陸戦史集2マレー作戦

この本は少し毛並みの違う本です。
編者は陸戦史研究普及会。その所在地は市ヶ谷駐とん地。
駐屯地じゃなくて「駐とん地」なんですね。
ボクは自衛隊で通信科にいましたからよく電報を見ました。
駐とん地なんですよ。なんでだろう?

自衛隊の中の研究会なんですね。
序は陸上自衛隊の幹部学校の校長さんが書いてます。
「戦史は戦術原則の母であり、部隊訓練の準拠、
 武人修養の経典でもある。昔から心ある武人は深く戦史を研究し、
 これによって戦場の実相を感得し、
 死生の巷にあって武将としていかにあるべきかの姿勢を求め、
 あるいは用兵の要諦を窮地することに努めた」

マレー作戦

編集/陸戦史研究普及会 〈原書房〉

  目次

陸戦史集の刊行について
はしがき
第一章 作戦の起こりとマレーの兵要地誌
  一 作戦の起こり
  二 兵要地誌
第二章 作戦準備
 第一節 日本軍の作戦準備
  一 作戦準備全般について
  二 兵要地誌・地図の整備と情報の収集
  三 研究と訓練
  四 マレー作戦部隊の編成
  五 進攻基地の確保
  六 作戦計画と現地陸・海軍の協定
  七 作戦発起態勢の完整
 第二節 英軍の作戦準備
  一 全般準備について
  二 マタドール計画
  三 英軍の配備
  四 編制・装備、訓練等
第三章 上陸作戦
 第一節 上陸地点への前進
 第二節 コタバル上陸戦闘
  一 戦闘前に知りえた状況と地形
  二 交戦後判明した状況と地形
  三 日本軍の兵力・編組等
  四 侘美支隊の作戦計画
  五 戦闘経過
  六 戦果と損害
 第三節 シンゴラ、パタニー上陸
  一 第五師団の作戦計画の概要
  二 第五師団の上陸計画の骨子
  三 シンゴラ上陸
  四 パタニー、タペ—上陸
 第四節 上陸当初における軍全般の状況
 第五節 陸・海軍航空部隊の活躍
  一 英極東艦隊主力の潰滅
  二 陸軍航空部隊の活躍
 第六節 英軍の行動
第四章 ジョホール水道への進撃
 第一節 ペクラ橋梁への突進
  一 第五師団主力の作戦
  二 安藤支隊の戦闘
  三 作戦初期の兵站と鉄道部隊の活躍
  四 第三飛行集団の戦闘
  五 南方軍の作戦構想と第二五軍の指導
  六 第二五軍作戦計画の修正
  七 近衛師団のマレー戦線への転進
 第二節 カンタンとクワラルンプルの占領
  一 侘美支隊のカンタン占領
  二 軍の追撃命令とペクラ河の渡河
  三 カンパルの戦闘と渡辺支隊の海上起動
  四 スリムの戦闘
  五 工兵、銀輪部隊の活躍
  六 クワラルンプルの占領
  七 Q・S作戦の中止
  八 エンドウに対する航空用燃料の揚陸
  九 作戦中期の兵站の概要と南方軍鉄道隊の編成
 第三節 ジョホール水道への突進
  一 ゲマスの戦闘
  二 バクリの戦闘
  三 ジョホール水道への進出
 第四節 藤原機関の活躍
 第五節 マレー半島作戦の戦果と補給
第五章 シンガポールの攻略
 第一節 攻略準備
  一 シンガポールの概要
  二 第二五軍の攻略計画策定の経緯
  三 攻略計画策定のための研究と準備
  四 第二五軍の地得した状況と地形
  五 第二五軍の攻略作戦計画と攻撃命令の下達
  六 各師団の攻撃準備
  七 シンガポール航空撃滅戦
  八 英軍のシンガポール島防衛準備
 第二節 攻略実施
  一 攻撃準備射撃とウビン島の占領
  二 各師団のジョホール水道渡過
  三 テンガー飛行場の占領
  四 近衛師団のマンダイ山の占領
  五 要衝ブキテマ高地の占領
  六 降伏勧告
  七 英軍最後の抵抗
  八 英軍の降伏と山下・パーシバル両将軍の会見
  九 英軍降伏後の処理
付図第一 マレー半島略図
付図第二 インドシナ半島と海上機動図
付図第三 マレー半島の英陸・空軍配置図
付図第四 第二五軍マレー作戦経過要図(別添)
付図第五 コタバル上陸戦闘および飛行場の占領図
付図第六 ジットラ付近戦闘経過要図
付図第七 スリムの戦闘経過要図
付図第八 カンタン攻撃戦闘経過要図
付図第九 バクリ、パリットスロン付近戦闘経過要図
付図第十 シンガポール島攻略作戦・戦闘経過要図(別添)
付図十一 シンガポール島英軍配備要図
附表第一 第二十五軍、第三飛行集団等戦闘序列
附表第二 マレー作戦部隊主要職員録
附表第三 近衛師団編制表
附表第四 第五師団編制表
附表第五 第十八師団編成表
附表第六 作戦前における日・英両国軍人員装備概数表
附表第七 主要兵器、航空機諸元概要
附表第八 戦果および損害
 主要参考文献資料



