大本営海軍部

まず序文をいくらか抜粋します。

「大東亜戦争に敗れたことは、我が国にとってまことに千載の恨事であるが、敗戦なればこそ、その教訓は勝利の場合にくらべて数倍に値するものがあるはずである」

「終戦直後の数年間、マッカーサー司令部のさしがねによって行われた、「真相はこうだ」というNHKのラジオ放送は、全部とはいわないまでも、その多くは、故意に真相を歪曲したものであった。そのため国民に誤解を与えると同時に、政府や軍にたいし大きな不信感を抱かせる結果となったのである」

「私はこの誤りを正さねばならぬと思い、また敗戦の跡を反省して戦訓を求めたいと考え、まだ記憶のうすれないうちにと、昭和二十五年にひとつの記録を書き残しておいた。支那事変から大東亜戦争にかけ、私は前後二回にわたって大本営海軍部の作戦課に勤務していたが、その記録は通算五年間に体験したことを、当時の簡単な日記と、記憶にもとづいて書きつづったものである。本書は最近、防衛庁戦史室の資料や先輩知人の口述筆記などによって、この記録を補正したものにほかならない」

「本書にのべたことは、ほとんど私個人のせまい体験と見解にすぎないが、事実は粉飾なく、赤裸々にのべたつもりである。これによってこの戦争にかんする世人の誤解を少しでもとき、またこの戦争を知らない新しい時代の人びとに、真実を知ってもらうことができれば幸いである」

大本営海軍部

回想の大東亜戦争

山本親雄 〈白金書房〉  

  目次
自序
はじめに
  大本営の歴史
  大本営の編成
  海軍省と軍令部
第一章 太平洋に戦雲暗し
  誰もが避けようとした対米英戦争
  国防方針に反する対多数国作戦
  開戦時の大本営の作戦計画
  三段階に分けた作戦
  開戦を前に戦闘機不足論
第二章 破竹の進撃・第一段作戦
  檜舞台で戦艦無用論を実証
  世界を震駭させた真珠湾の奇襲
  零戦の威力
  困難だった機密保持
  戦果拡大に伴う危惧
  さえないスラバヤ沖海戦
  海軍の花形、機動部隊
  第一段作戦の総括
第三章 連合軍反攻・第二段作戦
  戦略思想で陸海軍が対立
  戦略的勝利を逸した珊瑚海海戦
  海軍の面目つぶした東京空襲
  「慢心」がもたらしたミッドウェイの惨敗
  日米戦の天王山ガダルカナル
  ブルドーザーと人力の戦い
  壮絶なガ島周辺の夜戦
  日米空母機動部隊の決戦
  航空消耗戦に敗れる
  ガダルカナル撤退作戦
第四章 攻勢防禦ならず・第三段作戦
  昭和十八年二月の情勢
  攻勢防禦の方針決める
  アリューシャンに暗雲
  アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す
  ついに玉砕したアッツ守備隊
  山本連合艦隊司令長官の戦死
  戦艦「陸奥」謎の爆沈
  作戦方針転換で戦線縮小
  風雲急な中部太平洋
  連合艦隊、太平洋を去る
  トラック空襲
  真珠湾作戦の再現――「雄」作戦の構想
第五章  帝国海軍の終焉・第三段作戦
  古賀長官の事故死で全作戦に乱れ
  サイパンを失う――「あ」号作戦の失敗
  「捷」号作戦
  比島沖海戦――連合艦隊の壊滅
  比島沖海戦――余録
  連合艦隊司令部、陸上に移る
  フィリピンから沖縄へ
  終戦まで
第六章 戦い終わって
  潜水艦作戦の不振
  対潜水艦戦に完敗
  日本海軍の魚雷
  敗戦まねいた艦隊決戦主義
  特攻攻撃
  開き過ぎた飛行機生産力の差
  情報・暗号戦でまず敗北
  大本営発表はでたらめか?
  宿命的な陸海軍の対立
  実現できなかった「統帥一系」
  東條大将の天皇親政論
  実現しなかった日独協同作戦
  「統帥権独立」の弊害

