回想の大西瀧治郎

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「山口の下なら喜んで働ける」と言った
大西さんの方がどうであったか。

大西さんは海軍大学を出ていません。
なのに出世が、トップとは言いませんが、明らかに上位です。
大西さん、海軍大学の筆記試験に受かったんだけど、
口頭試験の前に、暴力沙汰で新聞にでちゃったんですよね。
優秀なんだけど、ちょっと元気が良すぎた。

大西さんは特攻隊指揮官になる前は、軍需省にいました。
航空兵器総局を立ち上げたときに、
陸軍からは遠藤さん(神風手ぬぐいを作らせた人です)、
海軍からは大西さんが出て、
大西さんは遠藤さんを長官にして、
自分は総務局長として実権を握りました。
このとき、特攻をやろう!という人たちが、
大西さんのところに来るんです。
特攻兵器の考案・製造ですね。兵器総局ですから。

大西さんは開戦時は南方の航空隊の参謀長でした。
まだ景気のいい時分に中央に戻されましたので、
そこまで戦況がひどい(普通にやっては通じない)とは、
実感としては持てなかったんだと思います。
軍需省にいる間は、特攻しかない!とは思っていませんでした。

いよいよとなったら自分がやるしかあるまい。
マニラに赴く時は、そんな心境だったんじゃないかと思います。
この心境の経過を、ボクはこう考えます。
兵器総局でいろいろ聞かされているうちに、
技量が伴わないのに出撃して撃墜される若者たちが
かわいそうで仕方なかったんじゃないかと思うんです。
爆弾を命中させるより、自分で突っ込んだ方が可能性が高い。
そして、彼らは体当り攻撃を主張し始めるのです。
どうせ帰らぬのなら、結果を残させてやりたい。
「統率の外道」と知りながら、その作戦を実施するのは、
親心として、切実なる彼らの思いを認めてあげたのではないか。
ボクは、大西さんに関しては、このように想像しています。


その覚悟を及川君(軍令部総長)に伝えますと、
「命令という形はいけない。志願したという形で頼む」
三国同盟の時もそうですが、
この及川という人は、人に責任を預けるんですね。

大西さんが、特攻を指揮するのはマニラです。
第一航空艦隊司令長官。
陸軍というのは、副官は人についていくことが多かったようですが、
海軍は、その職責につきます。
大西さんの前の第一航空艦隊司令長官は、同期の寺岡で
その副官は、大西さんがきても副官です。
その副官、門司親徳さんがこの本の著者です。

回想の大西瀧治郎

門司親徳 〈光人社〉

  目次
第一章 幻の戦果
      台湾沖航空戦
第二章 士官室の沈黙
      神風特別攻撃隊
第三章 落日の波濤
      捷一号作戦
第四章 見敵必殺
      第二、第三神風特別攻撃隊
第五章 遠い編隊
      レイテ島決戦
第六章 冬枯れの風景
      クラーク複郭陣地
第七章 形見の巻紙
      司令部、台湾へ
第八章 棺を蔽うて
      沖縄天一号作戦
第九章 最後の別れ
      長官、軍令部次長へ
第十章 よく戦いたり
      終戦・遺書
 付Ⅰ セブの観音像
      特攻基地の熱き日々
 付Ⅱ 昇天
      特攻201空司令山本栄大佐の生と死
 付Ⅲ 慰霊の泉
      大西中将未亡人の思い出
  著者奉職履歴
  あとがき
  参考文献

出会い

昭和19年神無月の九日、
門司さんは小田原参謀長にこう言われれました。
「副官、もう内地までは無理だけど、
 せめて台湾までお迎えに行ってくれないか」
寺岡に替わって大西さんがくるんです。
すでに東京を立っているというんです。
マニラと台湾って近いんですよね。

門司さんは短期現役主計科士官6期で、
(のちの総理となった中曽根さんと同期です)
あまり海軍のお偉いさんのことなどは知らず、
大西瀧治郎中将などは初めて聞く名だったそうです。
若い参謀に聞いてみると、こんな答えが返ってきたそうです。
「寺岡長官と違って、怖い人だぞ。副官、大変だなぁ」

第一航空艦隊司令部に戻るまでの1週間ほどの台湾滞在中に
台湾沖航空戦が起きており、空襲に遭うことで
門司さんは大西さんの決断の速さ、胆力を知り、
大西さんは戦場慣れした門司さんを評価します。

別れ

昭和20年皐月、ベルリンが陥落しドイツが無条件降伏をしたころ、
大西さんに軍令部付という辞令の内報がありました。
門司さんは、長官は本土決戦に備えて
中央に呼び出されたのだと悟ります。
このころは、死ぬときは一緒ぐらいの気持ちでいましたから、
長官と離れ離れになることを思い気落ちしたそうですが、
参謀長に、東京まで随行するように言われ、
最後の二人旅ができると、ようやく気を取り直したといいます。

司令部全員で記念の写真を撮った後、
長官一人のものも撮るということになりました。
大西さんは「副官も並べ」と言います。
門司さん、ほかの人の手前、ちょっと遠慮してみせますが、
内心は嬉しくて、すぐに大西さんの椅子の後ろに立ったそうです。

大西さんは軍令部次長になるわけですが、
海軍省につくと、同期で次官の多田武雄に会います。
艦隊司令長官が戦地から戻ると、参内し報告します。
第一種軍装はフィリピンの山の中に置いてきてしまっているので、
「家へ行って、軍服を取ってきてくれ」という指示。
翌日、上落合の家に取りに行くと奥さんが出てきますが、
奥さんは大西さんが東京に帰っていることをまだ知りません。
「帰って来るって教えてくれればいいのに・・・」
軍服は疎開していて東京にないという。
そして、さして心配している風でもなく、
のんびりした口調で、
「困っちゃったわね」
こんな言われ方をすると、
門司さんの方も、大したことでないような気がしてきて、
「帰って、長官にご相談します」
大西は大西で「借りよう」と簡単に言い、
体型の似ていた軍務局長の保科さんのものをかりることにします。

そんなことで、門司さんは戦後も大西夫人とは交流がありますが、
皐月の19日、門司さんは台湾に向かうため大西さんに挨拶に行きます。
「そうか、元気でな。握手すると、みんな先に死ぬんでなぁ」
これが大西さんとの別れになります。
なぜあのとき「かまいません」と言って、
長官と握手をしなかったのか。
そのことが悔やまれてならなかったとつづっています。

自決

大西さんは、陛下の玉音放送を聞いた夜、
遺書を残して、次長官舎で割腹します。

特攻隊の英霊にもうす よく戦いたり、深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり
然れどもその信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い
聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸いなり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ
諸子は国の宝なり
平時に処し
なお克く特攻精神を堅持し、
日本民族の福祉と世界人類の和平のため、
最善を尽せよ

回想の大西瀧治郎

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