マレー作戦といえば、コタバル上陸です。
これは小澤治三郎長官の決断。
ヘンテコな話なんですが、現地司令官である小澤さんが決めました。
小沢さんの上には第二艦隊(南方部隊指揮官近藤信竹)があり、
その上には連合艦隊(山本五十六)があり、
その上には陸・海の参謀部が合わさった大本営があるのです。
それが、小澤さんに一任されたんです。
海軍軍令部は危険が多いということで反対。
近藤さんも反対。五十六さんは、
おそらくやった方がいいという思いを持っていたんだけど、
ここで言っても難しい。と、「小澤がいいようにするでしょう」
こう言って、現地の第25軍司令官の山下と小沢で決めたらいい。
そんな流れになったんです。
軍令部は三代一就さんを派遣します。
陸軍は軍令部の意向を知っていますからピリピリしてる。
ここで小澤さんはこう言います。
「コタバルには第25軍の考え通り上陸作戦を実行されたい。
 私は全滅を賭しても責任完遂に邁進する」
この時の様子を、第25軍参謀副長であった馬奈木敬信さんは
このように述懐しています。
「その刹那、全議場は粛として声なく、
 むしろ快哉を叫び得ない感激の光景をていし」ていた。

小澤さんは、陸軍がそんなにいうのなら。と、
仕方なしに決行したわけではありません。
必要な作戦であり、かつまた勝算ありとみたためです。

シンゴラなどタイ側に上陸した主力部隊は第五師団ですが、
コタバルに上陸した侘美支隊は、あまりいいことを言われない、
あの牟田口廉也の18師団です。
侘美浩さんは旅団長で、56連隊を率いて上陸します。
牟田口自身は置いてけぼりをくった形で、
第五師団が快進撃をしているものだから自分も参加したくてしょうがない。
それを察した第25軍の参謀が、
侘美支隊の前方に18師団を上陸させようと言い出したんです。
山下さんの上の南方総軍まで乗り気になったんですが、
小澤さんは、これを止めさせています。
作戦が予想以上に順調に進んでいるのに、
わざわざ危険な地区(シンガポールのすぐ近く)に
上陸を急ぐことはないだろ、と。

どうしても小澤さんの話が多くなっちゃうんですが、
この本、陸上自衛隊の本なんでこのへんで辞めますね。

とにかく、このマレー作戦は快進撃と言っていい。
上陸地点から、シンガポールの手前ジョホールまで1100キロ。
これを55日間で駆け抜けちっゃたんです。
これ、日本の地理でいったら
九十九里浜に上陸して小倉に攻め込むくらいのことらしい。
ボクは、東京から長崎まで歩いたことがありますけど、
確かにのんびり歩いてますけど、40日かかっています。
このときの第25軍は、敵と戦いつつ、
壊された橋を直しつつ、突き進んでの55日です。
いや、ホント、頭が下がります。

陸戦史集2 マレー作戦




捨身提督小澤治三郎

ミッドウェー海戦のとき、
連合艦隊司令部より真剣に戦況を注視していた人がいました。
南遣艦隊司令長官であった小澤治三郎さんです。
第一航空艦隊ができたとき、
司令長官は南雲さんよりも小沢さんがなるほうが自然であった。
そんな見方をする人が多いんです。
ジツは、航空艦隊(または機動艦隊)を作るべき
と提案したのは、この小澤さんだったんです。
しかし、日本海軍の人事は年功序列でいきました。
南雲さんも小澤さんも水雷で、南雲さんが一期先輩です。

