勅語拝受

教育に関する勅語御下賜

明治の始、開国進取の方針となってから、日本は一足飛びに世界の文明国の仲間に加わりました。けれども西洋の文物は善いも悪いも一時に我が国に流れ込んだものですから、昔からのありきたりは善いも悪いも一様に旧弊といって軽蔑する新しがり屋がふえました。
これに対して古風な人はまたむやみに古いことを言って非難しました。
そういうわけで明治20年前後は我が国の思想界が大変混乱した時代でありまして、一般の人々はどちらについて行けばよいのかさっぱりわからなくなりました。
明治天皇はかねがね教育のことをお案じなされていましたが、此の有様を御心配になって、教育に関する勅語を賜ったのであります。
(以下絵の説明)
図は先に立つのが時の内閣総理大臣山縣有朋、後ろに勅語を捧げるのが文部大臣芳川顕正であります。
明治23年10月30日、この日折悪しく天皇は御病気であらせられましたので、高等師範学校に行幸の上お下しになるはずのところをお取止めになって、特に此の二人を宮中奥御殿にお召しになりました。二人は恭しく勅語を拝受して御前を退き、今御学問所の前をさがって来るところであります。
(以上)
一たび勅語が下りますと、さしもの議論は一時に鳴を鎮め、国民は昔ながらの、しかもいつまでも動かない我が国徳教の大本に立帰るべきことを知りました。


戦後の日本

GHQの占領政策の方針は、

日本文化の破壊でした。


はるかに高度な民主主義を持っていた日本に対し、

真っ赤な民主主義を押し付けると同時に、

日本独自の文化を

すべて否定するような政策をとったのです。

W.G.I.P.とプレスコード

平成を生きる日本人は、

明治20年前後の日本以上に

どちらに向かって行けばよいのか、

さっぱり分からなくなってはいないでしょうか。

自信を失ってはいないでしょうか。


東日本大震災で世界を驚かせた、

相手を思いやり、譲り合う被災者の姿。

昔ながらの、しかもいつまでも動かない

我が国徳教の大本に

今こそ立ち帰るべき時ではないでしょうか。

教育勅語画解・目次

この冊子は、昭和五年長月の版で、
教育勅語聖旨普及會が発行したものです。
定價金参拾五銭送料金四銭とあります。
一種の絵本かと思われます。
教育勅語(えとき)ですから、
紙芝居のように絵を解説したような形になっています。

明治天皇御略歴
教育に関する勅語の大意
教育に関する勅語全文(謹書)乃木希典閣下
教育に関する勅語御下賜
我カ皇祖皇宗
國ヲ肇ムルコト
広遠ニ
徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ
克ク孝ニ
忠孝一致
兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ
朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ
學ヲ修メ
業ヲ習ヒ
公益を廣メ
世務ヲ開キ
國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
億兆一心(書)徳川家達閣下
義勇奉公(書)東郷平八郎閣下
克忠克孝(書)一戸兵衛閣下

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈下〉)

  目次
イントロダクション
第三十七期編〈下〉
 レイテに死せず
 カバルアン丘
 ラバウル精神
 ズンゲン守備隊
 ラバウル海軍航空隊
 六然の人・小澤治三郎
 スイス和平工作
 終戦
 自殺未遂
 口頭での戦闘
 小澤と草鹿
 草莽の臣・草鹿任一
あとがき
参考文献
著者プロフィール

 日本ではレイテ沖海戦は話題になります。しかし、その後に行われたレイテ島での戦いは、なぜ話題にならないのでしょうか。
 海軍のフェイク戦果に乗せられた南方総軍は、マニラ決戦を主張する山下さんにレイテ決戦を強要します。
 この戦闘に駆り出された第一師団、作倉歩兵第五七連隊の八尋中隊(第三大隊第一〇中隊)第一小隊第三分隊長として参戦した神子清氏の著『われレイテに死せず』の裏表紙にはこうあります。「投入兵力八万五千名戦死者数八万一千名」
 ガダルカナルでの投入兵力は三万一千名。撤退できたのは約一万名、戦死者が二万強、うち餓死・病死が一万五千名といわれています。戦死者数も戦死者率もはるかにレイテの方がひどい数字を残しているのです。

海軍兵学校第37期編〈下〉

 大本営発表による台湾沖航空戦での戦果は、轟撃沈 航空母艦一〇隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻であった。
 陸軍は、ルソン島での決戦方針であったが、軍令部の敵情判断を信じた参謀本部は情勢有利とみて、昭和十九年十月十八日、にわかに決戦地を変更し、山下兵団から中核兵力を引き抜いてレイテ島に増派させることを決定した。
 山下(奉文、陸十八期)は、台湾航空戦の実情を鹿児島県鹿屋の海軍航空基地に派遣、調査させた情報参謀堀栄三(陸四六期、海兵六一期に相当)の「海軍戦果は信用できない。いかに多く考えても撃沈した米艦艇は二、三隻を出ません。それも空母かどうか不明です」という報告を真実と判断して、作戦方針変更に反対したが、上部の南方総軍司令部は聞き入れなかった。
 なぜ聞き入れなかったのであろうか。
 堀が山下の第一四方面軍司令部に報告に現れたとき、方面軍では祝賀の準備をしていた。そこへ「大戦果なんて大間違いだ」という者が現れたのだから、結婚式が葬式になったようなものである。
 このとき方面軍には作戦準備を指導するため、大本営から朝枝繁晴(陸四五期、マレー作戦時に山下二五軍の参謀)が出張してきていた。この役は、ジツは一期上の瀬島龍三(陸四四期)のはずであった。瀬島が体調不良のため、対ソ作戦計画を練るべき立場であった朝枝に回ってきたのだ。
 堀は、山下への報告と同じものを大本営に打電している。その電報を握りつぶしたのが、大本営に残った瀬島であった。

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈下〉)