マレー沖海戦

この本の著者須藤朔さんは、海兵66期の攻撃機乗りです。
須藤さんの本を読むと、飛行機乗りの中でも
戦闘機や攻撃機、パイロット、偵察員など、
職種によってかなり考え方が違ってくるようで、
航空出身と言っても、参謀になった人の職種によって
作戦に大きな違いが生まれるようです。
読み進んで、突き詰めていくと、職種よりも人間のように思えます。
これは航空作戦に限った話ではないですね。
どれだけ指揮官が、バランスの取れた判断ができるかどうか。
専門であるがために策に溺れるということもありますから。

マレー沖海戦

須藤朔 〈朝日ソノラマ〉

  目次
 プロローグ
 1 イギリス東洋艦隊
 2 不沈戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」
 3 開戦前夜
 4 Z部隊、シンガポールを出撃
 5 出撃命令
  九六式・一式陸上攻撃機について
 6 十二月十日、〇四三五、われ接触を失う
 7 攻撃隊出動
 8 一一四五、敵主力見ゆ
 9 第一撃、水平爆撃
10 雷撃、「プリンス・オブ・ウェールズ」に致命傷
11 雷撃隊、奮戦す
12 突撃せよ!
13 浮沈艦、波間に消ゆ
 エピローグ
 マレー沖海戦の回想
 マレー沖海戦の経過
 参考文献
 戦後に思う

須藤さんのいいところは、
小澤治三郎さんを批判しているところですね。
小澤さんを批判するというのは、
ずいぶん勇気のいることだと思います。

小澤さんは寄せ集めの部隊であった南遣艦隊で
マレー作戦を成功させました。
井上さんの珊瑚海海戦の場合の寄せ集め度はさらにひどく
基地航空部隊に対しては命令が出せませんでした。が、
小澤さんは基地航空部隊も指揮下に入れていました。

そこで、こういう指摘をしています。
フネでなく、陸で指揮するべきであったと。
小澤さんは、旗艦とすべく重巡が欲しいと訴え、
第二艦隊の近藤信竹は、そんなものは陸から指揮したらいいと否定的。
山本五十六さんの鶴の一声で、「鳥海」がやってきます。
その「鳥海」で海上指揮したために、
味方機から攻撃を受け、攻撃停止命令を出すという
余計な結果をまねいた。と、近藤さんの案の方が正しい。
と、まぁ、そういう指摘です。

ただ、近藤さんは、エンダウ・メルシン上陸作戦に反対したときに
あんまり、陸軍ともめるな。という理由で、
やってやったらどうか。なんて言ってますし、
近藤さんの陸の上で、、、、というのは、
戦略的な判断のようには思いにくい。

さて、小澤さんに厳しい評価と言えば、奥宮正武さんがいます。
須藤さんは奥宮さんとは近かったようです。
ここで思うのは、小澤さんは航空艦隊の生みの親、育ての親
のように言われていますが、飛行機乗りではありません。
根っからの飛行機乗りで、同期や後輩を失った人たちから見ると、
ましてや、意見具申する側にあり、それが容れられなかった思いがあれば
厳しい注文が出るのも、当然と言えば当然かもしれません。
奥宮さんがおもしろいことを言っています。
マリアナ沖海戦で、緻密な小澤さんが基地航空部隊を指揮し、
見敵必勝の角田覚治さんの方が機動部隊の指揮官であったら、
かなり違う結果を得られたのではないか。

その上の連合艦隊が、無駄に基地航空部隊を消耗させていますので、
大きく結果が変わっていたかどうかは分かりませんが、
なんとなく、うなずける部分もあります。
小澤さんは智将であり、参謀長の方がよかったんじゃないか。
ボクの中にも、そんな思いがあります。
さて、小澤さんがかつぐほどの司令長官がいたのかどうか。

マレー海戦の方に話を戻しますと、
小澤さんが要請したものが重巡のほかにもう一つあります。
航空部隊です。
当然要請を受け入れたのは山本五十六さんですが、
須藤さんは、その部隊、鹿屋航空隊の三個中隊を引き抜いた
連合艦隊の作戦参謀三和義勇さんを賞讃しています。
この部隊は飛行機も新型、搭乗員の練度も高い精鋭部隊だそうです。
ちなみに、須藤さんはここの中隊長です。

もうひとつ、須藤さんの感覚で大切な部分を挙げておきますと、
わが日本軍は、開戦当初各所で快進撃をしたわけですが、
勝ったことをいいことに、細かいところに目をつぶっているという指摘です。
敵艦を発見した帆足正音予備少尉ですが、
ジツは索敵コースを独断で変更しているんです。
このために敵艦発見が一時間以上遅れています。
また、雲間に艦影を認めた時点で、直ちに「敵らしき艦隊見ゆ」
または「敵味方不明の艦隊見ゆ」を
地点とともに報告すべきであったと指摘しています。
あまりにも偉大な勝利であったために、
これらの過失は問われることなく功績だけがもてはやされた。
戦訓として取り上げられなかったこの種の失敗は、後日の戦闘で、
再三、他の搭乗員によっても繰り返されたとも言っています。