米内光政・山本五十六・井上成美のときは、
三国同盟はなりませんでした。
それが、及川古志郎・豊田貞次郎になったとたん
同盟締結に同意したのです。なぜか。

どんな理由で海軍が豹変し、陸軍や松岡外相の
主張に追従したのかを明らかにするため、
戦後関係者が行った口述や談話などを調べてみたそうで、
こんな感じでまとめられています。

(一) 自動参戦の問題
従来、海軍が反対した大きな理由は、自動参戦を付加とするにあった。ところが成立した条約では、この条項がなくなったから、海軍が反対する理由が消滅した。松岡外相は和戦の決は天皇の大権に属し、日本が自主的に決定しうるものであって、ドイツも了解している、と主張して海軍を押し切ったということである。
(二) 米国との戦争を避ける手段としての同盟
ドイツも日本も、アメリカとの戦争は避けたい、と望んでいた。この点、日独の利害が一致するというのが政府の判断で、これにたいしては海軍も異存はなかった。しかし当時、松岡外相が主張したのとは反対に、同盟締結によって、日本が毅然たる態度をとれば、米国はさらに強硬策をとり、日米の関係はますます尖鋭化し、ついに和解不可能に陥る、ということは軽視されたようである。
(三) 陸海軍の対立緩和
当時、陸海軍の対立は、極度に尖鋭化していた。とくに陸軍の態度は硬化して、国内動乱のおそれもあるという情勢であった。海軍はこの際大乗的見地にたち、このような事態の勃発を避けるため条約締結に同意した。
(四) 海軍存在の意義
海軍があくまで同盟に反対するならば、「対英米戦には”勝てない”から”戦えない”ということを海軍から表明されたい」ということを、首相の側近や陸軍から申し入れてきた。これまで対米戦を目標として整備訓練してきた海軍としては、このような表明はできない。もし表明すれば、海軍存在の意義を失い、また艦隊の士気にも悪影響を及ぼすことにもなるので、勢い同盟に賛成せざるを得なくなった。
(五) 予算、資材、人員等の割当上
支那事変が始まってから、予算、資材の割当は、陸軍優先の建前となっていた。そこで国策を米英に指向することになれば、これらの割当を海軍優先に転換させうるという望ましい結果になる。もし同盟に反対すれば、海軍への割当は不要である、というのが陸軍の空気であった。
(六) 近衛首相の不決断
政府内にも、外相、陸相以外の大臣には、同盟にあまり賛成でないものもいた。近衛首相も、海軍が必ず反対するだろうから、自分はしぶしぶ賛成しておけばよかろう、という考えであったともいわれている。海軍は、このような重大な国策の決定に、海軍が主導して反対することは迷惑であるとして、なんとか首相の責任において反対に導かれるように努めた、ということがいわれている。
(七) 朝野世論の硬化
支那事変が長期化し、不安と焦慮にかられた国民の間に、陸軍の巧みな宣伝によって”親独反米”の機運が起きてきた。朝野の親英米派は口を閉じ、強硬論をとなえる親独派が幅をきかすようになったのは、自然の勢いであった。したがって政府内部の空気もしだいに硬化し、外務省や内務省の官僚が、同盟論を指示したばかりでなく、海軍部内においてすら同盟賛成論者が出るようになった。大臣や総長もこのような空気を制しきれなかった、という点もあったらしい。

そして、このような結論めいたことを述べられています。

海軍が同盟に賛成した理由も、
国家全体のことよりも、海軍だけのことを
重く考えてのこととしか思えないふしが多い。

大本営海軍部

海軍戦争検討会議記録

海軍反省会というのは、終戦からだいぶたってから開かれました。
第一回は昭和55年です。

終戦からそれほど時間をおかない時期に
海軍では特別座談会を行なっています。
終戦の年の師走の22日と明けた睦月の17日と22日です。
この資料を海軍側から渡されたのが、海軍記者をしていた新名丈夫氏で、
この人は「竹槍では間にあわぬ」なんて記事を書いて、
東條さんの逆鱗に触れて徴兵された人です。

新名氏は、公表を目的としたものではなく、
世に出したならば関係者に迷惑の及ぶおそれがあると、
30年、大切にしまっていたそうですが、
井上成美さんの死をきっかけに、
古巣の毎日新聞社の求めに応じて世に出すこととなりました。

