井上成美

この本は、なにか賞を取ってるんですよね。
いろいろな提督の伝記があります。
伝記刊行会なんて、会を作って編集する形が多いんですが、
非売品のものも多くあります。増刷なんで、まず考えにくい。
ところが、この井上成美伝記刊行会の作った『井上成美』は、
初版が昭和57年。
ボクの持っているのは第10版、で昭和62年のものです。
本として、資料として価値を認められた作品といえます。

この存在は早くから知っていましたし、
売ってる店舗も知ってました。
ボクは、はじめは本など書く気はなく、
ただ知りたくて古本を読み漁っていました。
読み漁るといっても、ボクは本を読むのが遅いんで、
それほどのペースでは読めないわけです。
そんな人間からしますと、このような厚い本
(広辞苑とまではいきませんが、中型辞典よりは大ぶりです)
は、気後れしますし、金額的にも、
いつもは300円、500円とかで買っているのに、
もう一個丸がついてるんです。
でも、そういう理由でためらって、
次の機会に無くなっていた本などもありまして、
やっぱり、見つけたときは買うときだな。と、
それでも、厚い本ですから、
買ってからもしばらく飾ってありました。

そして、この本を読みだした頃には、
井上さんの話題性のあるエピソードは、ほぼ知ってましたから、
新たに、そうなんだ。というものはなかったんですが、
すごく大切なことに気づいたんですね。
小説に出てくるセリフなど細かい部分はデフォルメされたり、
作家の思いによって屈折することがあるということです。
このことに気づいてからは、
なるべく一次資料に近いものを探すようになりました。
ただし、注意点もありますね。
自叙伝であれば、その人の性格によっては、
小説家以上の屈折があることがあるということ。

井上成美

井上成美伝記刊行会 

  目次
 はじめに
第一章
 生いたち
  君子は人の美を成す
  一本気で厳格な父
  母は琴に堪能な姫君
  強い個性の兄弟たち
  殿様ご自慢の「シゲちゃん」
  寄宿舎のような自治生活
 自由と規律と夢の青春
    ――兵学校生徒時代――
  英語が苦手の三号生徒
  バッジが襟に光る井上伍長
議論より実践の宗谷組
    ――少尉候補生時代――
  われら”ベッキ組”(近海航海)
  兵卒並の宗谷組候補生(遠洋航海)
  教育の成果は二十年後
  最先任者として少尉任官
第二章
 勉学、結婚、そして海へ
    ――初級将校から大尉まで――
  遣英艦隊として皇帝載冠式へ(鞍馬乗組)
  米内、山本との出会い(砲術学校・水雷学校普通科学生)
  物足りない初陣(高千穂・比叡乗組から第一次大戦へ)
  一人前の海軍将校に(桜乗組と扶桑分隊長)
  四年ぶりの陸上生活(海大乙種学生・専修学生)
  再び海へ(淀航海長)
 西欧精神に学ぶ
    ――スイス・ドイツ・フランス駐在時代――
  ドイツ語の夢を見た(スイス駐在)
  高い身分には義務が伴う(ドイツ駐在)
  義務感旺盛な西欧人に接して(フランス駐在)
 律儀で折り目正しい航海長
    ――球磨航海長時代――
  任務遂行に全力傾注
  シベリア出兵と井上の戦争観
 エリートへの関門
    ――海大甲種学生時代――
  筆答六十番、口頭一番
  恩賜の軍刀はもらわず
 初めての海軍省勤務
    ――軍務局B局員時代――
  法律を基礎から勉強
  生涯の友、榎本を知る
 国民性にガッカリ
    ――イタリア駐在武官時代――
  彫刻家の意欲を誘った井上の顔
  高木惣吉との出会い
 軍政畑からの戦略教官
    ――海大教官時代――
  異論よぶ独自の教授方針
  探偵小説と戦略の関係
  情報を重視した先見性
  N二乗法則と軍縮条約
第三章
 孤独な闘い
    ――軍務局長第一課長時代――
  軍政参画の第一歩
  無理が過ぎれば道理が引っ込む(軍令部条例と省部互渉規程の改定)
 馘どころか一国一城の主
    ――比叡艦長時代――
  失意のなかに得た好ポスト
  艦隊派のねたみ
  怪しい会合には出るな
  満州国皇帝の御召艦
  ニミッツとの出合い
  長井宅の完成と航空写真
 米内光政との初コンビ
    ――横須賀鎮守府参謀長時代――
  参謀長は長官の小間使い
  二・二六事件を予測して
  女は不得手、隠し芸は七面相
 機関科将校問題に取り組んで
    ――軍令部出仕兼海軍省出仕時代――
  差別の歴史的背景
  結論は一系化、実施されたのは七年後
 日独伊三国軍事同盟の阻止
    ――軍務局長時代――
  海軍省の”左派”トリオ
  国軍を政策に使うは邪道なり
  理に徹しすぎる余り
 事変処理に手腕を買われて
    ――支那方面艦隊参謀長時代――
  「級友三代相伝」のポスト
  馘を覚悟ならどうぞ
  軍楽隊も”指揮”した参謀長
  矛盾に苦しむ作戦指導
 日米戦争形態の的確な予測
    ――航空本部長時代――
  中央は人も空気も変わっていた
  すべてはあとの祭り、三国同盟
  艦隊決戦思想を打破した新軍備計画論
  わずかな機会を捉え戦争回避に努力(次官代理)
  南部仏印進駐に警告を重ねる
第四章
 史上初めての母艦決戦
    ――第四艦隊司令長官時代――
  広大な防備海域、旧式の兵力
  長官の優雅な一日
  コンパクトを少女に贈る
  ウェーク攻略に一度は失敗
  珊瑚海海戦は「消極的」だったか
 時流に抗してジェントルマン教育
    ――海軍兵学校長時代――
  母校の校長へ
  戦時教育の苦心
  ジェントルマンをつくる
  みがけますらを 大和だましひ
  数学パズルと英英辞典
  マンモスクラスの誕生
  実らぬ稲を刈るな
  巣立った若者たち
  全生徒の眼に灼き付いた答礼
 戦争終結への決断と行動
    ――海軍次官・軍事参議官時代――
  政治のときは天井を
  戦いに即さぬ赤レンガの空気
  絶望的な戦況
  政治嫌いの政治活動
  戦敗れて大将あり
  有終の美を全うせよ
第五章
 隠棲の日々
    ――戦後の生活――
  ギターを弾く老提督
  苦悩の生活の始まり
  子供らに愛を注いだ英語塾
  清貧の中にも矜持を保つ
  旧部下たちに接して
  働いて働きぬく生活
  小松でも英会話の先生
  病に倒れる
  再婚の式はお稲荷さんで
  防大の正門はくぐらず
  兵学校の教え子たちとの交流
  世に出た”荒崎放談”
  終焉
  残された聖書と讃美歌
  悲しくも立証された予言
 協力者名簿
 参考文献
資料編

