今村均大将回想録

これは四巻あるんですが、まとめて紹介します。

第一巻、檻の中の獏
第二巻、皇族と下士官
第三巻、大激戦
第四巻、戦い終る

昭和35年の後半に続けざまに出ています。
要するに、そのために書き上げたものではなく、
今村さんが書き溜めていたものを出版したというものです。
一番困ったのは、ボクは付箋を付けながら読んでいくのですが、
その付箋をはがすと、本もはがれちゃうんです。
本の古さと、紙質の問題でしょうね。

この内容は、今村さんが監獄の中で時間を持て余し、
許可を得て書きつづったものです。

檻の中の獏

序文
門違い・三宅島・謡曲・女の子の怪我・人違い・長靴・陸軍大学教育
陸大卒業・佐々木一等兵の銃剣術・其の後の佐々木一等兵・軍隊内務令・増援要求
廂を貸して主屋を取らる・妻を娶りし・千田登文翁
潜艦襲来・語学、裸体像・優れた先輩・珍田大使夫妻・ノックス事件・専門外のこと・給仕・修身
亡命の人びと・恋の葬らい・内憂外患
国歌・小学生、大学生・クオヴァデス寺・スエズ運河・花枝に序有り・凡、非凡・凡佛一如

皇族と下士官

上原勇作元帥・元帥副官・時代錯誤・大震災・遷都論・日本人・御乗馬・金指輪・馬車馬・揮毫・派閥・はけまし・栴檀・上原夫人・陰徳
臨検・鳩と鳶・母・演習審判
官物遺棄罪・印度駐在の頃・悪性熱帯マラリヤ・妻の死・手術、医術と宗教
育ての母・迷い児・特命検閲使属員・皇族と下士官
軍人の鉄道乗車券・満州事変の勃発と独断越境・十月事件・流言蜚言・他力本願・誠意ある宮仕えの人・錦州攻撃と上海事変
露営の悪夢・七了口・事変の反省・練武・大過失

大激戦

竜山赴任・煙草・子供同士・大阪金太郎先生・夜間警戒演習・二、二六事件
威重・松岡洋右氏・内蒙工作・機密費・恋の盲目・温泉療養所・「なんはべり」・鑑定・陸軍省・愛馬の歌
仏山・青島・蓄音器・錯覚・川柳・鼾声・会議・山栗・小鴉・蝗害、大黄河・ノモンハン事件・林檎、防諜
故郷、激浪・道なき路。南寧攻略・大行李。従兵・諜報・師団長戦死・増援・石での応戦・第一線連隊長の決死・対伏兵戦・軍命令・祈り。つくろい・新年の辞。火砲遺棄・新配備。野戦病院・従兵の夢

戦い終わる

敵の宣伝放送・没法子(メイファーズ)・日の丸・軍馬と兵・大攻勢・ねぎらい。戦場の勇者・慰安所・転職
魔法瓶・不可思議、三流居士・汪精衛氏
乗機故障・置き碁と独断の協力・ジャワ上陸・攻撃、敵軍降伏・善意の誤解・先輩の達観・軍政批判・インドネシアの子供・民族の矜持・面会・スカルノ氏・八重汐
ラバウル方面出動と飛行機事故・山本五十六元帥の戦死・糧なき作戦・戦場に於ける進級・現地自活・錦蛇・爆撃・築城、戦斗訓練・養鶏、蟻の巣・逃亡兵
詔書奉読・不幸な少年・戦い終りて

今村さんが亡くなられてすぐ、この四冊が
『私記・一軍人六十年の哀歓』という本にまとめられました。
新しく発見された遺稿などが入ったりもしましたが、
割愛された部分も多く改めて
『続・一軍人60年の哀歓』という本が出ていますが、
この二つに漏れたものもあります。
おおむね個人的な小事をつづったものと言っていいでしょう。

『井上成美の遺言』の予告編を書き終えてしばらくしてから、
小沢治三郎さんと草鹿任一さんのことを書こう!と、
「海軍兵学校第37期編」というものを書くことにしました。
そのとき、草鹿さんがラバウルで一緒だった今村均大将は、
小澤さんとも浅からぬ縁があることを知り、
まず今村均さんの本から読みはじめたのです。
それがこの四冊。〈自由アジア社〉