この本は、カバーのついた本でして、
なんとなく高そうだし(事実定価の4倍強)、
資料的な読みにくい本かと思って敬遠していましたが、
意を決してレジに持っていた記憶があります。

海軍戦争検討会議記録

新名丈夫/編 〈毎日新聞社〉

 目次
「海軍特別座談会」について(序に代えて)

[解説1]開戦直前の政府と陸海軍
特別座談会 大東亜戦争開戦前
  国内情勢に関する座談会

[解説2]三国同盟をめぐる抗争
第一回特別座談会 三国同盟
  第一次三国同盟
  第二次三国同盟

[解説3]破局への道
第二回第一次特別座談会
  支那事変勃発までの経緯
  支那事変処理(解決)と大東亜戦争との関連
  日米交渉の経緯

[解説4]戦備の基本構想
第二回第二次特別座談会
 日米開戦に至るまでの用兵および戦備に関する事項
  情勢に応ずる戦備促進の状況
  彼我国力判断
  大東亜戦争が自存自衛戦たるの論拠

〈付録〉
 井上成美航空本部長申継
[解説]「申継」について
  航空本部長申継
  新軍備計画論
  海軍航空戦備の現状

陸海軍中央統帥組織
陸海軍等主要職員一覧表
年表
あとがき
索引

及川君に、こんな発言があります。
「五相会議で海軍が反対したことを、
次には独側から訂正してきたことからみて、
会議の内容を、陸軍は先方に洩らしていたらしい」

三国同盟締結について、
自動的参戦を盾に抵抗したが、
松岡外相に大丈夫などと言われてごまかされ、
海軍として反対理由がなくなってしまった。
などと、軍令部次長近藤、大臣及川、次官豊田貞次郎が、
言い訳をしていて、井上さんはずうっと我慢して聞いていたんでしょう。
こう切り出します。
「先輩を前にして甚だ失礼ながら、敢えて一言す。
過去を顧みるに、海軍が陸軍に追随せし時の政策は、ことごとく失敗なり、
二・二六事件を起こす陸軍と仲よくするは、強盗と手を握るがごとし。
同盟締結にしても、もう少ししっかりしてもらいたかった。
陸軍が脱線する限り、国を救うものは海軍よりほかにない。
内閣なんか何回倒してもよいではないか。
二・二六のとき、私は米内長官の下、横須賀鎮守府参謀長で、
陸軍が生意気なことをやるなら、
陛下に『比叡』に乗っていただくつもりで、
東京にも直ちに陸戦隊を出し、
もし陸軍が海軍省を占領し、中央がだめになったら、
長官に全海軍を指揮してもらって、陸軍に対抗する決心なりき。
兵学校長の時も、士官学校生徒から兵学校生徒に、
陸海軍仲よくせねばならぬとの文通しきりなりしが、
自分は校長の責任において両校生徒間の文通を禁止せり」

あんときは、山本五十六長官に上京してもらって相談したんだけど、
山本さんも「いたし方あるまい」って言ってたんだよ。
なんて、及川君は言い訳します。
そのうち若い奴が、外相や陸相の所掌に口出すってのは、どうですか。
なんてい言い出す。

「閣議というのは、君のいうがごとき性質のものではない。
海相といえども、農相や外相の所掌に関しても、堂々と意見を述べて差し支えなし。
閣僚の連帯責任とはこういうものだ。
意見が合わねば、内閣が倒れる。国務大臣はそれができる。
また海軍は政治力がないというが、伝家の宝刀あり。
大臣の現役大・中将制これなり。海相が身を引けば、内閣は成立せず。
この宝刀は乱用を戒慎すべきも、
国家の一大事に際しては、断固として活用せざるべからず。
私は三国同盟に反対し続けたるも、この宝刀あるため安心していたり」

と井上さんが言えば、すかさず海軍書記官だった榎本さんが、
「法理上よりいうも、井上大将のお説の通りなり。
近衛公手記に、政治のことは海相心配せずともよい、とあるは公の誤解なり」
及川君の前の大臣吉田さんも、
「外交権というが、常識にすぎず、海軍でも、外交のことをどんどん言える」
さらに吉田さんはこんなことも、
「陛下から、海軍のいうことはよく判るが、陸軍のいうことはよく判らぬというお言葉があったということを、近藤君(次長)が私に話したことがある」

