦やめるらしいぞ
あとがき
参考・引用文献

捨身提督の「捨身」は、おそらくレイテ沖海戦での
ハルゼーを北方に釣り上げるためのオトリ作戦のことでしょう。
このときの小澤さんの任務遂行は、
アメリカ側の軍人、研究家から高く評価されています。

その小澤さんが評価したのは西村さんでした。
「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」
アメリカ側では非常に評価が低いです。
途中で引返した志摩さんの方がいい評価をされています。
この辺の考え方が、アメリカ的だと思う。
ただし、日本文化を深く理解したアメリカの研究者は、
西村司令官の行動を愚かとは言っていません。

レイテ沖海戦で、最大のポイントは、
栗田さんが引き返したことです。
でも、アメリカ側の評価では、
栗田さんは満場一致で否定されてはいません。
アメリカで、満点で非難されているのは、
豊田副武(連合艦隊司令長官)と、ハルゼーです。
そして、満点で高評価を得ているのが、
オトリ艦隊を指揮した小澤さんと
西村艦隊を壊滅させたオルデンドルフです。

第一航空艦隊ができたとき
南雲さんでなくて小澤さんなら、
という声は当時からあったようですが、
ボクは、小澤さん以外で、コタバル上陸作戦を
決意できた提督はいないと思っています。
このときの判断も、フリーではないんです。
海軍中央は、中央の考えを伝えるために
軍令部の航空担当の三代さんを派遣しています。
小澤さんは、それをはねのけて「やりましょう」と言ったんです。
これが言える人は、いなかったと思います。

真珠湾攻撃の功績を以て南雲さんをどこかに栄転させて
ミッドウェーを小澤さんで戦っていたら、
おもしろいことになっていたでしょうね。
こんなこと言っても詮無いんだけど、
小澤さんは、戦力をもぎ取られては戦わされたから、
充実した状態で一戦交えたかっただろうな。と、
なんか、その辺がボクにこれを訴えさせるんです。

捨身提督小澤治三郎

航空作戦参謀源田実

山本五十六さんは、真珠湾奇襲をしたくて
大西さんに手紙を書きます。
「開戦劈頭、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって痛撃し、当分のあいだ米国艦隊の西太平洋侵攻を不可能とする必要がある。目標は米戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易なことではないが、本職はみずからこの空襲部隊の指揮官となり、作戦遂行に全力を尽くす決意である。ついてはこの作戦をいかなる方法によって実施すればよいか、研究してもらいたい」
大西さんは、源田実を「相談したいことがある」と言って呼びつけると、この手紙を読ませました。

源田って人は、こういうの、好きなんですよ。
周りをアッと言わせるようなことね。
このときは第一航空戦隊参謀で、中佐です。

源田は素案を大西さんに提出し、
大西さんがまとめ上げて五十六さんに渡します。
ボクの想像ですが、
真珠湾攻撃のひな型はこのときにできてて、
黒島ってのちに特攻兵器ばかり考えてた先任参謀は、
これと言った独創性を付加したようなことはないんじゃないか。
そんなふうに思いますね。
こう考えたとき、源田には独創性はあったと言えるのではないか。

ただし、こんなことを同期の淵田さんに洩らしているんです。
「オレの案がスイスイ通ってしまう。このことが非常に怖い」
第一航空艦隊ができた時、源田は航空参謀になります。
長官は南雲忠一。
参謀長は草鹿龍之介。
先任参謀は大石保。
南雲さんは水雷、大石さんは航海。
草鹿龍之介は飛行機乗りではないんだけど、
周辺の勤務が多く、一応航空に明るいってことになってましたが、
下の意見を取り上げるってタイプの人で、
源田の意見がそのまま通るわけです。
「源田艦隊」なんて言われてたらしいですね。
中佐が艦隊を動かしちゃいけません。
本来であれば、中佐の判断と中将の判断とでは、
その深み重みが違うはずなんです。
源田という人はよく言えばチョープラス思考の人で、
思考的姿勢は頼もしいんですが、
最悪を想定した行き届いた作戦を考えるような
そういう幅には乏しかったんじゃないかと思います。
こういう点でいうと、
淵田さんの方が実務者タイプだったのではないかと思います。
その淵田さんを攻撃隊の総指揮官に、と
引っ張ってきたのは源田ですから、
自分の足りないところを
ある程度知っていたんじゃないかとも思えますね。