完全に浮かれてましたね。

マレー沖海戦


海軍参謀

「艦隊令」にはこのように書いてあるそうです。
「司令長官の幕僚たる参謀長は、司令長官を佐け
 隊務を整理し、幕僚その他隊務に参与する職員の職務を監督す」
「司令長官の幕僚たる参謀は参謀長の命を承け
 艦隊の軍紀、風紀、教育、訓練、作戦等に関することを掌る
 機関科将校たる参謀は前項の規定によるの外機関長の命を承け服務す」

山本五十六さんの連合艦隊でいいますと、
宇垣纒参謀長が黒島亀人先任参謀以下に命じて
各専門分野を研究させたり処理させるべきなのです。
ところが、山本さんは黒島仙人に作戦を任せちゃう。
将棋相手の渡辺安次戦務参謀が、長官の意思を忖度して周りに伝える。
こんな流れで宇垣さんは蚊帳の外でした。
黒島なんて人は、仙人参謀とか変人参謀とか呼ばれてた
ただの変わり者です。
どう贔屓目に見ても、百人でかかっても秋山さんには及ばない。
そして、最大の問題は参謀長がラインから外れちゃってることです。
本来なら宇垣さんが黒島以下の手綱を握ってなきゃいけないのに、
その手綱を、山本さんが取り上げちゃって、
さらに、山本さん自身がその手綱を離しちゃってる状態。

参謀長の仕事は、各参謀の手綱を握るってことと、
もう一つ大事な仕事があります。
長官に誤りがあればそれを正す。これが佐けるです。
ところが宇垣さんは遠ざけられてます。
悪いことに、宇垣さんが参謀長として着任する前に
作戦は出来上がってたんですね。

海軍反省会でも、かなりこの人事に関しては
問題になっておりまして、
山本という人、黒島という人、その個人の適性の問題もあるが、
司令官と参謀長というコンビネーション、これは非常に大切だ。
人事局は何考えてたんだ、みたいな。

海軍参謀

吉田俊雄 〈文春文庫〉

  目次
第一章 海軍参謀とは
 一 戦いは人なり
 二 海軍参謀はカゲの人
 三 参謀はどう作られたか
  (一) 教育
  (二) 兵術思想
  (三) 「海戦要務令」
  (四) 人事
 四 参謀の職務と実務
第二章 海軍参謀像
 一 黒島亀人
 二 宇垣纒
 三 福留繁
 四 定岡定俊
 五 神重徳
 六 草鹿龍之介
 七 源田実
 八 沢本頼雄と井上成美
終章 失敗の教訓
 一 失敗の教訓
  (一) やはり現実的なポリシーが必要だった
  (二) やはりマニュアルが必要だった
  (三) 歴史の読み方がたりなかった
  (四) 人事と教育を二重構造にした
 二 陸軍参謀と海軍参謀
  (一) 体質の違い
  (二) 参謀の性格の違い
 あとがき

源田実は、同期の淵田美津雄にこうもらしています。
「いつでも自分の起案した命令案が、スラスラと通ってしまう。
抵抗がなくていいようなもんだが、実は違う。
自分だけの考えで起案したものが、

いつも上の方で、何のチェックも受けずに、
命令となって出ていくと思うと、そら恐ろしい。
おれ自身は、いくら自惚れても、もとより全知全能ではない。
重大事項では、いろいろと判断に迷う。
ところで自分の判断ひとつで、
直に国運が左右されるかもしれない影響を及ぼすと考えると、
重大な責任感に圧迫されて、自然と委縮してくる。
これが大西瀧治郎少将や、山口多門少将あたりが上にいてくれると、
必ず案をチェックして、あらゆる角度から叩き直して突っ返してくる。
そうなるとこちらも安心して、
思い切り自由奔放な作戦構想も練られるというもんだが」

これは南雲忠一さんの艦隊の話です。南雲さんは水雷の人。
チェックすべき参謀長は草鹿龍之介。
草鹿は飛行機乗りではないんですが、
一応航空に明るいということで選ばれたのだと思います。
先任参謀は大石保、この人は航海です。
源田実は航空参謀。このとき中佐の二年目。
こんなのに艦隊を任せちゃいけません。

こう考えたとき、指揮官もさることながら、
参謀長の人選は重要ですね。

そして、山本五十六さんの経歴を見ると、軍政一筋で
先任参謀、参謀長の経験がありません。
艦隊司令長官も、連合艦隊が初めてでした。
戦争が始まる前に陸にあげるべき人でしたでしょうね。