この資料編がかなりのボリュームでしてね。
339ページ、しかも字が小さい。

『新軍備計画論』のなかの「日米戦争の形態」

ちょっと、軽い言葉にします。

日本がアメリカと戦うことになった場合、
負けないというやり方を狙えないでもない。
でも、アメリカを負かすことはできない。これは明白。
アメリカは広いから
向こうが音を上げるところまではやっつけられない。
完全な海上封鎖はできないし、
できたところで向こうは海外依存してないから意味がない。
逆にアメリカが日本を攻める場合、
首都占領も可能だし、海上封鎖も可能。
これやられたら日本はお手上げ。

だから日本はアメリカとやっちゃダメだし、
やるならどうやって負けないようにするかを考えて、
それに沿った軍備をしなきゃ。

そのための、新軍備計画論なんですね。

井上成美

井上成美

阿川弘之著 新潮社
この本、目次がないんです。

表紙などにフリガナはないんですが、
これなんていうんだろう、最後のところ
著者や発行者、発行所とかが書いてあるところ
ここの題名には「いのうえせいび」ってふりがながあります。
変わった人ね、阿川さん。

本文には、第何章って記述はあります。
ありますが、題名はないです。
そんなわけで、差し出がましいのは重々承知の上で、
各章の紹介もかねて、
ボクが題名なような紹介文を書くことにします。

序章 (8項)
主に海兵37期の同期生を通した井上成美の評判です。

第一章 (10項)
軍事参議官時の副官金谷善文大尉の紹介から、井上英語塾開校まで。

第二章 (10項)
米国戦略爆撃調査団から、杉田主馬の紹介、
海大教官、軍務局第一課長。

第三章 (9項)
ミスター井上の英語塾、山崎晃の紹介から、
米内光政の死、娘靜子の死、そして孫。

第四章 (12項)
「比叡」艦長時代、今川福男大尉と花岡雄二大尉、
そして、大井篤と海大34期の海兵51期組。
横須賀鎮守府参謀長、二・二六事件。

第五章 (9項)
一系問題、そして、米内光政海軍大臣、
山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長で三国同盟に反対。

第六章 (9項)
「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」
平沼内閣の総辞職から、支那方面艦隊参謀長。
須賀彦次郎少将のこと。

第七章 (9項)
海軍三国同盟承認、航空本部長へ。
中山定義少佐と扇一登中佐。
『新軍備計画論』一系問題に取り組む高田利種。
臨時局部長会報と司令長官への説明会。

第八章 (12項)
第四艦隊司令長官、近衛内閣総辞職。
土肥一夫少佐の焦燥。作戦打ち合わせ会議。
開戦。ポートモレスビー攻略計画、珊瑚海海戦。
松田夫婦、新宮一司の話。「小松」トラック支店。
ガダルカナルの攻防。海軍兵学校校長へ。

第九章 (10項)
山上実機関参謀、「東京タイムズ」記事を見るから、
井上塾生たちの話。今川福雄との貧窮問答から、吐血。そして再婚。

第十章 (9項)
飯田秀雄参謀を随え、海軍兵学校へ。各改革。
企画課長小田切政徳。
予備学生教官。賀陽宮治憲王への訓示。

第十一章 (8項)
教育者井上。森浩主計中尉から帯刀与志夫主計中尉へ。
嶋田海軍大臣兼軍令部総長。

第十二章 (8項)
東條内閣総辞職。米内大臣、井上次官。
軍令部出仕兼海軍大学校研究部員次官承認服務、高木惣吉。
兵備局二課長浜田祐生。倉橋友二郎少佐。調査課中山定義中佐。

第十三章 (10項)
陸海軍統合案。鈴木貫太郎内閣。米内海軍大臣続投。
ドイツ降伏。大将昇進、軍事参議官へ。
水交社、井上・高木・中山。ポツダム対日宣言。
原子爆弾。情報参謀中島親孝の発言。終戦。

終章 (10項)
喜寿の祝い。幹部学校長中山海将補、高木惣吉連続講義。
富士子夫人。孫、丸田研一の訪問。古鷹ビル、深田秀明・岩田友男。
海上自衛隊幹部学校長石塚栄。防衛大学校長猪木正道。豊田譲。

井上成美

井上成美のすべて

執筆者は、半藤一利、野村実、千早正隆、
大井篤、深田秀明、妹尾作太男、生出寿。

半藤さんと言えば、ボクには長老のイメージだけど、
この中に入っちゃうと小僧ですよね。
他はみんな海軍兵学校出てるから、
半藤さんの年は、戦争に駆り出されない世代の年長かな。

野村実(71期)、防衛庁の戦史室戦史編纂官をしてらして、かなり多くの海軍に関する著作のある方です。現役時に、小沢治三郎さんとも直接会話を交わした最後の世代くらいになるんじゃなかろうか。

千早正隆(58期)、終戦時は連合艦隊参謀。小澤さんの参謀です。GHQの戦史室調査員になったことなどから、『トラトラトラ』を訳したりしてます。千早猛彦さんのお兄さん。

大井篤(51期)、このクラスは終戦時は大佐ですから、司令や課長など重い役職についています。大井さんは海上護衛総司令部立ち上げ時からの作戦参謀。高松宮様の日記が発見されて、妃殿下から委嘱を受けて整理閲読にあたったのが、この大井さんと同期の豊田隈雄さんでした。

深田秀明(73期)、井上さんが送り出した最後の卒業生クラス。井上成美伝記刊行会の代表。

妹尾作太男(74期)、この期は井上さんが校長になって最初に迎え入れたクラスです。ということは、井上さんの同期である前校長草鹿任一さんとは、現役時は縁がなかったはずですが、草鹿さんの晩年は縁が深かったようで、草鹿さんの伝記刊行会の幹事をされています。

生出寿(74期)、妹尾さんと同期。
妹尾さんも本を書いたり訳したりしていますが、生出さんは完全に作家ですね。ボクの海軍軍人へのとっかかりは、この生出さんでした。

井上成美のすべて

〈新人物往来社〉

  目次
井上成美アルバム
昭和海軍のなかの井上成美
            半藤一利
珊瑚海海戦は果たして失敗だったか
            野村実
情報・戦略に見る井上成美
            千早正隆
昭和海軍の軍政と井上成美
            大井篤
教育家としての井上成美
            深田秀明
アメリカ海軍が見た井上成美
            妹尾作太男
井上成美エピソード抄
            生出寿
井上成美略年譜
執筆者略歴