ミッドウェーでは惜しいことをしました。
ただでさえチョープラス思考なところに、熱を出してて、
細部にわたって目をやるってことができなかったように思います。
そして、頼みの綱である淵田さんは、
盲腸の手術をして寝てました。

源田って人は、自分のところに
いい搭乗員をそろえることに夢中になりましてね。
一期先輩の大井さんが、
「そんなに連れて行ってもらっちゃ困る。
後進育成のために教官にいいのを残しておかなきゃダメだろ」
そう言っても、あんたにゃ頼まない。ってなもんで
上の方にかけ合いに行っちゃうようなところがあるんです。
ボクのいうチョープラス思考っていうのは、
こういう意味を含んだ表現です。

そんな源田実を、
生出寿さんが批判的に書いたのが、この本です。

航空作戦参謀源田実

生出寿 〈徳間文庫〉

  目次
奇想天外
ハワイ奇襲に燃える
理想の名将
無我の境
幻の真珠湾第二撃進言
快勝また快勝
危うしインド洋作戦
乱れる連合艦隊司令部
その名も源田艦隊
東郷・秋山と山本・黒島・源田
摩訶不思議な主力部隊出動
不覚の敵情判断
山口多門の卓見
源田流用兵の破綻
大本営の誇大戦果発表
導師大西瀧治郎
マリアナ基地航空部隊の壊滅
最後の奇策「T攻撃部隊」
 初刊本あとがき
 参考文献
 解説 妹尾作太男

山本さんは、自らが率いて真珠湾攻撃をするつもりでいました。
「いざ開戦になったら、米内さんに復帰を願い、
 (米内さんはこのとき予備役です)
 連合艦隊司令長官になってもらって、
 自分がハワイに攻め込む」と、こんなことを
複数の人に手紙を送ったり言ったりしています。
ちょっとヘンテコな話ですが、事情がありました。
本来でいえば、着任してすでに二年を超えていましたから、
嶋田にでもあとを譲る。なんて思いでいましたが、
「今、山本さんに中央に来られては困る」
というのが、前のめりになってた課長級たちの思いでしたから、
たとえば「海軍大臣を」といったお声はかかりませんでした。

この時期もう一つ、持ち上がっていた話があります。
それまで第一艦隊は連合艦隊司令長官が直卒する。
という事になっていましたが、
第一艦隊司令長官を新たに設けて、
連合艦隊司令部は独立旗艦にしようという話です。
この話に乗じて、米内さんを連合艦隊司令長官に迎え、
自分は第一艦隊司令長官として前線に出る。と、
まぁ、こういう理屈でのハワイ攻撃参戦です。

もし、これが実現して、山本さんが自滅覚悟で
徹底的に真珠湾の基地そのものを壊滅状態にして、
その機を見て、米内さんが和平の話を中央に持ち掛けたところで、
中央が、幕引きを考えてなかったんですから、
どうなるわけでもありませんでした。
このダメージにより、
太平洋側の米海軍が足腰立たない状態になって、
反撃に移るのに何年かかかるようなことになったとしても、
その間に、マリアナ・カロリン諸島のラインで
敵潜水艦の出入りを完全にシャットアウトするぐらいの
シーレーンの確保を真剣に考え、実施しようとする人は
中央の要職にはいませんでしたから、
時期がずれるだけで、悲惨な結果になっていたと思います。

何が言いたいかと言いますと、
和平を真剣に考えたいのであれば、
米内さんは連合艦隊司令長官ではなく、
海軍大臣、せめて軍令部総長のはずです。
それなのに、山本さんは自分が暴れやすいように
直属の上司に米内さんが欲しかっただけなんじゃないか?
ボクは、こんなふうに思っています。

大西さんは、頼まれて真珠湾攻撃の原案を起案しましたが、
開戦間際になって「やめましょうよ」って、
山本さんのところまで出向いています。

大西さんの考えは、
「日本の力でワシントンを攻め落とすことはできない。
 となれば、いいところで講和に持ち込まなきゃならない。
 であるならば、アメリカ国民を刺激するような
 真珠湾攻撃なんてのはやるもんじゃない」
こんな考えでした。が、面と向かってここまでは言えず、
さすがの大西さんも言えなかったんですね。
で、大西さんはこのころ南方の航空部隊の参謀長ですから、
「南方作戦には母艦機を使わないと、戦力的に手薄です。
 ハワイに持っていくのは考え直してもらえませんか」
こんな言い方になっちゃった。
こういうのって「じゃあ、そこんとこ解消できたらオッケーね」
って言われちゃうと、詰んじゃうんですよね。