海軍参謀



指揮官と参謀

なんか、この手の作品が多いんです。
吉田俊雄さん、海軍兵学校第59期。
終戦で中佐になった期です。
永野さん、米内さん、嶋田繁太郎の副官をしていますから、
気になったんでしょうね。指揮官。
ボクの持っている本の中では比較的早い段階のものです。
80歳を過ぎたころの作品が多いですね。
ボクの勝手な想像ですが、
やはり、中佐ぐらいになった方
特に実際に大臣になった人の副官などしていれば
「やはり、残さない方がいいか、、、」
なんて思うエピソードとかもあると思うんですよね。
でも、80にもなると、その人たちと
同じだけ生きたことになるし、言ってもいい、残すべき。と、
ちょっと違った視点というか、
ある程度割り切った考えに達するんじゃないか。
そんなふうに思えたりもします。

指揮官と参謀

その思考と行動に見る功罪

吉田俊雄 〈光人社〉

  目次
一、先見性・山本五十六
 艦隊決戦から航空主兵の時代へ
   主体的で視野の広い軍政家山本と部下、
   軍令部との認識上のギャップが悲劇を生んだ
二、年功序列・山本五十六と小沢治三郎
 悲劇に彩られた二人の司令長官
   生死を度外視、知能の限りを傾けて
   己の職責を果たすべく情熱を燃やしつづけた
三、上将と猛将・山本五十六とハルゼー
 太平洋で睨みあった異色の好敵手
   奇しき縁に結ばれた日米の二人の司令長官は
   虚々実々の秘術を尽くして戦いつづけた
四、適材適所・南雲忠一
 難局で問われた指揮官の真価
   勇猛果敢な水雷戦隊司令官は、なぜ
   航空艦隊司令長官になって因循姑息に豹変したか
五、逆境・山口多聞、角田覚治、大西瀧治郎
 退勢挽回をはかった三人の提督
   絶体絶命の窮地にあっても、攻撃こそ
   最良の防御なりを実践して果敢に戦いを挑んだ
六、決断・栗田建男
 沈黙の提督、レイテ突入せず
   死中に活を求め、すさまじいまでの決意を抱いて
   決戦にのぞんだ栗田艦隊指揮官の真実
七、責任感・西村祥治
 水雷屋提督、スリガオに死す
   任務を達成しようという責任感で常に
   事にあたった私心なき知勇兼備の提督の真骨頂
八、指揮官先頭・村田重治と江草隆繁
 海軍魂をもった二人の猛将の最後
   艦攻の鬼、艦爆の鬼とうたわれ、つねに
   先頭きって飛びつづけた第一線指揮官の風貌
九、参謀の条件・宇垣纒、福留繁、草鹿龍之介、矢野志加三
 連合艦隊司令長官と四人の参謀長
   変化への対応ができなかった上部指導機構の
   頭脳たちは無能な失格者ぞろいだったか

開戦時の連合艦隊司令部

真珠湾攻撃後、海軍省は報道禁止事項を示達したそうです。
「連合艦隊司令長官山本五十六大将が勝負事に巧みなること」
山本さんはモナコのカジノで入場を断られるほどバクチがうまく、
断られたのは世界で二人目だという伝説になったとか。
シマハン(嶋田繁太郎海軍大臣)としては、
それを真珠湾とからめて論じられては
海軍の恥辱とでも考えたのだろうと吉田さん。

兵学校、術科学校、大学校で徹底した均質化教育をされ、
それぞれのレベルでは、だれをそのポストに配しても、
そのために戦力を落とさない規格品の海軍士官
――悪い言葉で言えば、教えられたところを忠実に実行し、
私見を差し挟まずに行動する、
将棋の駒のようになった人たちに比べると、
五十六さんは異質である。と、こうも言っています。

そんなわけで、
五十六さんは主体性を持った人が好きだったようですが、
黒島の場合はただの変人であったと、
いや、今の言葉でいえばオタクでしょうね。
そう見極めて活用すれば、
それは非常に生かされたのだと思いますが、
先任参謀にしてしまった。
せめて宇垣さん(参謀長)が、
黒島に具体的な指示を与えてこき使うような
形になっていればよかったんですが、
五十六さんは黒島の変人の才を愛するあまり、
宇垣さんを飛び越えさせてしまっていました。

五十六さんが連合艦隊司令長官になってからすぐ、
参謀長は福留に替わります。
永野さんは軍令部総長になったときに福留を欲しがります。
それでじゃあ一部長の宇垣(福留、宇垣は同期)と
交換しようってことになったんだけど、
五十六さんが婉曲にお断りします。
「戦隊司令の経験のない人は、、、」
ようは宇垣さんのことが嫌いなんです。
それで、宇垣さんは第八戦隊の司令官になって、
第八戦隊の司令官だった伊藤さんが参謀長になります。
今度は永野さんが伊藤さんを次長に欲しいって言いだします。
宇垣さん、「司令経験あり」になっちゃったもんだから、
もう、五十六さんも受け入れるしかなくなっちゃったんですね。
これが、昭和16年の葉月で、
真珠湾の作戦は出来上がってました。
そんなわけで宇垣さんは蚊帳の外状態で開戦を迎えるのです。