野村実さんが珊瑚海海戦を解説してくれています。
従来、井上は戦が下手だ。と、
さんざんな言われ方をしていますが、
情状酌量の余地あり、と言ってますね。

野村さんの意見は本を読んでいただくことにして、
井上成美の遺言:海軍兵学校第37期編〈中〉
で触れたこともあることですし、
ここは、ボクが弁護側として訴えることにします。
珊瑚海海戦の現場指揮官は高木武雄さんで、
航空戦の指揮に関しては第五航空戦隊司令官の原忠一さんでした。
そして、もうひとつ参加した部隊があります。
山田定義さんの第25航空戦隊で、
この部隊は井上さんの指揮下に入らず、
もともとの上司、第11航空艦隊司令長官の
塚原二四三さんの指揮下のままです。


さらに、井上さんの第四艦隊の参謀をしていた
土肥一夫さんが海軍反省会でこういう証言をしています。
「あの作戦は、まったく事前の打ち合わせができていなかった」
実際原さんの部隊がトラックに来たのは卯月の25日、
皐月の1日には出撃しています。
土肥さんの言葉を借りれば、
「参謀が飛行機で駆けつけて打ち合わせただけで」
図演などもやってないわけで、即席の寄せ集めなんです。


作戦が始まってからも、
井上さんが、連合軍側の基地航空部隊を
たたくことを強く求めますがゴネます。
そのやり取りを聞いてた連合艦隊の方が、
ミッドウェーのことがありますから、
それまでは航空機を温存しておきたくて、口をはさんできます。
戦闘に入ってからも、敵部隊を2つ発見して、
井上さんが西の部隊へ行けって言ってんのに現場が従ってません。
山田さんにも要請はしてますけど、指揮権がないから、
命令は出せず、サボられています。


そして、問題の「北上せよ」ですが、
土肥さんが言います。
「味方の飛行機が返ってきて着艦が始まったとき」
土肥さんは総攻撃の命令を書いて
井上さんのところに持っていったそうです。
「君、これ間に合うかい」
こう言われたというんですね。
土肥さんとしては状況は分かりませんが
行くしかないと思ってますから、
「間に合います」って言うわけです。
井上さんはサインをくれたそうで、
それを暗号室に持って行ったんだけど、
5分もしたら暗号室から、
原さんから「北上す」って電報が来た。と、
時間を見ると30分前に発令してる。
その時間を考えると相当北にもう行ってる。
それで、井上さんは「北上よろしい」という意味で、
「攻撃を止め、北上せよ」という電報を打ったというんです。


前線指揮官として、井上さんが向いていなかった。
これは、ある程度言えると思います。
井上さんは、軍政一筋みたいな海軍生活をしてきました。
小澤さんのように中佐時代から先任参謀として
戦隊の指揮を切り盛りしてきたような人だったら、
違う結果もあったでしょう。
さらに、このときの四艦隊の参謀も、
参謀長、先任参謀が共に優秀な能史型
の人だったそうです。

別の点でいいますと、
この時点で海軍の暗号は取られています。
そして、それまでの日本海軍が築き上げた戦歴
(真珠湾奇襲やマレー沖海戦)とは違い、
敵は準備を整えて臨んできていたという点。
中央は、この点を抜きにして、批判しているように思えます。

野村さんは総括でこう言っています。
戦術的な失敗の責任は、高木、原、山田にあり、
戦略的には塚原を指揮できる立場にあった山本に大半がある。


井上成美のすべて


一海軍士官の回想

この本を書いた中山定義さんは、
井上成美さんが支那方面艦隊の参謀長だったときの
政策担当参謀で、井上さんが軍令部に乗り込んでいって、
アホなこと(対米戦になりかねない政策)すな!
って言い寄ったときにお供させられた人です。

開戦時は南米におり、
「中山さん。日本の海軍機がパール・ハーバーの
 米艦隊をさかんに攻撃しているというニュースが
 繰り返されていますからお知らせします」
という、同盟通信の椎名氏からの
突然の電話が第一報となったそうで、
「パール・ハーバーだけですか。
 フィリピンというような地名はありませんか」
と答えたそうです。
というのは、3日前にワシントンから
暗号関係を処分したという機密電報を受けており、
時間の問題。と観念していたからだそうです。
その後はチリで監禁状態。
第二次交換戦で昭和18年霜月、横浜着。
昭和18年といえば、ガダルカナル撤退、
山本五十六さんの戦死、アッツ島の玉砕と、
みるみる戦況が悪くなった年で、
中山さんがチリを出たころには、
イタリアが降伏しています。

中山さんは、駆逐艦艦長を強く希望しましたが、
「君の乗るような駆逐艦はもう一隻もない」
なんて一蹴されてしまい、相手にされなかったそうです。
海軍省副官、第二艦隊参謀、軍令部五課(米国情報)、
軍務局二課などが、ワシントンから
南米経由で帰った中山さんを欲しがっていました。
辞令は「海軍省軍務局二課」でした。
ドイツ駐在が決定していた扇一登さんの後です。
ひと月もすると、こんな事例が追加されます。
「調査課課員、兼軍務局局員、南方政務部部員」
調査課といえば、
高木惣吉さんが作ったブレーン・ブラストがあります。
そんなわけで、中山さんは
次官を退いてからの井上成美さんとの連絡など、
高木さんの終戦工作にかかわることになります。

一海軍士官の回想

開戦前夜から終戦まで

中山定義 〈毎日新聞社〉

  目次
Ⅰ 北米時代
  危機せまる米国へ
    井上成美参謀長の憂い
    「米国駐在を命ず」
    「鎌倉丸」の乗客たち
    野村大使の述懐
    神ならぬ身
    北米大陸に第一歩
    Gメンに追跡される
    ワシントンへ
  プリンストン大学
    大の日本海軍ファン
    アインシュタイン博士
    直接の殺し合いは避けよう
    教会の反日演説
    レーダー情報
    アナポリス見学
  視察旅行
    一ヶ月のドライブ旅行
    在留邦人に時局講演
    大西洋の独・英艦隊決戦
    米大統領の「国家非常事態宣言」
    立花事件
Ⅱ 南米時代
  アルゼンチンとブラジル
    次は中山だ
    米国から南米へ
    チリ進出を意見具申
    欧州から転進の海軍使節団
    最後の日本船「東亜丸」
    来るべきものが来た
  日米開戦下のチリ
    アンデスを越えて
    チリ公使館附海軍武官
    ドイツ武官と情報活動
    自前の情報宣伝戦
    大本営発表
    盗聴覚悟の電話連絡
    ついに国交断絶
    監禁生活
  帰国の途へ
    第二次交換船
    帰国の途へ
    上甲板の「海ゆかば」
    交換船「帝亜丸」
    昭南寄港
    マニラから最後の航海へ
Ⅲ 海軍省軍務局時代
  新任務と帝国議会
    帰朝報告に反応なし
    新配置
  ブレーン・トラスト
    調査課のブレーン・トラスト
    二年現役主計士官のこと
    地価大食堂の激論
    石川信吾少将の政治活動
  東条政権の崩壊
    反東条熱に驚く
    四方東京憲兵隊長
    自滅の道をたどる
    潜行する内閣打倒運動
    海軍人事に陸軍の横槍
    「敵はついに倒れたぞ」
    飛行機工場の現実
    原子爆弾
  小磯・米内協力内閣と海軍
    海軍に活気戻る
    米内大臣と井上次官のこと
    大臣演説草案に四苦八苦
    陸軍強硬派からのアプローチ
  鈴木内閣と終戦
    小磯内閣から鈴木内閣へ
    激化する空襲
    本土決戦の準備
    混乱の第87臨時議会
    身を切られる思いの終戦工作
    幻の大和大本営
    ぐずぐずしてはいられない
    エピローグ
 注
あとがき
  索引