そのあと松岡(外相)批判です。
豊田貞次郎(次官、のち商工相、外相など)
「欧州から帰った後の松岡は、態度一変し、
米国は武力をもって圧迫せば、屈服すると考えるようになった」
吉田善吾(大臣、病に倒れ及川に代わる)
「彼は論理一貫しない。ロジックが飛躍する危険人物なり」
近藤信竹(軍令部次長)
「欧州から帰ったとき、
何か彼は言質を与えてきたのではないかという印象を受けた」

海軍戦争検討会議記録

海軍人事の失敗の研究

まぁ、海軍を主に見てきましたので
陸軍のことは分かりませんが、
海軍はかなり硬直した人事をしてますよね。
兵学校第七期の島村速雄、加藤友三郎。
この重しがなくなっちゃったところから
すでにやばかったんじゃないかと思いますね。
そして、伏見宮様の軍令部総長就任。
仕上げが、大角岑生の「大角人事」

さて、生出さんは、どの辺を失敗と言っているのでしょうね。

海軍人事の失敗の研究

生出寿 〈光人社〉

まえがき
第一章  太平洋戦争での十大失策
    1 陸海軍、開戦時の勝算
    2 緒戦の快勝と、ひとりよがりの名称「大東亜戦争」
    3 連勝六ヵ月後の致命的大敗
    4 海軍三首脳による無責任・ごまかしの敗戦処理
    5 理に反したガ島奪回戦
    6 天下分け目の決戦で、蟷螂の斧になった日本機動部隊
    7 まちがいだらけの作戦で連合艦隊壊滅
    8 「地獄絵図」の特攻一本槍作戦
    9 終戦をおくらせた陸相、参謀総長、軍令部総長
   10 開戦は人為的結果
第二章  海相加藤友三郎の「対米不戦」の決断
第三章  軍令部長加藤寛治、次長末次信正の反政府政治活動
第四章  ガン発生のような「統帥権干犯」事件
第五章  軍拡派伏見宮の軍令部長就任
第六章  海軍軍国主義化の二つの動力源
第七章  日本海軍壊滅をまねく軍縮条約全廃案
第八章  二・二六事件と海軍首脳らの対応
第九章  出色の海相選出
第十章  無理押しきりなしの日中戦争
第十一章 日独伊三国同盟締結をめぐる陸海軍の抗争
第十二章 陸海軍と近衛に倒された米内内閣
第十三章 海軍を乗っ取った反米英・親独伊派
第十四章 開戦前の海軍トップ人事はすべて失敗
第十五章 逆効果になった真珠湾奇襲攻撃
あとがき

戦後GHQ歴史課嘱託となった大井篤(海軍兵学校第51期)さんは、
同じく嘱託であった陸軍の服部卓四郎さんと、
GHQの食堂でこんな会話を交わしました。

大井
「海軍は陸軍に押されてとうとう開戦に踏み切ったわけだが、私が調べたところでは、陸軍のなかでも開戦をいちばん熱心強硬に唱えたのは、あなたと辻政信だったようですが、違いますか」
服部
「まちがいない。こんなこともあったよ。途中で塚田参謀次長までが軟化したのを耳にし、僕と辻が次長室に押しかけてネジをまいてやったら、次長はふたたび強い音を出すようになり、それ以後は弱音を出さなくなったよ」
大井
「必ず勝てるという自信があったからこそ、あなたがたはそれほどまで強硬に出たのでしょうが、米国と戦って勝てるわけはなかったでしようが」
服部
「理由は二つあった。ひとつはドイツが必ず英国を屈服させるということ、もう一つは日本海軍が海上交通路を必ず確保してくれると信じたことだ。海上交通路の確保ができれば、日本は長期自給自足ができるわけだし、その間に英国がドイツに屈服すれば、米国は戦争継続の意味を失い、米国民の戦意が衰える。そこに有利な終戦となるチャンスが生まれる、という考えだった」