このとき五十六さんは五十六さんで、
そろそろ俺も交代だろう。なんて思いもあります。
なにがなんでもって、参謀長の適任者を
模索するって意欲が薄かったのかもしれませんね。

それぞれの参謀長

吉田さんはこのように説明しています。参謀長とは、
「司令長官の幕僚として司令長官を佐け、隊務を整理し、
 幕僚その他隊務に参与する職員の職務を監督する」
足りないものを補って完全なものにするのであるから、
長官の言うままに従うのでは
参謀長の職責を果たしたことにはならない。
そして、
先任参謀以下の参謀はこれとは違う。といいます。
「参謀長の命を承け服務する」
参謀長の言うままに従わなければならない。

これを見れば明らかで、参謀長というのは
指揮権はないものの非常に重要な役目です。
それをないがしろにして、変人参謀に任せた。
五十六さんは任せた相手を尊重しますからなおさら良くない。

五十六さんのあとをとった古賀さんは、福留をもらいます。
この福留って人は
「戦略戦術の大家」なんて言われ方をしていたんですけど、
ジツは教科書の内容をたくさん覚えただけで、
イレギュラーなことには全く機転が利かないタイプ。
ここまで言っちゃ失礼かなとも思うんですけど、
吉田さんも言ってるし、何よりもご本人が告白してます。
「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、
 南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉功を奏したのちもなお、
 機動部隊は補助作戦に任ずべきもので、
 決戦兵力は依然大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」

吉田さんはさらに手厳しいですね。
豊田長官の場合は、南雲艦隊参謀長として戦ってきた
ベテランの草鹿龍之介を引っ張った。
しかし、豊田に輪をかけた主観性、直感性、心情性の持ち主で、
性格の似た者同士、すっかり欠点が増幅されることとなった。

指揮官と参謀

航空作戦参謀源田実

山本五十六さんは、真珠湾奇襲をしたくて
大西さんに手紙を書きます。
「開戦劈頭、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって痛撃し、当分のあいだ米国艦隊の西太平洋侵攻を不可能とする必要がある。目標は米戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易なことではないが、本職はみずからこの空襲部隊の指揮官となり、作戦遂行に全力を尽くす決意である。ついてはこの作戦をいかなる方法によって実施すればよいか、研究してもらいたい」
大西さんは、源田実を「相談したいことがある」と言って呼びつけると、この手紙を読ませました。

源田って人は、こういうの、好きなんですよ。
周りをアッと言わせるようなことね。
このときは第一航空戦隊参謀で、中佐です。

源田は素案を大西さんに提出し、
大西さんがまとめ上げて五十六さんに渡します。
ボクの想像ですが、
真珠湾攻撃のひな型はこのときにできてて、
黒島ってのちに特攻兵器ばかり考えてた先任参謀は、
これと言った独創性を付加したようなことはないんじゃないか。
そんなふうに思いますね。
こう考えたとき、源田には独創性はあったと言えるのではないか。

ただし、こんなことを同期の淵田さんに洩らしているんです。
「オレの案がスイスイ通ってしまう。このことが非常に怖い」
第一航空艦隊ができた時、源田は航空参謀になります。
長官は南雲忠一。
参謀長は草鹿龍之介。
先任参謀は大石保。
南雲さんは水雷、大石さんは航海。
草鹿龍之介は飛行機乗りではないんだけど、
周辺の勤務が多く、一応航空に明るいってことになってましたが、
下の意見を取り上げるってタイプの人で、
源田の意見がそのまま通るわけです。
「源田艦隊」なんて言われてたらしいですね。
中佐が艦隊を動かしちゃいけません。
本来であれば、中佐の判断と中将の判断とでは、
その深み重みが違うはずなんです。
源田という人はよく言えばチョープラス思考の人で、
思考的姿勢は頼もしいんですが、
最悪を想定した行き届いた作戦を考えるような
そういう幅には乏しかったんじゃないかと思います。
こういう点でいうと、
淵田さんの方が実務者タイプだったのではないかと思います。
その淵田さんを攻撃隊の総指揮官に、と
引っ張ってきたのは源田ですから、
自分の足りないところを
ある程度知っていたんじゃないかとも思えますね。

ミッドウェーでは惜しいことをしました。
ただでさえチョープラス思考なところに、熱を出してて、
細部にわたって目をやるってことができなかったように思います。
そして、頼みの綱である淵田さんは、
盲腸の手術をして寝てました。