真珠湾攻撃っていうのは、
二重にも三重にも四重にも
結果的にいうと、やっちゃいけない作戦でした。
違う言い方をすると、
アメリカに、結果を最大限に利用された作戦でした。

でも、戦争ですから、戦闘的には成功は成功で、
帰ってすぐ、山本さんは
「勝って兜の緒を閉めろ!」って、
結構強い口調で言ってるんです。
これを司令官クラスがキチンと受け取っていれば、
おそらく暗号を取られていても、
ミッドウェーは勝っています。
そこを考えると、意識が全く違い過ぎたんだと思います。
当然です。
機動部隊は中佐が動かしていたんですから。
せめて、南雲さんの参謀長が山口さんか大西さんであったなら、
そんなことを考えちゃいますね。

航空作戦参謀源田実






勇断提督山口多門

官僚みたいな軍人ばかりだったのか。。。
こういう残念な思いにみなさんを浸らせる
そんなつもりで、書いているわけではないんです。

まぁ、当然と言えば当然なのかもしれないけど、
勇敢な方々は、より早く命を失っています。

山本五十六さんの暗殺に「GO」を出すとき、
アメリカ海軍でこんな会話があったとかなかったとか。
「もし山本を殺して、もっと優れた指揮官が正面に来たらどうする?」
「それは困る。しかし山口はミッドウェーで死んでるから大丈夫だ」

このような評価を受けていた提督がいたという点。
これはこれで注目すべきですが、
ボクは、このことから、
いかにアメリカが日本を研究し尽くしていたか。
こちらの方に驚きを感じます。
とにかく、アメリカは研究熱心です。
そして研究して、それを必ず実地に生かしますね。
真珠湾攻撃で航空兵力の重要性を知ると、
真珠湾に沈んだ古びた戦艦を見て、
あっ、この動かさなくていいんだから
このベテランたちを空母の方の人員に仕える!
こういうプラス思考をしますね。
ゼロ戦は化け物だな。
そう考えると、無理に戦うな、逃げろ!
なんて平気で指示を出す。
そして、墜ちたゼロ戦拾ってきて
分解しては、一生懸命研究します。

なんか、だんだん山口さんから離れちゃったけど、
そろそろ戻りましょうか。
山口多門さん。海軍兵学校40期です。
同期には山本五十六さんの参謀長で、
『戦藻録』を残した宇垣纒さん。
特攻作戦を最初に指揮した大西瀧治郎さん。
けっこう武人がそろっています。
左近充尚正さんとか、城島高次さんもそうですね。

山口さんは、部下にこのような話をしていました。
「生死いずれかと迷える時は潔く死ね」
武士道ですね。
『葉隠』の一部を渡部昇一さんが現代語に訳しています。
『武士道の本質は死ぬことだと知った。生死二つのうち、どちらを取るかといえば、早く死ぬ方を選ぶ。その覚悟さえあれば、腹を据え、よけいなことは考えずに邁進することができる。「事を成し遂げないうちに死ぬのは犬死だ」などというのは、上方ふうの打算的な武士道にすぎない。二者択一を迫られたとき、「絶体に正しい」という道を選ぶのは難しい。人は誰でも生きる方が好きだから、多かれ少なかれ、生きる方に理屈を付けがちだ。しかし、生きるほうを選んで、失敗に終わってなお生きているとすれば「腰抜け」といわれる。そこがむずかしいところである。ところが、死を選んでいれば、もし失敗して死んだとしても「犬死」といわれるだけで、恥になることはない。ここが、つまりは武士道の本質だ。武士道を極めるためには、朝夕、繰り返して死を覚悟することが必要である。常に死を覚悟しているときは武士道が自分のものとなり、一生誤りなく、主君にご奉公し尽くすことができる』

「繰り返して死を覚悟する」ということは、
大きな決断に出会ってはじめて決断しようっていうと、
これ、ムリです。
ただ、人間って先が見えないかっていうとそうではなくてね。
こうしたら、こういう懸念があるな。とか、
そういうことってわかるんですよね。
ただ、そのときは切羽詰まってないし、
となると、なおざりになりやすい。
常に死を覚悟している状態というのは、
常に切羽詰まった状態として判断し続けるってことだと思います。
これはなおざりにはできなくなります。
分からなければ調べますね。
こういう生き方をしたら相当忙しいと思います。
でも、今騒がれているような
統計不正問題みたいなものはないですよね。
官僚は国に尽くすべき立場ですからね。
こうあらねばならないわけですよ。