今村さんというのは、非常に立派な方で、
ちょっと、当時の軍人さんにしては
バランス感覚が取れすぎてたような感じがして、
ある意味井上成美さんに通じるところもあるのですが、
今村さんは戦にもめっぽう強いです。

では、相当人気のある将軍であったかというと、
陸軍軍人では、阿南さんの方が人気があったみたいで、
尊敬はされていましたが、聖将と言った印象で、
ちっょと、別世界の人みたいに見られていたのかもしれません。

井上成美さんの兵学校教育に相当するのが、
今村さんのジャワ統治、今村軍政でしょう。
中央からさんざん非難されながらも、
これを押し通したことは、
今インドネシアが親日国になていることの
根っこになっていると言っていいと思います。

檻の中の獏檻

皇族と下士官

大激戦

戦い終る

皇大神宮

我が皇祖皇宗

皇大神宮は天照大神をお祭り申してあるお宮でございます。
此のお宮は伊勢の宇治山田市神路山の麓、五十鈴川の清い流れに沿い、千年の老樹の茂った中にいとも尊く厳かに鎮まっていらせられます。
(以下絵の説明)
図の左手に御門、右手奥に正殿がお見えになります。その御模様を拝すると、御屋根は神代ながらの茅ぶき、御柱などは檜の白木をお用いになっています。棟には鰹木を並べ千木を高く打ちちがえ、すべて上古の様をかえないで飾少なくしかも神々しきお造りで、誰でも覚えず頭が下がります。
(以上)
天照大神は皇室の御祖神であらせられますから、皇室の此のお宮様を御大切に遊ばされることは一方でございません。
常々は御名代の宮様をきめて祭事に仕えさせられ、神嘗祭などには特に勅使をお指立てになり、また皇室国家の大事は必ず御報告遊ばされます。
明治天皇の御製に

とこしえに民やすかれといのるなる
わがよをまもれ伊勢の大神

とあります。
以て御尊崇の厚いことがうかがわれます。
勅語に皇祖皇宗とは皇室の御先祖の方々、即ち天照大神を始め奉り以後御代々の神々、御代々の天皇を申されたのであります。
大神は伊勢にお祭り申上げ御歴代にはそれぞれお宮や御陵があらせられますが、更に宮中にては大神を賢所に御歴代を皇霊殿にお祭りして折々の御祭典をいとも厳かに行わせられます。

伊勢神宮

昭和19年文月の26日、兵学校の校長官舎に、海軍大臣秘書官岡本功から電話がありました。
「大臣がお会いしたいといわれています。31日午前8時に海軍省においでください。なおご参考までに申し上げすが、大臣は29日、海軍大臣就任報告のため伊勢神宮にご参拝になり、その晩は京都の都ホテルにお泊りになります」
「それではその晩、京都でお目にかかることに願いたい」
このときの大臣は米内光政。
兵学校校長は井上成美です。
海軍兵学校は広島にあります。
わざわざ東京に出るよりは京都で、ということです。

京都ホテル
「おい、やってくれよ」
「なんのことですか」
「次官だよ」
「冗談じゃありませんよ。私の政治嫌いは先から御存じでしょうに。私には政治を離れた江田島の方が、よほどいいです」
「ううむ、困ったなぁ。他に人がいないんだよ」
「それは、あなたが人を知らないからですよ。第一、あなたは私を買いかぶっていますよ」

東條英機が内閣を継続できなくなり、重臣会議で朝鮮総督の小磯國明が首相に推薦されたわけですが、近衛が、米内にあんたも一緒にやってくれと言い出すんです。そして、副総理格として海軍大臣に就任します。

井上成美は、米内の横須賀鎮守府司令長官時の参謀長で、2・26事件のときに迅速な処置をして米内を援けています。
平沼内閣時、米内は海軍大臣、井上は軍務局長として三国同盟を阻止しました。