源田って人は、自分のところに
いい搭乗員をそろえることに夢中になりましてね。
一期先輩の大井さんが、
「そんなに連れて行ってもらっちゃ困る。
後進育成のために教官にいいのを残しておかなきゃダメだろ」
そう言っても、あんたにゃ頼まない。ってなもんで
上の方にかけ合いに行っちゃうようなところがあるんです。
ボクのいうチョープラス思考っていうのは、
こういう意味を含んだ表現です。

そんな源田実を、
生出寿さんが批判的に書いたのが、この本です。

航空作戦参謀源田実

生出寿 〈徳間文庫〉

  目次
奇想天外
ハワイ奇襲に燃える
理想の名将
無我の境
幻の真珠湾第二撃進言
快勝また快勝
危うしインド洋作戦
乱れる連合艦隊司令部
その名も源田艦隊
東郷・秋山と山本・黒島・源田
摩訶不思議な主力部隊出動
不覚の敵情判断
山口多門の卓見
源田流用兵の破綻
大本営の誇大戦果発表
導師大西瀧治郎
マリアナ基地航空部隊の壊滅
最後の奇策「T攻撃部隊」
 初刊本あとがき
 参考文献
 解説 妹尾作太男

山本さんは、自らが率いて真珠湾攻撃をするつもりでいました。
「いざ開戦になったら、米内さんに復帰を願い、
 (米内さんはこのとき予備役です)
 連合艦隊司令長官になってもらって、
 自分がハワイに攻め込む」と、こんなことを
複数の人に手紙を送ったり言ったりしています。
ちょっとヘンテコな話ですが、事情がありました。
本来でいえば、着任してすでに二年を超えていましたから、
嶋田にでもあとを譲る。なんて思いでいましたが、
「今、山本さんに中央に来られては困る」
というのが、前のめりになってた課長級たちの思いでしたから、
たとえば「海軍大臣を」といったお声はかかりませんでした。

この時期もう一つ、持ち上がっていた話があります。
それまで第一艦隊は連合艦隊司令長官が直卒する。
という事になっていましたが、
第一艦隊司令長官を新たに設けて、
連合艦隊司令部は独立旗艦にしようという話です。
この話に乗じて、米内さんを連合艦隊司令長官に迎え、
自分は第一艦隊司令長官として前線に出る。と、
まぁ、こういう理屈でのハワイ攻撃参戦です。

もし、これが実現して、山本さんが自滅覚悟で
徹底的に真珠湾の基地そのものを壊滅状態にして、
その機を見て、米内さんが和平の話を中央に持ち掛けたところで、
中央が、幕引きを考えてなかったんですから、
どうなるわけでもありませんでした。
このダメージにより、
太平洋側の米海軍が足腰立たない状態になって、
反撃に移るのに何年かかかるようなことになったとしても、
その間に、マリアナ・カロリン諸島のラインで
敵潜水艦の出入りを完全にシャットアウトするぐらいの
シーレーンの確保を真剣に考え、実施しようとする人は
中央の要職にはいませんでしたから、
時期がずれるだけで、悲惨な結果になっていたと思います。

何が言いたいかと言いますと、
和平を真剣に考えたいのであれば、
米内さんは連合艦隊司令長官ではなく、
海軍大臣、せめて軍令部総長のはずです。
それなのに、山本さんは自分が暴れやすいように
直属の上司に米内さんが欲しかっただけなんじゃないか?
ボクは、こんなふうに思っています。

大西さんは、頼まれて真珠湾攻撃の原案を起案しましたが、
開戦間際になって「やめましょうよ」って、
山本さんのところまで出向いています。

大西さんの考えは、
「日本の力でワシントンを攻め落とすことはできない。
 となれば、いいところで講和に持ち込まなきゃならない。
 であるならば、アメリカ国民を刺激するような
 真珠湾攻撃なんてのはやるもんじゃない」
こんな考えでした。が、面と向かってここまでは言えず、
さすがの大西さんも言えなかったんですね。
で、大西さんはこのころ南方の航空部隊の参謀長ですから、
「南方作戦には母艦機を使わないと、戦力的に手薄です。
 ハワイに持っていくのは考え直してもらえませんか」
こんな言い方になっちゃった。
こういうのって「じゃあ、そこんとこ解消できたらオッケーね」
って言われちゃうと、詰んじゃうんですよね。

真珠湾攻撃っていうのは、
二重にも三重にも四重にも
結果的にいうと、やっちゃいけない作戦でした。
違う言い方をすると、
アメリカに、結果を最大限に利用された作戦でした。

でも、戦争ですから、戦闘的には成功は成功で、
帰ってすぐ、山本さんは
「勝って兜の緒を閉めろ!」って、
結構強い口調で言ってるんです。
これを司令官クラスがキチンと受け取っていれば、
おそらく暗号を取られていても、
ミッドウェーは勝っています。
そこを考えると、意識が全く違い過ぎたんだと思います。
当然です。
機動部隊は中佐が動かしていたんですから。
せめて、南雲さんの参謀長が山口さんか大西さんであったなら、
そんなことを考えちゃいますね。