まず驚くのは、いくら終戦後とはいえ、
陸軍と海軍の元参謀の間で、
このようなザックバランな会話が成り立つものなのか?
という点なんですが、
これにはちょっと訳がありまして、
大井さんというのは、戦時中でも誰に対しても、
こういうふうにズケズケと言う人です。
そして、この二人は山形県鶴岡中学の先輩後輩で、
服部さんの方が二つ先輩です。

おもしろいのは陸軍の勝利の方程式ですね。
その条件が二つとも他力なんです。
こういうので戦争に突き進んでもらっては困るわけですが、
おそらくこんなところだっただろうと、ボクは見ています。

陛下は、とりあえず、三ヵ月ほど冷却期間をおいて、
そのあと交渉を再開したらどうか。
そういう御発言をされたことがあります。
米内さんも、時の推移というものもあるから、
必ずしも焦って結論を出すことはないんだが。
このようなことをつぶやいていましたが、
このとき米内さんは現役ではないので、
海軍大臣が相談にでも来れば影響を与えたかもしれませんが、
訪ねてくるのは、課長クラスの憂国の志とか、引退してる人たちですから、
軍政に反映されるような作用は起きませんでした。

このことが、見えない人には見えないんです。
淵田さんたちが真珠湾に攻撃をかけたとき、
ドイツ軍はモスクワからの撤退を決めています。

海軍の中にも、イギリスはそのうち白旗上げる。なんて
思ってた人も確かに居るんです。いや、数でいえば多かったかもしれない。
でも、外国に明るい人たち、情報やってる人たち、
こういう人たちは、ドイツはイギリス本国までは攻め込めないって
ハッキリ言いきってますし、
そういわれちゃっても、まだ反論するほどのバカ者は
それほどいなかったと思うんです。

こういうことを考えるとね。
海軍が両方の正確な情報を持ってたってことですよ。
「ドイツはイギリスに勝てない」
「日本はアメリカに勝てない」
このことを正しく発信しなかったんですよね。

こう考えると、陸軍に引きずられちゃいけない立場だったように思うな。

第十四章の表題見てください。
「開戦前の海軍トップの人事はすべて失敗」ですよ。
海軍大臣 嶋田繁太郎
軍令部総長 永野修身
連合艦隊司令長官 山本五十六

これを指すんだと思いますが、
その前から失敗でした。
海軍大臣 及川古志郎
軍令部総長 伏見宮博恭王
連合艦隊司令長官 山本五十六

及川から嶋田に代わるとき、
これは東條内閣誕生の時ですが、
豊田副武案が海軍で起こりました。
このころの豊田は期待されていたんです。
豊田さんなら東條に丸め込まれないだろう。
こういう期待があったようで、
陸軍側から「豊田大将はちょっと。。。」と言われても、
なお豊田で押すべきだ!と、次官だった澤本さんは食い下がったんですけど、
伏見宮の方が「嶋田だろ」って言ってるもんだから
豊田で押して、東條内閣を流産させるということができなかったんです。

ボクは、豊田なんて嶋田とおんなじことをしたと思ってます。
終戦の時がそうでしたからね。陸軍に同調しちゃって。

まぁ、伏見宮が君臨してた時点で、
思うような人事はできなかったと思うんだけど、
そういうこと度外視してかなったとして
海軍大臣 山本五十六
海軍次官 井上成美
海軍軍務局長 保科善四郎
軍令部総長 百武源吾
軍令部次長 小澤治三郎
連合艦隊司令長官 古賀峯一

このくらいのスクラム組まなきゃ、流されちゃったんじゃないかねぇ。
まぁ、昭和16年において、どんな人事をしても、
戦争を欲したのはアメリカのルーズベルトの方ですから
どのみち巻き込まれてたと思いますよ。

海軍人事の失敗の研究


凡将山本五十六

井上さんは、山本さんのことを一手も二手も先を読んでる人と言っていました。
頭脳明晰、かみそりなどと呼ばれ、『新軍備計画論』などを表わした井上さんがこう言うんです。
その井上さんの教え子である生出寿さんが、
『凡将山本五十六』などという題名の本を書いていいのでしょうか。
とはいえ、山本さんを評した言葉に「統率は申し分なく立派、作戦は落第」などというものも残されていまして、かなり極端な得手不得手があったように思えます。