サイパンからの決別電は文月の六日です。
12日、東條は、嶋田繁太郎と申し合わせ、
内閣改造で乗り切ろうとします。
そのことを木戸幸一内大臣に伝えると、
木戸から条件を出されます。
統帥権の確立(総長と大臣の分離)。
嶋田海相の更迭。
重臣(総理経験者)の入閣。
木戸は、陛下の思し召しであることをほのめかします。
東條は、参謀総長には梅津美次郎さん、
嶋田は軍令部総長に専任させ、
新海相には野村直邦を当て、
阿部(陸軍大将元総理)と米内さんの入閣を
求めるという内閣改造方針を木戸に説明し、
了解を取りつけます。
そんなわけで17日、野村海軍大臣が誕生しますが、
米内さんに入閣を断られ、
18日東條内閣は総辞職します。
重臣会議が開かれ小磯国昭が選ばれますが、
19日、近衛が米内さんを訪ねます。
「小磯一人じゃ心配だから、
 あなたが出て連立でやってもらえないか」
米内さんは連立なんてうまくいくはずがない、
としたうえで、海軍大臣ならやれると告げますと、
近衛は、小磯首相・米内海相というお言葉を
陛下からいただくように木戸に含みます。
20日、小磯・米内の二人に組閣の大命が下ります。
可哀そうなのは野村君で、
小磯から辞表を出せと言われるわけです。
「お上から米内を現役に戻して大臣にするよう言われて
 おりますので、海軍の方で、手続きをお願いします」
21日、野村君は参内して陛下に確認します。
「その通り」
小磯・米内連立内閣は22日誕生します。
米内さんは副総理格ですが、
小磯には「お前がやれ」と、海軍大臣に専念します。
葉月の5日には井上さんが次官になります。

中山さんによれば、海軍の空気がガラッと変わり、
海軍省を訪問する顔ぶれが一変したそうです。
中山さんの表現ではこうなります。
「とにかく米内海相・井上次官のコンビが
 出現したことは、海軍省構内に聳え立つ
 あの高い無線用鉄塔の上に、
 いわば”霞ヶ関灯台”とでも称すべきものが点灯され、
 遠く日本の針路を照射しだしたような思いで、
 懐中電灯で足元を照らしながらうろうろし、
 とかく大きい針路を見失いがちな
 われわれ事務当局にとっては大助かりであった」


一海軍士官の回想

自伝的日本海軍始末記

高木惣吉さんは東條首相暗殺を企てた人で、
決行前に内閣が崩れたので実行には至りませんでした。
その後は終戦工作に尽力しました。
海軍大臣の命を受けてやったもので、
個人的にやった陸軍のものとは全く違う。と、
井上成美さんは、この点を強調しています。

高木さんはちょっと変わった経歴を持ちます。
ロンドン海軍軍縮会議の連絡事務担当から
大臣の副官兼秘書官となり、
無理がたたって体を壊してしまい、
そこから塩っ気のある勤務ができなくなってしまったのです。
それでも海大を首席で出ていますから中央で活躍し、
大佐のときは海軍省官房調査課長なんてのになり、
ブレーン・トラストなどという組織を作り
外部の人との接触が多くなります。
このことが終戦工作に役立つわけです。

高木さんは、早い段階から著作活動をしており、
海軍の伏せておきたいような部分も書いたりして
反発も多かったようですが、井上成美さんに
すべてを明るみに出せ。とはっぱをかけられて、
拍車がかかったりしたようなところもあるみたいです。
もともとというか、全般的に反骨の人ですね。

自伝的日本海軍始末記

帝国海軍の内に秘められたる栄光と悲劇の事情

高木惣吉 〈光人社〉

  まえがき
第一章 反骨児、海軍へ入る
  わが生い立ちの記
  ヒヨコ士官のクリ言
  時代おくれの海兵教育
  江田島をはなれて
  第一次世界大戦おこる
  くやし涙の遠洋航海
  わが反骨時代はじまる
  上村副長の鬱憤ばらし
  御難つづきの「明石」
  シベリア出兵の悲劇
  大いなる迷いの果てに
  まぼろしの八・八艦隊
  加藤中将のくやし涙
第二章 疑いを胸中に秘めて
  わが青春の思い出
  大正も終わりに近く
  海軍大学というところ
  作戦方針に疑問あり
  フランスにて思うこと
第三章 揺れ動く昭和を生きて
  つわものどもの夢の跡
  軍縮条約の波紋ひろがる
  海軍大臣秘書官として
  戦火、上海におこる
  運命の糸にあやつられて
  第四艦隊事件の教訓
第四章 大陸に戦火ひろがる
  相つぐ不祥事の中で
  政党政治の崩れ去る日
  ある日の山本五十六
  日米抗争激化の前夜
  暴走陸軍を止め得ず
  多事多難な昭和十二年
  揚子江に沈んだ星条旗
  ついに戦火は消えず
第五章 陸軍の横暴に抗して
  軍部独裁への道ひらく
  悔いを千載にのこす
  明暗を分けた分岐点
  急を告げる内外の動き
  こじれた日独軍事同盟
  くすぶりつづける禍根
第六章 世界の戦火を浴びて
  戦火いよいよ拡大す
  崩壊への路線きまる
  恐竜と化した米経済界
  高まりゆく陸軍の圧力
第七章 日本苦境に立つ
  反骨精神で生きる
  日米戦争はじまる
  軍艦マーチひびけど
  忘れえぬことども
第八章 無為無策な指揮下で
  山本五十六大将死す
  ああ万骨枯れるのみ
  粉飾の戦果におどる
  崩れゆく日本の日々
  活路を得んとして
  東条内閣の最後近し
第九章 戦争の時代終焉近し
  ドタン場の海軍人事
  有馬正文の遺言
  有名無実の防御線
  戦局とみに逼迫す
  極秘裏に平和へ動く
  若き憂国者たちの不満
  決裂した大西との密談
  樹てられた暗殺計画
  押し寄せてきた破局
  色あせた”楠公精神”
  沢本次官とのウワサ話
  成算すでにゼロ!
  ついに東条内閣崩る