小澤さんは南遣艦隊司令長官として、
陸軍のマレー作戦に多大な貢献をしました。
陸軍ではシンゴラ、パタニー(共にタイ)と同時に
コタバル上陸作戦もやりたかったのですが、
これには護衛すべき海軍が反対したのです。
コタバルは英領マレーであり、
有力な飛行場があるため危険が多すぎるというものです。
しかし、攻める側の陸軍からすれば、
この飛行場が敵の管理下にあったのでは、
タイ上陸後の進撃がはかどりません。
中央の話し合いでは結論が出ず、
連合艦隊司令長官として参加した五十六さんが、
「現地の小澤がうまくやると思うんで・・・」
そんなわけで、現地司令官同士が話し合って決める。
という事になりました。
海軍中央は反対でしたが、
五十六さんは反対ではなかったのではないか。
でも、よくわからないし、小澤に任せとけば安心だ。
そんな感覚だったんじゃないでしょうか。
五十六さんは、「作戦は落第」の人ですから。

五十六さんは、軍政のほかは航空関係の仕事が多かったんですが、
部隊の長ではなく、教育や航空行政です。
それで連合艦隊司令長官になっちゃったもんだから、
参謀長も経験し、駆逐隊司令や戦隊司令官を歴任した
小澤さんに頼ることが多かったんですよね。

小澤さんは、コタバル上陸について考え、
これはやるべき。と判断し、できるか。を考え、
陸軍の25軍司令官、山下さんに対してこういいます。
「コタバルには第25軍の考え通り上陸作戦を実行されたい。
 私は全滅を賭しても責任完遂に邁進する」
こんなことがあったので、
陸軍の人は小澤さんのことをひどく尊敬しています。

では、小澤さんは陸軍との協調のために
何でも聞いたのかというとそうではありませんでした。
小澤さんにしてみれば、
コタバル上陸は勝算あってのことなんです。
戦闘が進み、さらに先に陸兵を送りたいので
護衛してほしいという注文がきたときは、
それは危険を冒してまでやる作戦ではない。と、
陸軍を説得しています。
陸軍に、このような交渉ができた海軍の人は、
他にはいなかったんじゃないでしょうか。

そんな小澤さんが、ミットウェー海戦のときは
南方の作戦が一段落し、やることがありません。
小澤さんの参謀などを務めた寺崎隆治さんの言葉をかりれば、
「飯より戦の好きな小澤さんは」
ミッドウェーの状況を無線で聞き、
戦況を地図に書き込むなどして過ごしました。
そして、こう言ったのです。
「これは、暗号が取られているぞ」
米軍の攻撃が、非常に計画的だというんですね。
その後軍令部の山本祐二さんが出張してきたんで、
小澤さんは調査を依頼しています。
「そういう心配は全くありません」
これが軍令部側の答えですが、
このときに認識を変えていれば、
山本五十六さんは暗殺されることはなかったはずです。
中央は今のヤクニンみたいな仕事ぶりだったんだと思います。

捨身提督小澤治三郎

生出寿 〈徳間書店〉

目次
まえがき
国運を担う南遣艦隊司令長官
全滅を賭したコタバル上陸作戦
開戦まえに英軍機撃墜
正解のマレー沖海戦
陸軍の山下奉文、今村均を支援
海軍の諸葛孔明を志す
水雷艇長で船乗り修行
水雷学校、海軍大学校の戦術教官
酒豪提督、「辺幅を飾らず」
永野長官と小沢参謀長の対決
山本五十六と「航空主兵」て一致
兵力激減の機動艦隊を率いる
“鬼がわら”の号泣
アメリカ主力機動部隊撃滅の戦法
敵にわたった軍機作戦計画書
飛べない空母飛行機隊
ニミッツの大謀略
無力化された陸上飛行機隊
攻める小澤、守るスプルーアンス
自分は死に場所をなくした
敵と耦刺を期す
源田実の「戦闘機無用論」
まじめに戦ったのは西村ひとり
ハルゼー艦隊を釣り上げる
大和の沖縄特攻は自分に責任あり
戦やめるらしいぞ
あとがき
参考・引用文献