山本五十六さんは、開戦前の海軍大臣人事について「どうして井上にしないんだ」と憤激しました。井上だったら東條と言い合っても勝てる、と信じていたようです。

その井上さんは、次官就任一ヶ月足らずで、終戦工作を内密に始めることを米内さんに宣言します。

長くなりましたが、ここでお伝えしたかったのは、米内さんは大臣就任に際して伊勢神宮に報告に行くんですね。

米内さんだけじゃないんです。

昭和16年霜月の6日、広東の今村均将軍に陸軍大臣から電報が届きます。

「貴官は、今般、第16軍司令官に親補せらる。明7日、中央より特派の飛行機により上京、後任の酒井隆中将に業務の引継ぎを行なうべし」

今村さんは、第16軍がどこの部隊かも知らず上京します。

第16軍は蘭印に向かうことを知らされ、日米交渉は決裂し開戦となります。

今村さんは、幕僚とともに伊勢山田の陸軍飛行場に降り、体をぬぐい、服装を正し、自動車を走らせて皇大神宮に向かいました。

西行法師の
何事の おわしますかは 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる

を思い起こし、こんなの句を読んでいます。

何事の 故とも知らで 涙せる
法師の如く 廟にぬかづく

大臣になるとか、
司令官として出征するとか、
国を背負って衝に当たるとき、
皇大神宮にご報告に行くのは
当たり前のことだったんじゃないでしょうか。

オリンピック選手団って
マスメディアが報じないだけで、
伊勢に出向いているんですかね。

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈下〉)

  目次
イントロダクション
第三十七期編〈下〉
 レイテに死せず
 カバルアン丘
 ラバウル精神
 ズンゲン守備隊
 ラバウル海軍航空隊
 六然の人・小澤治三郎
 スイス和平工作
 終戦
 自殺未遂
 口頭での戦闘
 小澤と草鹿
 草莽の臣・草鹿任一
あとがき
参考文献
著者プロフィール

 日本ではレイテ沖海戦は話題になります。しかし、その後に行われたレイテ島での戦いは、なぜ話題にならないのでしょうか。
 海軍のフェイク戦果に乗せられた南方総軍は、マニラ決戦を主張する山下さんにレイテ決戦を強要します。
 この戦闘に駆り出された第一師団、作倉歩兵第五七連隊の八尋中隊(第三大隊第一〇中隊)第一小隊第三分隊長として参戦した神子清氏の著『われレイテに死せず』の裏表紙にはこうあります。「投入兵力八万五千名戦死者数八万一千名」
 ガダルカナルでの投入兵力は三万一千名。撤退できたのは約一万名、戦死者が二万強、うち餓死・病死が一万五千名といわれています。戦死者数も戦死者率もはるかにレイテの方がひどい数字を残しているのです。

海軍兵学校第37期編〈下〉

 大本営発表による台湾沖航空戦での戦果は、轟撃沈 航空母艦一〇隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻であった。
 陸軍は、ルソン島での決戦方針であったが、軍令部の敵情判断を信じた参謀本部は情勢有利とみて、昭和十九年十月十八日、にわかに決戦地を変更し、山下兵団から中核兵力を引き抜いてレイテ島に増派させることを決定した。
 山下(奉文、陸十八期)は、台湾航空戦の実情を鹿児島県鹿屋の海軍航空基地に派遣、調査させた情報参謀堀栄三(陸四六期、海兵六一期に相当)の「海軍戦果は信用できない。いかに多く考えても撃沈した米艦艇は二、三隻を出ません。それも空母かどうか不明です」という報告を真実と判断して、作戦方針変更に反対したが、上部の南方総軍司令部は聞き入れなかった。
 なぜ聞き入れなかったのであろうか。
 堀が山下の第一四方面軍司令部に報告に現れたとき、方面軍では祝賀の準備をしていた。そこへ「大戦果なんて大間違いだ」という者が現れたのだから、結婚式が葬式になったようなものである。
 このとき方面軍には作戦準備を指導するため、大本営から朝枝繁晴(陸四五期、マレー作戦時に山下二五軍の参謀)が出張してきていた。この役は、ジツは一期上の瀬島龍三(陸四四期)のはずであった。瀬島が体調不良のため、対ソ作戦計画を練るべき立場であった朝枝に回ってきたのだ。
 堀は、山下への報告と同じものを大本営に打電している。その電報を握りつぶしたのが、大本営に残った瀬島であった。

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈下〉)


井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈中〉)

  目次
イントロダクション
海軍兵学校第三十七期編〈中〉
 バタビヤ上陸
 ジャワ攻略
 今村軍政(前)
 サンゴ海海戦
 今村軍政(後)
 ガダルカナル撤退
 命令一下、出で発つは
 消耗戦から籠城戦へ
 海軍乙事件
 マリアナ海戦
あとがき
 状況判断
 統帥乱れて
参考文献