また、山口さんから離れちゃったなぁ。

勇断提督山口多門

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
平々凡々の大物少年
地中海でドイツ潜水艦と戦う
高慢米英に闘志を燃やす
連合艦隊先任参謀の信条
駐米海軍武官の情報活動
軽巡五十鈴艦長と皇族出身士官
戦艦伊勢が立てた金字塔
事故艦長を軍法会議から救う
心服した猛将大西瀧治郎少将
かっぽれ飛龍艦長と恵比寿司令官
ハワイ反復攻撃の進言
択捉島単冠湾で歌う”決死隊”
真珠湾への海路三千五百浬
全機撃突の決意で出撃
一撃だけで引き揚げた禍根
部下をみすみす殺せない
英米屈服の史上最大の作戦計画
ミッドウェーに待ち伏せた米艦隊
現装備のまま発進せよ
米空母ヨークタウンを倒す
猛火の中の勇士たち
艦とともに沈むのが正道
あとがき
参考文献


特攻を最初に指揮した大西さんが、
「山口の下なら喜んで働ける」
と言ったなんて残っていますし、
さらに一期上の闘将角田覚治さん、
山口さんの戦死を聞いた時の言葉として伝わっています。
「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。
 彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」

非常に惜しまれますね。
戦闘で死んだのではなく、司令官として
ミッドウェー敗戦の責任をとって艦とともに沈みました。

ミッドウェー海戦の指揮官は南雲さんです。
空母四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)が沈んでいますが、
「赤城」「加賀」は南雲さん直卒、
「蒼龍」「飛龍」が山口さんの担当です。
ジツは南雲さんは責任を取って沈むつもりでいました。
ところが参謀長の草鹿龍之介に引き摺られるようにして艦を降りたんです。
その後も南雲さんは腹を切るつもりでいましたが、
草鹿龍之介に説得されて思いとどまります。
この戦闘で山口さんは「飛龍」に乗っており、
「赤城」「加賀」「蒼龍」が立て続けにやられて、
山口さんの「飛龍」だけが孤軍奮闘したのち沈みました。
南雲さんが山口さんに「託す」と電報を打って沈んでたら、
山口さんは沈むわけにはいかなかったんじゃないかな。と、
ボクはその点を惜しみます。

ミッドウェーは驕りのために負けた海戦で、
海軍乙事件同様、
避けられた被害を被った戦だったと思います。

勇断提督山口多門

海軍人事の失敗の研究

まぁ、海軍を主に見てきましたので
陸軍のことは分かりませんが、
海軍はかなり硬直した人事をしてますよね。
兵学校第七期の島村速雄、加藤友三郎。
この重しがなくなっちゃったところから
すでにやばかったんじゃないかと思いますね。
そして、伏見宮様の軍令部総長就任。
仕上げが、大角岑生の「大角人事」

さて、生出さんは、どの辺を失敗と言っているのでしょうね。

海軍人事の失敗の研究

生出寿 〈光人社〉

まえがき
第一章  太平洋戦争での十大失策
    1 陸海軍、開戦時の勝算
    2 緒戦の快勝と、ひとりよがりの名称「大東亜戦争」
    3 連勝六ヵ月後の致命的大敗
    4 海軍三首脳による無責任・ごまかしの敗戦処理
    5 理に反したガ島奪回戦
    6 天下分け目の決戦で、蟷螂の斧になった日本機動部隊
    7 まちがいだらけの作戦で連合艦隊壊滅
    8 「地獄絵図」の特攻一本槍作戦
    9 終戦をおくらせた陸相、参謀総長、軍令部総長
   10 開戦は人為的結果
第二章  海相加藤友三郎の「対米不戦」の決断
第三章  軍令部長加藤寛治、次長末次信正の反政府政治活動
第四章  ガン発生のような「統帥権干犯」事件
第五章  軍拡派伏見宮の軍令部長就任
第六章  海軍軍国主義化の二つの動力源
第七章  日本海軍壊滅をまねく軍縮条約全廃案
第八章  二・二六事件と海軍首脳らの対応
第九章  出色の海相選出
第十章  無理押しきりなしの日中戦争
第十一章 日独伊三国同盟締結をめぐる陸海軍の抗争
第十二章 陸海軍と近衛に倒された米内内閣
第十三章 海軍を乗っ取った反米英・親独伊派
第十四章 開戦前の海軍トップ人事はすべて失敗
第十五章 逆効果になった真珠湾奇襲攻撃
あとがき