高木さんは、こういう記述も残しています。

二・二六事件のときのエピソードです。

世間は腹はくさっていても、
肩書のものものしい人々には注意をするが、
忘れがちなのは、真に日本人として
誇るべき、無名の男女性の行動である。
総理官邸に、反乱軍の乱入した騒ぎの中で
「旦那様のご遺骸があるうちは、
 一歩もここから立ち去ることはできません」
と、監視する反乱兵士の銃剣の前で言い切った
秋元さく、府川きぬえさん両女性の総理守護の心境、
警視庁が反乱軍に包囲され、
背後に監視兵がいるまえで、
32時間にわたり電話交換台を死守した
石田末子さん以下12名の交換嬢、
また右の人々と交替した佐伯八重子さんら18名が、
27日午前10時半、交換台が神田錦町署に
移されるまでの凛々しい働きぶりには、
まったく頭のさがる思いで、
派閥根性に国民を忘れた軍事参議官たちを
愧死せるに足るものがある。
また、総理官邸で衆寡けん絶した反軍と戦って
殉職した巡査部長村上嘉茂左衛門、
巡査小館喜代松、土井清松、清水真四郎の四名、
牧野伯の避難をたすけて殉職した巡査皆川義孝、
岡田総理の救助、脱出にかぎりしれぬ助力を与えた
麹町憲兵分隊長森健太郎少佐、
特高班長小坂慶助曹長以下の憲兵諸士、
とくに最初に総理の生存を知った
青柳利之軍曹、篠田惣寿上等兵らの、
きわめて正しい判断と処置は、
国民が忘れてはならないとうとい鏡で、
われわれは国や社会が困難に出会うごとに、
官階や地位や貧富とかかわりなく、
その人のヒューマニズムにもとづく行動が、
人間としての価値を示してくれることを痛感する。

東日本大震災のときの、
腹のくさった菅や枝野でなく、遠藤未希さんですね。

自伝的日本海軍始末記


米内光政正伝

米内さんって人気あるんですよね。
副題にこんなのついてます。
「肝脳を匡の未来に捧げ尽くした一群人政治家の生涯」
幣原内閣誕生の時、
米内さんはさすがにもう体がもたないと思ったんです。
それで、お断りして豊田副武を推しました。
幣原さんはやむなくその線で
マッカーサーにお伺いを立てますが、
マッカーサーが米内でなきゃだめだ。というんです。
豊田副武はAダッシュ戦犯候補になっていましたから、
というのもあるんですが、やはり向こうでも米内さんの評価は高かったようです。
このとき、米内さんは血圧が260でした。

お酒好きでしたけど、それよりも、、。
まぁ、それもあって、としましょうか。
米内さんは配給食のみで終戦を生き抜きましたので、
かなり栄養状態も悪かったと思います。
副官とかが気をまわして、
なにかと米内宅に届け物をするんですが、
「父に叱られましたから」と、
未亡人となって家に入っている娘さんが返しに来るんです。
昭和20年水無月の8日、
重臣会議の席で、秋永月三内閣総合計画局長官が
「秋には石油はじめ軍需品が不足して、
 戦争遂行能力がなくなり、
 国民のなかに餓死者が出はじめるかもしれない」
という報告をしていますが、このこと、実感をもって理解したのは、配給だけで生きていた
米内さんくらいだったんじゃないか、なんて思ったりします。
こういう、清貧って、日本人は好きなんですよね。

米内光政正伝

実松譲  〈光人社〉

目次
序〈阿川弘之〉
まえがき
第一章  出会い
 努力、努力、努力の人
 欧州方面の実情を知る
 慈父のごとき米内艦長
第二章  母と子
 自身の意見を持つべし
 激動の昭和を邁進する
 何事にも一身を掛けよ
第三章  盧溝橋
 境遇を意義あらしめる
 政党政治をほふる陰謀
 「金魚大臣」の真骨頂
 抜き差しならない日本
第四章  下剋上
 「兵とは国の大事なり」
 日米関係悪化への序章
第五章  暴走
 筒抜けのマジック情報
 仏印進駐と対日包囲網
 リッベントロップの怪
第六章  大御心
 張鼓峰事件のてんまつ
 乗じやすき国――日本
 世界の情勢にどんかん
第七章  霞ヶ関
 私はきっと帰ってくる
 井の中の蛙の鬩ぎ合い
 主張と信念に忠実な人
 刻々クーデターの危機
 国を憂える一握のひと
第八章  分岐点
 うごめく青年将校たち
 統制を失った帝国陸軍
 日独伊三国同盟の裏表
 米内海相退陣のみやげ
第九章  立往生
 山本を殺してはならぬ
 こじれた日米関係の糸
 次は米内にしては如何
 斎藤隆夫の”反軍演説”
 ”バスに乗り遅れるな”
第十章  西園寺
 米英独ソ対日本の関係
 日独伊三国同盟の陥穽
 駆逐された海軍良識派
 英米蔑視の風潮を生む
 バスに乗り違えた海軍
第十一章 嵐の前
 戦争にいたらない方法
 どんづまりの日米交渉
 ハワイ奇襲ナゾの漏洩
 日本に勝利の機会なし
 お先不明の時代へ突入
第十二章 聖断
 米内邸に集まった人々
 ソロモン消耗戦のあと
 東條内閣の崩壊と天皇
 難局を収拾するてだて
 統帥を離れて政治なし
 油も資材も底をついた
 和戦について紆余曲折
 理外の理か死あるのみ
 ソ連を頼った日本の愚
 二つの原爆とソ連参戦
 天皇が下した最後の断
 我一人生きてありせば
 戦争終結にいたる道程
第十三章 永訣
 天皇ラジオ放送の前後
 ある日の料亭「山口」
 海軍少佐国定謙男の死
 名刀「国重」のゆくえ
 天皇との別れに際して
 本土決戦回避のために
 ナイス・アドミラル!
 とぼけ通した東京裁判
 束の間に一私人として
 肝脳を国家に捧げ尽す
あとがき
資料談話提供者
参考引用文献
米内光政 年譜