航空作戦参謀源田実






海軍人事の失敗の研究

まぁ、海軍を主に見てきましたので
陸軍のことは分かりませんが、
海軍はかなり硬直した人事をしてますよね。
兵学校第七期の島村速雄、加藤友三郎。
この重しがなくなっちゃったところから
すでにやばかったんじゃないかと思いますね。
そして、伏見宮様の軍令部総長就任。
仕上げが、大角岑生の「大角人事」

さて、生出さんは、どの辺を失敗と言っているのでしょうね。

海軍人事の失敗の研究

生出寿 〈光人社〉

まえがき
第一章  太平洋戦争での十大失策
    1 陸海軍、開戦時の勝算
    2 緒戦の快勝と、ひとりよがりの名称「大東亜戦争」
    3 連勝六ヵ月後の致命的大敗
    4 海軍三首脳による無責任・ごまかしの敗戦処理
    5 理に反したガ島奪回戦
    6 天下分け目の決戦で、蟷螂の斧になった日本機動部隊
    7 まちがいだらけの作戦で連合艦隊壊滅
    8 「地獄絵図」の特攻一本槍作戦
    9 終戦をおくらせた陸相、参謀総長、軍令部総長
   10 開戦は人為的結果
第二章  海相加藤友三郎の「対米不戦」の決断
第三章  軍令部長加藤寛治、次長末次信正の反政府政治活動
第四章  ガン発生のような「統帥権干犯」事件
第五章  軍拡派伏見宮の軍令部長就任
第六章  海軍軍国主義化の二つの動力源
第七章  日本海軍壊滅をまねく軍縮条約全廃案
第八章  二・二六事件と海軍首脳らの対応
第九章  出色の海相選出
第十章  無理押しきりなしの日中戦争
第十一章 日独伊三国同盟締結をめぐる陸海軍の抗争
第十二章 陸海軍と近衛に倒された米内内閣
第十三章 海軍を乗っ取った反米英・親独伊派
第十四章 開戦前の海軍トップ人事はすべて失敗
第十五章 逆効果になった真珠湾奇襲攻撃
あとがき

戦後GHQ歴史課嘱託となった大井篤(海軍兵学校第51期)さんは、
同じく嘱託であった陸軍の服部卓四郎さんと、
GHQの食堂でこんな会話を交わしました。

大井
「海軍は陸軍に押されてとうとう開戦に踏み切ったわけだが、私が調べたところでは、陸軍のなかでも開戦をいちばん熱心強硬に唱えたのは、あなたと辻政信だったようですが、違いますか」
服部
「まちがいない。こんなこともあったよ。途中で塚田参謀次長までが軟化したのを耳にし、僕と辻が次長室に押しかけてネジをまいてやったら、次長はふたたび強い音を出すようになり、それ以後は弱音を出さなくなったよ」
大井
「必ず勝てるという自信があったからこそ、あなたがたはそれほどまで強硬に出たのでしょうが、米国と戦って勝てるわけはなかったでしようが」
服部
「理由は二つあった。ひとつはドイツが必ず英国を屈服させるということ、もう一つは日本海軍が海上交通路を必ず確保してくれると信じたことだ。海上交通路の確保ができれば、日本は長期自給自足ができるわけだし、その間に英国がドイツに屈服すれば、米国は戦争継続の意味を失い、米国民の戦意が衰える。そこに有利な終戦となるチャンスが生まれる、という考えだった」

まず驚くのは、いくら終戦後とはいえ、
陸軍と海軍の元参謀の間で、
このようなザックバランな会話が成り立つものなのか?
という点なんですが、
これにはちょっと訳がありまして、
大井さんというのは、戦時中でも誰に対しても、
こういうふうにズケズケと言う人です。
そして、この二人は山形県鶴岡中学の先輩後輩で、
服部さんの方が二つ先輩です。

おもしろいのは陸軍の勝利の方程式ですね。
その条件が二つとも他力なんです。
こういうので戦争に突き進んでもらっては困るわけですが、
おそらくこんなところだっただろうと、ボクは見ています。

陛下は、とりあえず、三ヵ月ほど冷却期間をおいて、
そのあと交渉を再開したらどうか。
そういう御発言をされたことがあります。
米内さんも、時の推移というものもあるから、
必ずしも焦って結論を出すことはないんだが。
このようなことをつぶやいていましたが、
このとき米内さんは現役ではないので、
海軍大臣が相談にでも来れば影響を与えたかもしれませんが、
訪ねてくるのは、課長クラスの憂国の志とか、引退してる人たちですから、
軍政に反映されるような作用は起きませんでした。