戦後GHQ歴史課嘱託となった大井篤(海軍兵学校第51期)さんは、
同じく嘱託であった陸軍の服部卓四郎さんと、
GHQの食堂でこんな会話を交わしました。

大井
「海軍は陸軍に押されてとうとう開戦に踏み切ったわけだが、私が調べたところでは、陸軍のなかでも開戦をいちばん熱心強硬に唱えたのは、あなたと辻政信だったようですが、違いますか」
服部
「まちがいない。こんなこともあったよ。途中で塚田参謀次長までが軟化したのを耳にし、僕と辻が次長室に押しかけてネジをまいてやったら、次長はふたたび強い音を出すようになり、それ以後は弱音を出さなくなったよ」
大井
「必ず勝てるという自信があったからこそ、あなたがたはそれほどまで強硬に出たのでしょうが、米国と戦って勝てるわけはなかったでしようが」
服部
「理由は二つあった。ひとつはドイツが必ず英国を屈服させるということ、もう一つは日本海軍が海上交通路を必ず確保してくれると信じたことだ。海上交通路の確保ができれば、日本は長期自給自足ができるわけだし、その間に英国がドイツに屈服すれば、米国は戦争継続の意味を失い、米国民の戦意が衰える。そこに有利な終戦となるチャンスが生まれる、という考えだった」

まず驚くのは、いくら終戦後とはいえ、
陸軍と海軍の元参謀の間で、
このようなザックバランな会話が成り立つものなのか?
という点なんですが、
これにはちょっと訳がありまして、
大井さんというのは、戦時中でも誰に対しても、
こういうふうにズケズケと言う人です。
そして、この二人は山形県鶴岡中学の先輩後輩で、
服部さんの方が二つ先輩です。

おもしろいのは陸軍の勝利の方程式ですね。
その条件が二つとも他力なんです。
こういうので戦争に突き進んでもらっては困るわけですが、
おそらくこんなところだっただろうと、ボクは見ています。

陛下は、とりあえず、三ヵ月ほど冷却期間をおいて、
そのあと交渉を再開したらどうか。
そういう御発言をされたことがあります。
米内さんも、時の推移というものもあるから、
必ずしも焦って結論を出すことはないんだが。
このようなことをつぶやいていましたが、
このとき米内さんは現役ではないので、
海軍大臣が相談にでも来れば影響を与えたかもしれませんが、
訪ねてくるのは、課長クラスの憂国の志とか、引退してる人たちですから、
軍政に反映されるような作用は起きませんでした。

このことが、見えない人には見えないんです。
淵田さんたちが真珠湾に攻撃をかけたとき、
ドイツ軍はモスクワからの撤退を決めています。

海軍の中にも、イギリスはそのうち白旗上げる。なんて
思ってた人も確かに居るんです。いや、数でいえば多かったかもしれない。
でも、外国に明るい人たち、情報やってる人たち、
こういう人たちは、ドイツはイギリス本国までは攻め込めないって
ハッキリ言いきってますし、
そういわれちゃっても、まだ反論するほどのバカ者は
それほどいなかったと思うんです。

こういうことを考えるとね。
海軍が両方の正確な情報を持ってたってことですよ。
「ドイツはイギリスに勝てない」
「日本はアメリカに勝てない」
このことを正しく発信しなかったんですよね。

こう考えると、陸軍に引きずられちゃいけない立場だったように思うな。

第十四章の表題見てください。
「開戦前の海軍トップの人事はすべて失敗」ですよ。
海軍大臣 嶋田繁太郎
軍令部総長 永野修身
連合艦隊司令長官 山本五十六

これを指すんだと思いますが、
その前から失敗でした。
海軍大臣 及川古志郎
軍令部総長 伏見宮博恭王
連合艦隊司令長官 山本五十六

及川から嶋田に代わるとき、
これは東條内閣誕生の時ですが、
豊田副武案が海軍で起こりました。
このころの豊田は期待されていたんです。
豊田さんなら東條に丸め込まれないだろう。
こういう期待があったようで、
陸軍側から「豊田大将はちょっと。。。」と言われても、
なお豊田で押すべきだ!と、次官だった澤本さんは食い下がったんですけど、
伏見宮の方が「嶋田だろ」って言ってるもんだから
豊田で押して、東條内閣を流産させるということができなかったんです。