見事でしょ。
小見出しの文字数がパーフェクトに揃ってますよね。
実松さんってこういう人だと思います。

阿川さんが〈序〉を寄せてます。

思えば帝国海軍最後の十年間の歴史は、
勝算の無い対米戦争を何とか回避しようとしながら、
時勢に流されて遂にその志を遂げ得ず、
苦戦の末、予期した通りの終末を迎えて
自らの手で自らを葬る歴史であった。
米内光政は、その帝国海軍の最後を象徴するような提督である。
著者の実松さんは、昭和13、4年、
米内・山本の海軍が日独伊三国同盟の締結に
頑強に反対していたころの海軍大臣秘書官、
日米交渉の時代には在米海軍武官補佐官、
開戦後帰国してからは
軍令部出仕兼海軍大学校教官の要職にあった人である。
米内のものの考え方や人となりに関しては、
最もよく肌身を以て感じとっていた人物の一人であろう。
米内提督のことを書いたものは、
先に小泉信三の「米内光政」、
緒方竹虎の『一軍人の生涯』があるが、
今度実松さんは、豊富な資料と自己の貴重な見聞にもとづいて、
立派な米内光政伝を書き残してくれた。
これは、史実に忠実でありながら
少しも固苦しいところや気張ったところが無く、
米内を深く愛惜しながら独りよがりのところの無い、
米内光政の人柄が
そのまま乗りうつったかと思われるようにすぐれた文章である。
敗戦の折、
陛下が自ら不服の陸軍将校たちを説得してもよいと言い出されたのを、
陸軍大臣はさようお願いしたいと受けたのに対し、
海相の米内は、
「そんなことをお上にお願いせねばならぬようなら、
僕は大臣がつとまらぬということなのだ。
大臣は輔弼の責任をもっている。
陸軍大臣がどういうつもりであるとしても、
海軍大臣としてはご辞退申し上げる」と答えたというくだり、
年少にして身を海軍に投じ、
五十年勤め上げてきたその帝国海軍の葬送の役を果たすことを、
自分の最後の使命と米内が観じて、
医務局長に、「自分の健康は大大臣がつとまるか」と訊ねた上で、
淡々として終戦処理の東久邇内閣の海相に留任するくだりなどは、
読んでいて私は涙をもよおした。
実松さんには、私は、過般、
山本五十六伝を執筆の際、多くの助言と資料を与えられた者であり、
旧海軍での階級秩序は言わぬとしてもはるかな先輩であり、
このような文を草するのは順逆を誤るものではないかと思うが、
乞われるままに感想を誌して序に代える。

開戦後帰国してからは軍令部出仕とあります。
実松さんはアメリカ担当の情報参謀。
国内での捕虜の扱いは陸軍が担当です。
でも情報が欲しいんで、陸軍に渡す前に大船で尋問するんです。
このときに捕虜から情報を聞き出したりしたことがあったため、
東京裁判に引っかかっって
実松さんはけっこう長く巣鴨に入っていました。

米内光政正伝


海軍戦争検討会議記録

海軍反省会というのは、終戦からだいぶたってから開かれました。
第一回は昭和55年です。

終戦からそれほど時間をおかない時期に
海軍では特別座談会を行なっています。
終戦の年の師走の22日と明けた睦月の17日と22日です。
この資料を海軍側から渡されたのが、海軍記者をしていた新名丈夫氏で、
この人は「竹槍では間にあわぬ」なんて記事を書いて、
東條さんの逆鱗に触れて徴兵された人です。

新名氏は、公表を目的としたものではなく、
世に出したならば関係者に迷惑の及ぶおそれがあると、
30年、大切にしまっていたそうですが、
井上成美さんの死をきっかけに、
古巣の毎日新聞社の求めに応じて世に出すこととなりました。

この本は、カバーのついた本でして、
なんとなく高そうだし(事実定価の4倍強)、
資料的な読みにくい本かと思って敬遠していましたが、
意を決してレジに持っていた記憶があります。

海軍戦争検討会議記録

新名丈夫/編 〈毎日新聞社〉

 目次
「海軍特別座談会」について(序に代えて)

[解説1]開戦直前の政府と陸海軍
特別座談会 大東亜戦争開戦前
  国内情勢に関する座談会

[解説2]三国同盟をめぐる抗争
第一回特別座談会 三国同盟
  第一次三国同盟
  第二次三国同盟

[解説3]破局への道
第二回第一次特別座談会
  支那事変勃発までの経緯
  支那事変処理(解決)と大東亜戦争との関連
  日米交渉の経緯

[解説4]戦備の基本構想
第二回第二次特別座談会
 日米開戦に至るまでの用兵および戦備に関する事項
  情勢に応ずる戦備促進の状況
  彼我国力判断
  大東亜戦争が自存自衛戦たるの論拠

〈付録〉
 井上成美航空本部長申継
[解説]「申継」について
  航空本部長申継
  新軍備計画論
  海軍航空戦備の現状

陸海軍中央統帥組織
陸海軍等主要職員一覧表
年表
あとがき
索引

及川君に、こんな発言があります。
「五相会議で海軍が反対したことを、
次には独側から訂正してきたことからみて、
会議の内容を、陸軍は先方に洩らしていたらしい」

三国同盟締結について、
自動的参戦を盾に抵抗したが、
松岡外相に大丈夫などと言われてごまかされ、
海軍として反対理由がなくなってしまった。
などと、軍令部次長近藤、大臣及川、次官豊田貞次郎が、
言い訳をしていて、井上さんはずうっと我慢して聞いていたんでしょう。
こう切り出します。
「先輩を前にして甚だ失礼ながら、敢えて一言す。
過去を顧みるに、海軍が陸軍に追随せし時の政策は、ことごとく失敗なり、
二・二六事件を起こす陸軍と仲よくするは、強盗と手を握るがごとし。
同盟締結にしても、もう少ししっかりしてもらいたかった。
陸軍が脱線する限り、国を救うものは海軍よりほかにない。
内閣なんか何回倒してもよいではないか。
二・二六のとき、私は米内長官の下、横須賀鎮守府参謀長で、
陸軍が生意気なことをやるなら、
陛下に『比叡』に乗っていただくつもりで、
東京にも直ちに陸戦隊を出し、
もし陸軍が海軍省を占領し、中央がだめになったら、
長官に全海軍を指揮してもらって、陸軍に対抗する決心なりき。
兵学校長の時も、士官学校生徒から兵学校生徒に、
陸海軍仲よくせねばならぬとの文通しきりなりしが、
自分は校長の責任において両校生徒間の文通を禁止せり」

あんときは、山本五十六長官に上京してもらって相談したんだけど、
山本さんも「いたし方あるまい」って言ってたんだよ。
なんて、及川君は言い訳します。
そのうち若い奴が、外相や陸相の所掌に口出すってのは、どうですか。
なんてい言い出す。