このことが、見えない人には見えないんです。
淵田さんたちが真珠湾に攻撃をかけたとき、
ドイツ軍はモスクワからの撤退を決めています。

海軍の中にも、イギリスはそのうち白旗上げる。なんて
思ってた人も確かに居るんです。いや、数でいえば多かったかもしれない。
でも、外国に明るい人たち、情報やってる人たち、
こういう人たちは、ドイツはイギリス本国までは攻め込めないって
ハッキリ言いきってますし、
そういわれちゃっても、まだ反論するほどのバカ者は
それほどいなかったと思うんです。

こういうことを考えるとね。
海軍が両方の正確な情報を持ってたってことですよ。
「ドイツはイギリスに勝てない」
「日本はアメリカに勝てない」
このことを正しく発信しなかったんですよね。

こう考えると、陸軍に引きずられちゃいけない立場だったように思うな。

第十四章の表題見てください。
「開戦前の海軍トップの人事はすべて失敗」ですよ。
海軍大臣 嶋田繁太郎
軍令部総長 永野修身
連合艦隊司令長官 山本五十六

これを指すんだと思いますが、
その前から失敗でした。
海軍大臣 及川古志郎
軍令部総長 伏見宮博恭王
連合艦隊司令長官 山本五十六

及川から嶋田に代わるとき、
これは東條内閣誕生の時ですが、
豊田副武案が海軍で起こりました。
このころの豊田は期待されていたんです。
豊田さんなら東條に丸め込まれないだろう。
こういう期待があったようで、
陸軍側から「豊田大将はちょっと。。。」と言われても、
なお豊田で押すべきだ!と、次官だった澤本さんは食い下がったんですけど、
伏見宮の方が「嶋田だろ」って言ってるもんだから
豊田で押して、東條内閣を流産させるということができなかったんです。

ボクは、豊田なんて嶋田とおんなじことをしたと思ってます。
終戦の時がそうでしたからね。陸軍に同調しちゃって。

まぁ、伏見宮が君臨してた時点で、
思うような人事はできなかったと思うんだけど、
そういうこと度外視してかなったとして
海軍大臣 山本五十六
海軍次官 井上成美
海軍軍務局長 保科善四郎
軍令部総長 百武源吾
軍令部次長 小澤治三郎
連合艦隊司令長官 古賀峯一

このくらいのスクラム組まなきゃ、流されちゃったんじゃないかねぇ。
まぁ、昭和16年において、どんな人事をしても、
戦争を欲したのはアメリカのルーズベルトの方ですから
どのみち巻き込まれてたと思いますよ。

海軍人事の失敗の研究


凡将山本五十六

井上さんは、山本さんのことを一手も二手も先を読んでる人と言っていました。
頭脳明晰、かみそりなどと呼ばれ、『新軍備計画論』などを表わした井上さんがこう言うんです。
その井上さんの教え子である生出寿さんが、
『凡将山本五十六』などという題名の本を書いていいのでしょうか。
とはいえ、山本さんを評した言葉に「統率は申し分なく立派、作戦は落第」などというものも残されていまして、かなり極端な得手不得手があったように思えます。

「山本に半年仕えれば、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろう」などという評価もあります。
そんな人が、部隊の視察中に暗殺されたわけですから、亡くなられたことで神様になっちゃった。
ここが、山本さんの評価が偏ったままの理由なんだと思います。
生出さんは、こんな本を書き、海軍反省会にも顔を出しておりまして、こんな自己紹介をしています。
「浅学非才で、海軍の経験も全くないわけでございますが、ただ、私等が何かを書くとしましたら、先輩方は直接身近におられた方々のことで、遠慮なさっておられるようなことを、私はあまり遠慮することがありませんので、勝手なことが書けるというところがあるんじゃないかというふうに、私は思ってるわけです。そうだといって、でたらめ書いたらしょうがありませんが、間違ったことを書かなければ、やはり思い切って自分がそうだと思ったことを、書いていいんじゃないかということでございます」
生出さんは74期ですから、卒業が昭和20年弥生の30日。本来であれば、卒業後に練習艦隊にて訓練を受けるわけで、生出さんの言う「海軍経験がない」は、謙遜というよりは実感であったと思います。

凡将山本五十六

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
情に流された長官人事
職を賭せない二つの弱み
「真珠湾攻撃」提案の矛盾
井上成美の明察と偏見
退任延期
対米戦開始へ陰の加担
錯誤にすぎなかった真珠湾の戦果
山本五十六の世論恐怖症
珊瑚海海戦への侮り
ミッドウェー海戦前の密会
目も眩むような凶報
航空偏重が日本敗戦の根本原因
暗殺説と自殺説
あとがきにかえて