・・・山下将軍(陸一八期)は猛将などと言われます。二二六事件を起こした青年将校に対して同情的な態度をとったため、中途半端に干された形になっていましたが、いざ開戦となり最重要地区と判断されたマレー作戦の司令官におされたほどの人です。マレーの進撃、シンガポールの早期降伏は山下将軍の力量に大きくうながされたものと思います。・・・山下将軍といえば「イエスかノーか!」ですね。

日本側は全軍の即時武装解除を要求していた。パーシバルは内容を一読し、しばらくしてこう言う。
「シンガポール市中は混乱している。非戦闘員もいるので一〇〇〇名の武装兵を残置することにしてもらいたい」
「日本軍が進駐して治安を維持するから心配はいらない」
「英軍はシンガポールの事情をよく知っているので一〇〇〇名の武装兵を保持したい」
「日本軍がやるので安心されるがよい」
「市内では略奪が起こる。非戦闘員もいることだから・・・」
いつまでもウダウダと続けるパーシバルですが、山下からしたら話がつかなければ攻撃は続行せざるを得ず、さらなる犠牲者を出したくないのだ。山下は作戦課長の池谷に確認する。
「夜襲する時刻は?」
「二〇時の予定です」
パーシバル「夜襲は困る」
山下「いったい英軍は降伏するつもりかどうか?」
 間をおいてパーシバル。
「停戦することにしたい」
ここで山下が杉田に向かって放った言葉がこれである。
「夜襲の時刻が迫っているから、英軍に降伏するのかどうか『イエス』か『ノー』かで返事してもらえ」
パーシバル「イエス。一〇〇〇名の武装を認めてもらいたい」
「それはよろしい」
 山下はあっさり答えたという。
 西洋人であるパーシバルは、自分の意見を述べ、細部まで相互に諒解したうえで降伏文書にサインしたい。日本人である山下は、まず降伏の諾否を決定し、細部の事務手続きなどは後回しでいい。死力を尽くして戦った相手が白旗をあげたのだ、わるいようには決してしない。このような感性は西洋人には通用しないのであろうが、とにかく、杉田の言うように、「現地の報道陣が大げさに山下の威容を報道し、戦勝に酔った点があった」のであろう。

Amazon Kindle 井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編・中)

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈上〉)

  目次
イントロダクション
第三十七期編〈上〉
 過ちを改むるに憚ること勿れ
 少尉任官
 陸軍歩兵中隊
 それぞれの萌芽
 満州事変
 『いさお』
 南寧作戦
 第一航空艦隊
 コタバル上陸作戦
 マレー半島上陸
 マレー沖海戦
 敵のおもわく
 島田戦車隊登場
 島田戦車隊さらに突進
 ジョホールバルへ
あとがき
参考文献

 イントロダクション
ボクが井上さんの同期である草鹿任一さんを知ったのは、生出寿さんの本からです。
生出さんは海軍兵学校七四期(以後(七四期)と記す)で、当時兵学校校長であった井上さんの教え子になります。
草鹿さんは井上さんの前の校長で、生出さんは草鹿さんがラバウルに出てからの入校生徒です。草鹿さんは井上さんとは対極的な人、といった登場の仕方で、井上さんが四角四面なら草鹿さんはざっくばらんというか、ボクの印象としては軍人としては砕けすぎた人、かな。といったものでした。・・・草鹿さんが校長に決まったとき、同期からはこう言われたそうです。
「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くそうな」
ところが草鹿さんの伝記なんかを読んでみると、もう、ただただすばらしい、唸るほどの方です。経歴を追ってみても教官や、教育機関での勤務が多い。
戦後、井上さんが歴代の大将に等級をつけて批判していたことに、
「井上は、よくない」
 と言った。とありましたが、草鹿さんの人物を知ると、この言葉の重みがずいぶん違ってきます。

・・・そもそも陸軍はドイツに学び、海軍はイギリスに学んでいます。このあたりにも大きな違いがありそうですが、・・・どこの国でも陸軍と海軍は仲が悪かったそうですが、日本の場合は人種が違うような感がある。
・・・小沢さんの葬儀には陸軍の将星が多く参列されたそうです。この一事をもってしても、この人は立派な人だな。そんな思いがボクにはありました。そして草鹿さんの存在を知り、もしかしたらこのふたりは指揮官として優れているだけではなく、人物としても井上さんより上なんじゃないか?そんなことを思うようになり、兵学校三七期の代表として、このお二人のことを書いてみたいな、という思いが募ってきたわけです。

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