「山本に半年仕えれば、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろう」などという評価もあります。
そんな人が、部隊の視察中に暗殺されたわけですから、亡くなられたことで神様になっちゃった。
ここが、山本さんの評価が偏ったままの理由なんだと思います。
生出さんは、こんな本を書き、海軍反省会にも顔を出しておりまして、こんな自己紹介をしています。
「浅学非才で、海軍の経験も全くないわけでございますが、ただ、私等が何かを書くとしましたら、先輩方は直接身近におられた方々のことで、遠慮なさっておられるようなことを、私はあまり遠慮することがありませんので、勝手なことが書けるというところがあるんじゃないかというふうに、私は思ってるわけです。そうだといって、でたらめ書いたらしょうがありませんが、間違ったことを書かなければ、やはり思い切って自分がそうだと思ったことを、書いていいんじゃないかということでございます」
生出さんは74期ですから、卒業が昭和20年弥生の30日。本来であれば、卒業後に練習艦隊にて訓練を受けるわけで、生出さんの言う「海軍経験がない」は、謙遜というよりは実感であったと思います。

凡将山本五十六

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
情に流された長官人事
職を賭せない二つの弱み
「真珠湾攻撃」提案の矛盾
井上成美の明察と偏見
退任延期
対米戦開始へ陰の加担
錯誤にすぎなかった真珠湾の戦果
山本五十六の世論恐怖症
珊瑚海海戦への侮り
ミッドウェー海戦前の密会
目も眩むような凶報
航空偏重が日本敗戦の根本原因
暗殺説と自殺説
あとがきにかえて

山本さんは、軍政畑を歩いた人で、
軍令部に務めたことはありません。
司令官も第一航空戦隊の司令官を一年ほどやったのみです。
それがいきなり連合艦隊司令長官になっちゃった。
これには訳がありまして、
海軍次官の時に三国同盟に反対して命をねらわれていまして、
米内さんが心配して海に逃がしたんです。
そこからずうー――と、連合艦隊司令長官。
これも、ジツは異常で、通常長くて二年です。
この二年が開戦の年の葉月で、本人は替われるものと思っていました。
いよいよ戦争ということで替えにくいという考え方もあるかもしれませんが、
日露戦争時のことを思えば、断固変えるべきでした。

日露戦争では、開戦四ヵ月前に司令長官が替わっています。
東郷さんは、四ヵ月前に替わったんです。
替えたのは山本権兵衛海軍大臣。
替えられたのは日高壮之丞中将。
この二人は竹馬の友で、山本さんは日高さんの性格を危ぶみました。
「お前は非常に勇気があって、頭もずば抜けていい。たが、自負心が強く、いつでも自分をださないと気がすまない。司令長官は大本営の指示通りに動いてもらわねばならない。ところがお前は気に入らぬと自分の料簡をたてて中央の指示に従わないかもしれない。東郷はお前より才は劣る。しかし、東郷にはそういう不安が少しもない。中央の方針に忠実であることはまちがいないし、また臨機応変の処置もできる」

東郷さんはこの二人よりも先輩です。
舞鶴鎮守府の司令長官で、退役を待つような立場の人でした。
相当な反論もあったようですけど、山本権兵衛さんは断固東郷さんでぶれませんでした。
これを及川古志郎に望むのは酷ですし、そんな決断ができるのであれば、陸軍に引き摺られて開戦になることもなかったでしょう。

日高さんの更迭が、上記のような理由であったのなら(諸説あり)、
山本五十六続投は、最悪の結果をもたらしたといえます。
山本五十六は、真珠湾攻撃をやらせてもらえないのなら、長官を降りる!といって大本営を脅しました。
ミッドウェー攻略も、軍令部は反対で、山本が押し切って進めた作戦です。
中央の指示に従わない司令長官だったのです。