「閣議というのは、君のいうがごとき性質のものではない。
海相といえども、農相や外相の所掌に関しても、堂々と意見を述べて差し支えなし。
閣僚の連帯責任とはこういうものだ。
意見が合わねば、内閣が倒れる。国務大臣はそれができる。
また海軍は政治力がないというが、伝家の宝刀あり。
大臣の現役大・中将制これなり。海相が身を引けば、内閣は成立せず。
この宝刀は乱用を戒慎すべきも、
国家の一大事に際しては、断固として活用せざるべからず。
私は三国同盟に反対し続けたるも、この宝刀あるため安心していたり」

と井上さんが言えば、すかさず海軍書記官だった榎本さんが、
「法理上よりいうも、井上大将のお説の通りなり。
近衛公手記に、政治のことは海相心配せずともよい、とあるは公の誤解なり」
及川君の前の大臣吉田さんも、
「外交権というが、常識にすぎず、海軍でも、外交のことをどんどん言える」
さらに吉田さんはこんなことも、
「陛下から、海軍のいうことはよく判るが、陸軍のいうことはよく判らぬというお言葉があったということを、近藤君(次長)が私に話したことがある」

そのあと松岡(外相)批判です。
豊田貞次郎(次官、のち商工相、外相など)
「欧州から帰った後の松岡は、態度一変し、
米国は武力をもって圧迫せば、屈服すると考えるようになった」
吉田善吾(大臣、病に倒れ及川に代わる)
「彼は論理一貫しない。ロジックが飛躍する危険人物なり」
近藤信竹(軍令部次長)
「欧州から帰ったとき、
何か彼は言質を与えてきたのではないかという印象を受けた」

海軍戦争検討会議記録

凡将山本五十六

井上さんは、山本さんのことを一手も二手も先を読んでる人と言っていました。
頭脳明晰、かみそりなどと呼ばれ、『新軍備計画論』などを表わした井上さんがこう言うんです。
その井上さんの教え子である生出寿さんが、
『凡将山本五十六』などという題名の本を書いていいのでしょうか。
とはいえ、山本さんを評した言葉に「統率は申し分なく立派、作戦は落第」などというものも残されていまして、かなり極端な得手不得手があったように思えます。

「山本に半年仕えれば、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろう」などという評価もあります。
そんな人が、部隊の視察中に暗殺されたわけですから、亡くなられたことで神様になっちゃった。
ここが、山本さんの評価が偏ったままの理由なんだと思います。
生出さんは、こんな本を書き、海軍反省会にも顔を出しておりまして、こんな自己紹介をしています。
「浅学非才で、海軍の経験も全くないわけでございますが、ただ、私等が何かを書くとしましたら、先輩方は直接身近におられた方々のことで、遠慮なさっておられるようなことを、私はあまり遠慮することがありませんので、勝手なことが書けるというところがあるんじゃないかというふうに、私は思ってるわけです。そうだといって、でたらめ書いたらしょうがありませんが、間違ったことを書かなければ、やはり思い切って自分がそうだと思ったことを、書いていいんじゃないかということでございます」
生出さんは74期ですから、卒業が昭和20年弥生の30日。本来であれば、卒業後に練習艦隊にて訓練を受けるわけで、生出さんの言う「海軍経験がない」は、謙遜というよりは実感であったと思います。

凡将山本五十六

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
情に流された長官人事
職を賭せない二つの弱み
「真珠湾攻撃」提案の矛盾
井上成美の明察と偏見
退任延期
対米戦開始へ陰の加担
錯誤にすぎなかった真珠湾の戦果
山本五十六の世論恐怖症
珊瑚海海戦への侮り
ミッドウェー海戦前の密会
目も眩むような凶報
航空偏重が日本敗戦の根本原因
暗殺説と自殺説
あとがきにかえて

山本さんは、軍政畑を歩いた人で、
軍令部に務めたことはありません。
司令官も第一航空戦隊の司令官を一年ほどやったのみです。
それがいきなり連合艦隊司令長官になっちゃった。
これには訳がありまして、
海軍次官の時に三国同盟に反対して命をねらわれていまして、
米内さんが心配して海に逃がしたんです。
そこからずうー――と、連合艦隊司令長官。
これも、ジツは異常で、通常長くて二年です。
この二年が開戦の年の葉月で、本人は替われるものと思っていました。
いよいよ戦争ということで替えにくいという考え方もあるかもしれませんが、
日露戦争時のことを思えば、断固変えるべきでした。

日露戦争では、開戦四ヵ月前に司令長官が替わっています。
東郷さんは、四ヵ月前に替わったんです。
替えたのは山本権兵衛海軍大臣。
替えられたのは日高壮之丞中将。
この二人は竹馬の友で、山本さんは日高さんの性格を危ぶみました。
「お前は非常に勇気があって、頭もずば抜けていい。たが、自負心が強く、いつでも自分をださないと気がすまない。司令長官は大本営の指示通りに動いてもらわねばならない。ところがお前は気に入らぬと自分の料簡をたてて中央の指示に従わないかもしれない。東郷はお前より才は劣る。しかし、東郷にはそういう不安が少しもない。中央の方針に忠実であることはまちがいないし、また臨機応変の処置もできる」

東郷さんはこの二人よりも先輩です。
舞鶴鎮守府の司令長官で、退役を待つような立場の人でした。
相当な反論もあったようですけど、山本権兵衛さんは断固東郷さんでぶれませんでした。
これを及川古志郎に望むのは酷ですし、そんな決断ができるのであれば、陸軍に引き摺られて開戦になることもなかったでしょう。

日高さんの更迭が、上記のような理由であったのなら(諸説あり)、
山本五十六続投は、最悪の結果をもたらしたといえます。
山本五十六は、真珠湾攻撃をやらせてもらえないのなら、長官を降りる!といって大本営を脅しました。
ミッドウェー攻略も、軍令部は反対で、山本が押し切って進めた作戦です。
中央の指示に従わない司令長官だったのです。

それでも、山本五十六さんは人気があるんです。
『山本五十六物語』は書いてみたいですね。

凡将山本五十六

最後の海軍大将井上成美

井上さんは、大将になることを
文書にして拒みました。
「大将進級に就き意見」
「当分海軍大将に進級中止の件追加」
「当分大将進級を不可とする理由」などです。

昭和20年になってから、米内さんが内示をしたんですね。
で、その場で辞退したんだけど口頭ではなぁ。と、
文書にしたわけです。
それでも米内さんは井上さんを大将にします。
「陛下が裁可されたから」と、
井上さんとしても、これは拒絶できません。

そんな分けで、大将になるのは五月まで延期されました。
井上さんと同時に一期先輩の塚原二四三さんも大将候補にあげられていました。
井上さんが固辞し、しかも、次官として、この時期に大将をつくることそのものに否定的な文書を出しておりますので、「井上のセイで・・」と、塚原さんは嘆いていたようです。
大佐の時から塚原さんと井上さんは同時に上がっていますから、
中佐に先になっている一期先輩の塚原さんの方が先任者。
そんなわけで、大将の名簿を書いた場合、井上さんが一番最後にきます。