ボクは、豊田なんて嶋田とおんなじことをしたと思ってます。
終戦の時がそうでしたからね。陸軍に同調しちゃって。

まぁ、伏見宮が君臨してた時点で、
思うような人事はできなかったと思うんだけど、
そういうこと度外視してかなったとして
海軍大臣 山本五十六
海軍次官 井上成美
海軍軍務局長 保科善四郎
軍令部総長 百武源吾
軍令部次長 小澤治三郎
連合艦隊司令長官 古賀峯一

このくらいのスクラム組まなきゃ、流されちゃったんじゃないかねぇ。
まぁ、昭和16年において、どんな人事をしても、
戦争を欲したのはアメリカのルーズベルトの方ですから
どのみち巻き込まれてたと思いますよ。

海軍人事の失敗の研究


深謀の名将島村速雄

日本海海戦のビッグネームといえば
東郷平八郎さんと秋山真之さんでしょう。
しかし、見逃してはならないキーマンがいます。
日本海海戦時の参謀長は加藤友三郎さんでしたが、
もともとは同期の島村速雄さんでした。

東郷さんが山本権兵衛さんから連合艦隊司令長官の要請を受けたとき、このように念を押されました。
「万事中央の指図どおりに動いてもらわねば困る。この点はどうか」
「それでよろしい。ただ、参謀だけは自分に選ばせてもらいたい。それから開戦までは中央の指示に従うが、戦場においては、大方針は別として、その他のかけひき一切は任せてもらいたい」

東郷さんが指名した参謀は二人です。
一人は秋山真之作戦参謀。これは誰もが認めるところです。
もう一人が有馬良橘先任参謀。
まったく名前の挙がっていなかった人選で、権兵衛さんは驚きます。
「あんな忠実な男はいない」
東郷さんの戦場指揮官としての実践的見識に、権兵衛さんは舌を巻いたそうです。
島村さんの名前が出てきませんが、これはあまりにも当然であったためです。

深謀の名将島村速雄

生出寿 〈光人社〉

第一章  「智信仁勇厳」の将
第二章  少年午吉
第三章  一番星のような海軍戦術家
第四章  日清戦争の連合艦隊作戦参謀
第五章  世界が感嘆した武士道
第六章  晩婚の果報亭主
第七章  三名将の組み合わせ
第八章  日露戦争の連合艦隊参謀長
第九章  旅順郊外の難戦
第十章  下瀬火薬実用化に挺身
第十一章 峻厳なる反省
第十二章 大局のための転任
第十三章 ロシア艦隊捕捉の新兵器
第十四章 大勝へ人知れず貢献
第十五章 海軍一の国際通
第十六章 第一次世界大戦の軍令部長
第十七章 車の両輪の島村と加藤
  あとがき
  参考引用文献

東郷さんは、明治33年にも常備艦隊司令長官(戦時は連合艦隊司令長官)をやっておりまして、
島村さんは2ヵ月遅れで大佐の参謀長として、
秋山さんは5ヵ月遅れくらいで大尉の参謀として、共に援けています。
ただし、島村さんはすぐに教育本部にとられてしまい、
秋山さんとはひと月と少ししか重なっていません。
が、このとき島村さんは参謀としての心得を秋山さんに説いています。

この時すでに秋山さんは誰もが認める戦術家で、
島村さんも東郷さんも秋山さんの頭脳には感嘆しておりました。
ただ、ちょっと、秋山さんには問題がありました。
常識の糸が所々で切れているような、野生児みたいなところがあったのです。
短期間にそれを見抜いた島村さんは、こんなふうに諭したのです。
「参謀の不注意のために、司令部と旗艦職員との間に面白くないことが起こることがある。それは参謀が長官の意を受けてすることでも、ややもすると参謀の考えで艦長、副長などの行為に干渉するように見られるからだ。だから、信号の揚げ降ろしでも、前に命ぜられていても、長官が艦橋におられたら、いちいち長官の指図を伺ってやらないといけない。参謀長以下のすることは、長官の命令を伝えるものだから、自分勝手にやっていると見られないように慎まねばならないのだ。まして自分の考えだけで、前艦橋において艦長や副長のやることが、長官の意図に副わないと判断して、勝手にこれに干渉するようなことはいけない」
もし、この機会がなかったのなら、秋山さんの軍人の道のりは違ったものになっていたかもしれません。