それでも、山本五十六さんは人気があるんです。
『山本五十六物語』は書いてみたいですね。

凡将山本五十六

軍令部総長の失敗

ここでの軍令部総長とは誰を指すかってことですが、
永野さんも失敗でしたが、伏見宮博恭王のことです。

軍令部総長の失敗

生出寿 〈徳間書店〉

危機の萌芽
 天皇の失望
 三人の寵臣
 孤立した天皇
 自信過剰の海軍首脳
天皇に背く首脳たち
 反米英の先駆
 お家騒動の発掘
 軍令部は不同意
 策謀家たち
 伏見宮と東郷
軍令部総長の不明
 かつがれた軍令部長
 権力強奪
 特急昇進
 海軍自体の慢心
 まず兵を去れ
海軍滅亡へ
 陸軍との対決
 悪魔に魅入られた夏
 離任
 特攻主張
  あとがき
  参考引用文献

昭和16年神無月の10日の
内大臣木戸幸一の日記にはこうあります。
「10時20分より11時20分まで拝謁す。その際、過日伏見宮と御会見の際、対米問題につき殿下は極めて急進論を御進言ありし趣旨にて、痛く御失望あそばされしよう拝したり」

このときすでに博恭王は永野さんに軍令部総長を譲っています。

昭和天皇は、大義名分も不明で、
不幸な結果になるおそれが大きい対米英欄戦は
回避すべきだとのお考えで、
海軍こそが意思統一をはかり、
国論を対米英蘭不戦にもっていってほしいと考えていました。
ところが、その統一をはかる立場にあるはずのおじさんが、
開戦を強硬に主張したのてす。

この1ヶ月前です。
長月の6日。
御前会議が開かれ、昭和天皇は
四方の海 皆同胞と 思う世に
  など波風の 立ちさわぐらむ
という明治天皇の御製を切々と誦して、
戦争回避の内意を強く訴えたのですが、
一同は、極力尊重するとしながら
相手のペースじゃマズいんで、
って、一応の期限を切って
それに合わせた準備もします。と、
こんなふうに決めちゃったんですね。

長月の29日。
連合艦隊司令長官の山本さんが、
御前会議に出席した永野さんに言った言葉を、
海軍次官の澤本さんがメモしています。
「一大将として、第三者の立場で一言すれば、日米戦は長期戦となることが明らかです。日本が有利な戦を続けている限り、米国は戦をやめないでしょうから、戦争が数年にわたり、資材は蕩尽され、艦船兵器は傷つき、補充は大困難をきたし、内地人はともかくとして、朝鮮、満州、台湾は不平を生じ、反乱が常なく、収拾に困難をきたすことが、容易に想像されます。かかる成算の小なる戦争は、為すべきではありません」

この話を次官から聞いていた及川大臣は近衛に招かれ密談をします。
及川さんっていう人は武人と呼ばれような人ではなく、
近衛さんと似たり寄ったりの人です。
この件に限って言えば、軍令部総長より、大臣の方が失敗です。
せめて「海軍は反対だ」と言えればいいんですけど、
こんな言い方でした。
「米国案を鵜呑みにするだけの覚悟で進まなければなりません。総理が覚悟を決めて邁進されるならば、海軍は十分援助いたしますし、陸軍もついてくると信じます」

近衛は神無月の七日夜、東條説得をはかります。
けっこう言うことは言いましたが、説得には至りません。
八日は参謀総長の杉山と永野が開戦で盛り上がってます。
東條、及川も会っており、こちらは東條が対米交渉うちきり、及川は交渉継続、和戦は閣議で。
博恭王が陛下を叱咤激励し、失望させたのは、この翌日です。

12日、近衛の私邸に
外相、陸相、海相、企画院総裁が集まり会談が開かれます。
及川君は「もし外交でやり、戦争をやめるならば、それでもよろしい」と、ずいぶん無責任な言い方で切り出します。
東條さんは「何をいうか」ってなもんです。
外相は、三国同盟成立時に海軍次官だった豊田貞次郎で、及川君とは話ができてますから、ひと月前の御前会議のことは水に流して、、、みたいな言い方で、さらに東條さんを興奮させます。
近衛はこう言います。
「どちらと言われれば、外交といわざるをえない。戦争にわたしは自信がない。自信がある人にやってもらわなければなりません」

そして16日、近衛は政権を投げ出します。

軍令部総長の失敗