最後の海軍大将井上成美

宮野澄 〈文藝春秋〉

序 章 雨脚のはげしい日に
第一章 人ノ美ヲ成ス人生を
第二章 かわい気のない男
第三章 昭和の動乱の中を
第四章 敗戦の歴史とともに
第五章 教育者としての道を
第六章 名コンビも崩れて
終 章 逼塞生活に徹して
 あとがき
 参考文献
 青年士官教育資料 井上成美

井上さんは13人兄弟の下から二番目で、
「井上家は秀才ぞろい」と評判が立つほどであったそうで、
長兄の秀二などは、中学の時、あまりに頭が良すぎて教師たちの反感を買い、将来慢心のあまり社会を甘く見てはいけないなどと理由をつけられて、一年落第させられています。そして、落第させられても卒業を待たずに高等学校へ入学し、京都帝国大学へ進んでいます。

井上さんは教育者で、軍人には向かなかったといわれます。
四艦隊長官として指揮した珊瑚海海戦での評判がよろしくないわけですが、
珊瑚海海戦に関しては、かなり井上さんにとって不利な状況が重なっています。
その点に関してはこちらを参照。
      ↓↓↓↓

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈中〉

まぁ、不利な状況の中であっても、
たとえば小澤さんや草鹿さんであったらどうだったか、
こういう見方をしたときに、戦況が変わったようにも思います。

井上さんは、実際に決断力・実行力もありますから、
「腰抜け」という部類ではないんです。
ただ、実戦を指揮するには人が優しすぎたような気がします。

開戦には全力で反対し、終戦工作をした人ですし、リベラリストです。
では、九条信者のような人だったんでしょうか。
まったく違います。
「国が独立を脅かされたときは、とにかく立つ。そのためには軍備というものが必要だ。国の生存を脅かされ、独立を脅かされた場合には立つ。そのかわりに、味方をつくっておかなけりゃいけない。自分じゃ勝てない。正々堂々の主張をするならば味方ができる、とわたしは考えています。弱い国を侵略してそれを征服して自分のものにしようということをする者は、必ずほかの国の批判にあって、みそかの晩の金勘定の清算をさせられる時が来る、と思う。軍備というものはいらないじゃないか、戦争しないのなら。そういう意味じゃないですね」
これは、加藤友三郎大将がワシントン軍縮会議で
10対6の割合をのんだときの、
「あれでよかった」よかったんだけど、軍人としては悔しかったんですよ。
でも、国力が小さいってことはそういうものでね。
というお話の中での国防、軍備に対する井上さんの考えです。

このころ、山本五十六さんや古賀峯一さんなどの割合に対する考えは、こんな感じ。
「日本が米英の10分の6に抑えられたと考えるべきではない。国力からいっても、国土の広さからいっても、アメリカとイギリスが日本に対して6分の10で我慢していると見るべきだ」

もうひとつ、井上さんが皇族、伏見宮様をどう見ていたか。
「宮様はね、一番先に話をもっていって、これはこうしたほうがいいと思いますというと、すぐその気になってしまう。一番先に乗り込んだものが宮様に取り入って、結論を出してしまう。宮様の扱いはよほど気をつけないといけない、自分の正しいと思うところにもっていこうと思ったってできないよ。宮様というのは、そういうふうに育っているのだから仕方がない。下の者が持ってくる問題をよきに計らえということになる。それに対して、ハテナという疑いを持とうともしなければ考えてみようともしないんだからね。だから、自分で考えろと要求する方が無理で、むしろお気の毒ですよ」

最後の海軍大将井上成美

侍従長の回想

井上さんが伏見宮を敵に回して闘った時のことですが、
直接闘うわけじゃないんです。
井上さんの相手は南雲さんでした。南雲さんの方が一期先輩。
コイツには理を示しても無理だ。と思った井上さんは、
覚悟を示すために遺書を書いておき、暴言を吐く南雲さんに見せます。
南雲さんは悪い人じゃないんで、悔しいけど引き下がります。
すると、その上司である嶋田繁太郎が、
井上さんの上司である寺島さんに持ち掛けてきます。
この軍務局長の寺島健さんは、
これがために嫌がる井上さんを課長に引っ張った人ですから、NOです。
次は、主犯である軍令部次長の高橋三吉が、
海軍次官の藤田さんと対峙するわけですが、
この二人は同期で、出世の遅れていた米内さん(同期)を
大将に押し上げるために、二人で申し合わせて引退したほどですから、
話せばわかり合える間柄です。
ただ、今回は理論的には軍令部の方が分が悪いですから、
高橋は禁じ手を使います。
軍令部長に就任していた伏見宮の威光をかさに
軍令部長の代理として大臣に直接ねじ込んだんです。
このときの大臣は大角岑生といい、しょうもない奴です。
どのくらいしょうもないかというと、
2・26の時もみっともない判断をしましたが、
「大角人事」なんて検索してみてください。
今回は、くだらない男の話ではなく、
米内さんの同期、元海軍次官の藤田尚徳さんの書かれた本の紹介です。
米内さんのために現役を退いて明治神宮の宮司を経て侍従長になりました。

侍従長の回想

藤田尚徳 〈中公文庫〉

  目次
空襲下の四方拝
酒と侍従
天皇、軍を叱る
和平に動く吉田茂氏
天皇の終戦秘密工作
日の目を見た近衛上奏文
御意思に遠い重臣の奏上
皇居炎上す
意中の人、鈴木首班
挫折した近衛特使
聖断下る
再び聖断仰ぐ
録音盤争奪事件
慟哭、二重橋前
天皇・マ元帥会談への苦慮
近衛公自殺への私見
異例、天皇の心境吐露
人間宣言と退位をめぐって
あとがき
 解説  高橋紘

侍従長は、鈴木貫太郎さん以来海軍の人が務めるようになりました。
侍従武官長の方は陸軍です。武官ですから、こちらは当然現役です。

昭和20年になってから昭和天皇は
軍部にも内閣にも隠密のうちに工作を始められました。
重臣(首相経験者など)を個別にお呼びになって、
戦局の見通しとその対策を一人一人に質されたのです。
戦局の報告は潤色され、国民生活の実態も正確に把握し難く、
はたして政治家たちは和平について
どれほど真剣な熱意を持っているか、はなはだ疑問であったわけです。

この工作に侍立したのは侍従長の藤田さんだけでした。
近衛の時だけ木戸が立ちました。
藤田さんに「外してほしい」と言ったのです。
藤田さんは、陛下、近衛、木戸のかかわり方の深さを考え快諾しました。
そして、藤田さんはのちに木戸から詳細なメモを渡されています。

侍従長の回想