山本五十六さんの先任参謀であった黒島は、
この秋山さんの奇行スタイルのみをまねて
仙人参謀なんて言われてバカにされてました。
宇垣さんは決断力実行力など、ある意味立派なところがありましたが、
深謀さにおいて、残念ながら、まったく足元にも及ばない感じですね。

深謀の名将島村速雄

凡将山本五十六

井上さんは、山本さんのことを一手も二手も先を読んでる人と言っていました。
頭脳明晰、かみそりなどと呼ばれ、『新軍備計画論』などを表わした井上さんがこう言うんです。
その井上さんの教え子である生出寿さんが、
『凡将山本五十六』などという題名の本を書いていいのでしょうか。
とはいえ、山本さんを評した言葉に「統率は申し分なく立派、作戦は落第」などというものも残されていまして、かなり極端な得手不得手があったように思えます。

「山本に半年仕えれば、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろう」などという評価もあります。
そんな人が、部隊の視察中に暗殺されたわけですから、亡くなられたことで神様になっちゃった。
ここが、山本さんの評価が偏ったままの理由なんだと思います。
生出さんは、こんな本を書き、海軍反省会にも顔を出しておりまして、こんな自己紹介をしています。
「浅学非才で、海軍の経験も全くないわけでございますが、ただ、私等が何かを書くとしましたら、先輩方は直接身近におられた方々のことで、遠慮なさっておられるようなことを、私はあまり遠慮することがありませんので、勝手なことが書けるというところがあるんじゃないかというふうに、私は思ってるわけです。そうだといって、でたらめ書いたらしょうがありませんが、間違ったことを書かなければ、やはり思い切って自分がそうだと思ったことを、書いていいんじゃないかということでございます」
生出さんは74期ですから、卒業が昭和20年弥生の30日。本来であれば、卒業後に練習艦隊にて訓練を受けるわけで、生出さんの言う「海軍経験がない」は、謙遜というよりは実感であったと思います。

凡将山本五十六

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
情に流された長官人事
職を賭せない二つの弱み
「真珠湾攻撃」提案の矛盾
井上成美の明察と偏見
退任延期
対米戦開始へ陰の加担
錯誤にすぎなかった真珠湾の戦果
山本五十六の世論恐怖症
珊瑚海海戦への侮り
ミッドウェー海戦前の密会
目も眩むような凶報
航空偏重が日本敗戦の根本原因
暗殺説と自殺説
あとがきにかえて

山本さんは、軍政畑を歩いた人で、
軍令部に務めたことはありません。
司令官も第一航空戦隊の司令官を一年ほどやったのみです。
それがいきなり連合艦隊司令長官になっちゃった。
これには訳がありまして、
海軍次官の時に三国同盟に反対して命をねらわれていまして、
米内さんが心配して海に逃がしたんです。
そこからずうー――と、連合艦隊司令長官。
これも、ジツは異常で、通常長くて二年です。
この二年が開戦の年の葉月で、本人は替われるものと思っていました。
いよいよ戦争ということで替えにくいという考え方もあるかもしれませんが、
日露戦争時のことを思えば、断固変えるべきでした。

日露戦争では、開戦四ヵ月前に司令長官が替わっています。
東郷さんは、四ヵ月前に替わったんです。
替えたのは山本権兵衛海軍大臣。
替えられたのは日高壮之丞中将。
この二人は竹馬の友で、山本さんは日高さんの性格を危ぶみました。
「お前は非常に勇気があって、頭もずば抜けていい。たが、自負心が強く、いつでも自分をださないと気がすまない。司令長官は大本営の指示通りに動いてもらわねばならない。ところがお前は気に入らぬと自分の料簡をたてて中央の指示に従わないかもしれない。東郷はお前より才は劣る。しかし、東郷にはそういう不安が少しもない。中央の方針に忠実であることはまちがいないし、また臨機応変の処置もできる」

東郷さんはこの二人よりも先輩です。
舞鶴鎮守府の司令長官で、退役を待つような立場の人でした。
相当な反論もあったようですけど、山本権兵衛さんは断固東郷さんでぶれませんでした。
これを及川古志郎に望むのは酷ですし、そんな決断ができるのであれば、陸軍に引き摺られて開戦になることもなかったでしょう。

日高さんの更迭が、上記のような理由であったのなら(諸説あり)、
山本五十六続投は、最悪の結果をもたらしたといえます。
山本五十六は、真珠湾攻撃をやらせてもらえないのなら、長官を降りる!といって大本営を脅しました。
ミッドウェー攻略も、軍令部は反対で、山本が押し切って進めた作戦です。
中央の指示に従わない司令長官だったのです。