山本さんは、軍政畑を歩いた人で、
軍令部に務めたことはありません。
司令官も第一航空戦隊の司令官を一年ほどやったのみです。
それがいきなり連合艦隊司令長官になっちゃった。
これには訳がありまして、
海軍次官の時に三国同盟に反対して命をねらわれていまして、
米内さんが心配して海に逃がしたんです。
そこからずうー――と、連合艦隊司令長官。
これも、ジツは異常で、通常長くて二年です。
この二年が開戦の年の葉月で、本人は替われるものと思っていました。
いよいよ戦争ということで替えにくいという考え方もあるかもしれませんが、
日露戦争時のことを思えば、断固変えるべきでした。

日露戦争では、開戦四ヵ月前に司令長官が替わっています。
東郷さんは、四ヵ月前に替わったんです。
替えたのは山本権兵衛海軍大臣。
替えられたのは日高壮之丞中将。
この二人は竹馬の友で、山本さんは日高さんの性格を危ぶみました。
「お前は非常に勇気があって、頭もずば抜けていい。たが、自負心が強く、いつでも自分をださないと気がすまない。司令長官は大本営の指示通りに動いてもらわねばならない。ところがお前は気に入らぬと自分の料簡をたてて中央の指示に従わないかもしれない。東郷はお前より才は劣る。しかし、東郷にはそういう不安が少しもない。中央の方針に忠実であることはまちがいないし、また臨機応変の処置もできる」

東郷さんはこの二人よりも先輩です。
舞鶴鎮守府の司令長官で、退役を待つような立場の人でした。
相当な反論もあったようですけど、山本権兵衛さんは断固東郷さんでぶれませんでした。
これを及川古志郎に望むのは酷ですし、そんな決断ができるのであれば、陸軍に引き摺られて開戦になることもなかったでしょう。

日高さんの更迭が、上記のような理由であったのなら(諸説あり)、
山本五十六続投は、最悪の結果をもたらしたといえます。
山本五十六は、真珠湾攻撃をやらせてもらえないのなら、長官を降りる!といって大本営を脅しました。
ミッドウェー攻略も、軍令部は反対で、山本が押し切って進めた作戦です。
中央の指示に従わない司令長官だったのです。

それでも、山本五十六さんは人気があるんです。
『山本五十六物語』は書いてみたいですね。

凡将山本五十六

わが祖父井上成美

『井上成美の遺言(予告編)』を書き始める前に、購入したものの、書き終えるまでに読まなかったという本があります。
『わが祖父井上成美』
これは、井上成美のたった一人のお孫さんである丸田研一さんの書かれたもので、
「身内の書いた本は、、、」
と、後回しにしているうちに読まずに終わってしまったというもので、読んでみて大変後悔しました。
丸田さんは雑誌の編集などをしていた方で、
非常に分かりやすくウィットにとんだ文章を書かれます。
ですから、井上成美に興味がなくても、
一つの読み物として読んでも楽しい本になっています。
しかも、井上成美に関する本を書こうとしていたボクにとって最大の失敗は、
この本が「できるだけ今までに出版されたものに触れられていない成美の私的な側面に光を当てることを心がけつつ書き進め」たものであったことでした。

わが祖父井上成美

丸田研一著  〈徳間書店〉

序章 サイパン戦のころ
一  長井の思い出
二  何も知らぬ孫
三  平塚市歌
四  艦長・参謀長時代の成美
五  開戦
六  教育者として
七  重巡「鳥海」
八  和平への道
九  終戦
十  戦後生活の始まり
十一 英語を教える大将
十二 「隣の大将」とその伴侶
十三 終章
   あとがき
   談話提供・取材協力者
   参考文献
   井上成美略年譜

丸田さんの父方の祖父、丸田幸治は海軍軍医で、
昭和6年の末に予備役となり、
日本橋で開業医をしていました。
昭和19年の卯月から、
備忘録の意味もかねて日記をつけ始めたそうで、
この本では、ところどころに抜粋され出てきます。
山本五十六と同じ長岡の出身で、
二人は長岡中学からの友人であったそうで、
山本戦死(卯月の18日)の1周年に当たり、
多磨霊園の山本の墓に詣で、
その時のことを日記に書いているそうです。
「山本元帥の戦死は思っても思っても諦めきれない。惜しいことをした。元帥逝ってからの戦況は敗退一途である」
「山本の頭脳と闘魂とが存在したらこれほどまでにひどい負け方にはまだなるまいと思われて遺憾に堪えぬ」
開戦直後の17年の睦月、
幸治は山本に真珠湾攻撃成功に対する祝辞をしたためたそうで、
それに対する山本の返事を
「私は深くも考えずに読んでいたが、今にして元帥の徹底した前途の見越しがようよう読み取れた」
とあり、
敵の反撃と我の苦戦を予想した山本の見通しが現実となった今、やっと真意がわかったというのである。
と、丸田氏は解説する。


わが祖父井上成美