捨身提督の「捨身」は、おそらくレイテ沖海戦での
ハルゼーを北方に釣り上げるためのオトリ作戦のことでしょう。
このときの小澤さんの任務遂行は、
アメリカ側の軍人、研究家から高く評価されています。

その小澤さんが評価したのは西村さんでした。
「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」
アメリカ側では非常に評価が低いです。
途中で引返した志摩さんの方がいい評価をされています。
この辺の考え方が、アメリカ的だと思う。
ただし、日本文化を深く理解したアメリカの研究者は、
西村司令官の行動を愚かとは言っていません。

レイテ沖海戦で、最大のポイントは、
栗田さんが引き返したことです。
でも、アメリカ側の評価では、
栗田さんは満場一致で否定されてはいません。
アメリカで、満点で非難されているのは、
豊田副武(連合艦隊司令長官)と、ハルゼーです。
そして、満点で高評価を得ているのが、
オトリ艦隊を指揮した小澤さんと
西村艦隊を壊滅させたオルデンドルフです。

第一航空艦隊ができたとき
南雲さんでなくて小澤さんなら、
という声は当時からあったようですが、
ボクは、小澤さん以外で、コタバル上陸作戦を
決意できた提督はいないと思っています。
このときの判断も、フリーではないんです。
海軍中央は、中央の考えを伝えるために
軍令部の航空担当の三代さんを派遣しています。
小澤さんは、それをはねのけて「やりましょう」と言ったんです。
これが言える人は、いなかったと思います。

真珠湾攻撃の功績を以て南雲さんをどこかに栄転させて
ミッドウェーを小澤さんで戦っていたら、
おもしろいことになっていたでしょうね。
こんなこと言っても詮無いんだけど、
小澤さんは、戦力をもぎ取られては戦わされたから、
充実した状態で一戦交えたかっただろうな。と、
なんか、その辺がボクにこれを訴えさせるんです。

捨身提督小澤治三郎

井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編〈上〉)

  目次
イントロダクション
第三十七期編〈上〉
 過ちを改むるに憚ること勿れ
 少尉任官
 陸軍歩兵中隊
 それぞれの萌芽
 満州事変
 『いさお』
 南寧作戦
 第一航空艦隊
 コタバル上陸作戦
 マレー半島上陸
 マレー沖海戦
 敵のおもわく
 島田戦車隊登場
 島田戦車隊さらに突進
 ジョホールバルへ
あとがき
参考文献

 イントロダクション
ボクが井上さんの同期である草鹿任一さんを知ったのは、生出寿さんの本からです。
生出さんは海軍兵学校七四期(以後(七四期)と記す)で、当時兵学校校長であった井上さんの教え子になります。
草鹿さんは井上さんの前の校長で、生出さんは草鹿さんがラバウルに出てからの入校生徒です。草鹿さんは井上さんとは対極的な人、といった登場の仕方で、井上さんが四角四面なら草鹿さんはざっくばらんというか、ボクの印象としては軍人としては砕けすぎた人、かな。といったものでした。・・・草鹿さんが校長に決まったとき、同期からはこう言われたそうです。
「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くそうな」
ところが草鹿さんの伝記なんかを読んでみると、もう、ただただすばらしい、唸るほどの方です。経歴を追ってみても教官や、教育機関での勤務が多い。
戦後、井上さんが歴代の大将に等級をつけて批判していたことに、
「井上は、よくない」
 と言った。とありましたが、草鹿さんの人物を知ると、この言葉の重みがずいぶん違ってきます。

・・・そもそも陸軍はドイツに学び、海軍はイギリスに学んでいます。このあたりにも大きな違いがありそうですが、・・・どこの国でも陸軍と海軍は仲が悪かったそうですが、日本の場合は人種が違うような感がある。
・・・小沢さんの葬儀には陸軍の将星が多く参列されたそうです。この一事をもってしても、この人は立派な人だな。そんな思いがボクにはありました。そして草鹿さんの存在を知り、もしかしたらこのふたりは指揮官として優れているだけではなく、人物としても井上さんより上なんじゃないか?そんなことを思うようになり、兵学校三七期の代表として、このお二人のことを書いてみたいな、という思いが募ってきたわけです。

Amazon Kindle 井上成美の遺言(海軍兵学校第37期編・上)