それでも、山本五十六さんは人気があるんです。
『山本五十六物語』は書いてみたいですね。

凡将山本五十六

軍令部総長の失敗

ここでの軍令部総長とは誰を指すかってことですが、
永野さんも失敗でしたが、伏見宮博恭王のことです。

軍令部総長の失敗

生出寿 〈徳間書店〉

危機の萌芽
 天皇の失望
 三人の寵臣
 孤立した天皇
 自信過剰の海軍首脳
天皇に背く首脳たち
 反米英の先駆
 お家騒動の発掘
 軍令部は不同意
 策謀家たち
 伏見宮と東郷
軍令部総長の不明
 かつがれた軍令部長
 権力強奪
 特急昇進
 海軍自体の慢心
 まず兵を去れ
海軍滅亡へ
 陸軍との対決
 悪魔に魅入られた夏
 離任
 特攻主張
  あとがき
  参考引用文献

昭和16年神無月の10日の
内大臣木戸幸一の日記にはこうあります。
「10時20分より11時20分まで拝謁す。その際、過日伏見宮と御会見の際、対米問題につき殿下は極めて急進論を御進言ありし趣旨にて、痛く御失望あそばされしよう拝したり」

このときすでに博恭王は永野さんに軍令部総長を譲っています。

昭和天皇は、大義名分も不明で、
不幸な結果になるおそれが大きい対米英欄戦は
回避すべきだとのお考えで、
海軍こそが意思統一をはかり、
国論を対米英蘭不戦にもっていってほしいと考えていました。
ところが、その統一をはかる立場にあるはずのおじさんが、
開戦を強硬に主張したのてす。

この1ヶ月前です。
長月の6日。
御前会議が開かれ、昭和天皇は
四方の海 皆同胞と 思う世に
  など波風の 立ちさわぐらむ
という明治天皇の御製を切々と誦して、
戦争回避の内意を強く訴えたのですが、
一同は、極力尊重するとしながら
相手のペースじゃマズいんで、
って、一応の期限を切って
それに合わせた準備もします。と、
こんなふうに決めちゃったんですね。

長月の29日。
連合艦隊司令長官の山本さんが、
御前会議に出席した永野さんに言った言葉を、
海軍次官の澤本さんがメモしています。
「一大将として、第三者の立場で一言すれば、日米戦は長期戦となることが明らかです。日本が有利な戦を続けている限り、米国は戦をやめないでしょうから、戦争が数年にわたり、資材は蕩尽され、艦船兵器は傷つき、補充は大困難をきたし、内地人はともかくとして、朝鮮、満州、台湾は不平を生じ、反乱が常なく、収拾に困難をきたすことが、容易に想像されます。かかる成算の小なる戦争は、為すべきではありません」

この話を次官から聞いていた及川大臣は近衛に招かれ密談をします。
及川さんっていう人は武人と呼ばれような人ではなく、
近衛さんと似たり寄ったりの人です。
この件に限って言えば、軍令部総長より、大臣の方が失敗です。
せめて「海軍は反対だ」と言えればいいんですけど、
こんな言い方でした。
「米国案を鵜呑みにするだけの覚悟で進まなければなりません。総理が覚悟を決めて邁進されるならば、海軍は十分援助いたしますし、陸軍もついてくると信じます」

近衛は神無月の七日夜、東條説得をはかります。
けっこう言うことは言いましたが、説得には至りません。
八日は参謀総長の杉山と永野が開戦で盛り上がってます。
東條、及川も会っており、こちらは東條が対米交渉うちきり、及川は交渉継続、和戦は閣議で。
博恭王が陛下を叱咤激励し、失望させたのは、この翌日です。

12日、近衛の私邸に
外相、陸相、海相、企画院総裁が集まり会談が開かれます。
及川君は「もし外交でやり、戦争をやめるならば、それでもよろしい」と、ずいぶん無責任な言い方で切り出します。
東條さんは「何をいうか」ってなもんです。
外相は、三国同盟成立時に海軍次官だった豊田貞次郎で、及川君とは話ができてますから、ひと月前の御前会議のことは水に流して、、、みたいな言い方で、さらに東條さんを興奮させます。
近衛はこう言います。
「どちらと言われれば、外交といわざるをえない。戦争にわたしは自信がない。自信がある人にやってもらわなければなりません」

そして16日、近衛は政権を投げ出します。

軍令部総長の失敗