連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争

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アメリカから帰った実松さんが軍令部の情報部に入ります。
担当はアメリカ。
大井さんが認めるほどの人ですから
周りの空気には惑わされず、的確にアメリカの情報をまとめていました。
でも、大きな声にはならない。
この情報を常に確認していたのが
自らを情報参謀と名乗った中島親孝さんです。

通常海軍では通信参謀と呼ばれていました。
中島さんの感性としては、来た通信情報をただ右から左に渡す。
そんなものは参謀の仕事じゃない。と、
情報を吟味し、元情報を示したうえで自分の考えも伝えるべきで、
その意見を作戦に反映させてこその参謀だと、
このような考えをもって積極的に取り組んだようです。

海軍乙事件は防げた

海軍乙事件というのがあります。
この事件は山本五十六さんのあとをとった
古賀峯一連合艦隊司令長官の乗る飛行機が天候不良により墜落した事件です。
山本さんの乗る飛行機が撃墜された事件が海軍甲事件です。

司令部異動では、被害分散のために参謀長は別の飛行機に乗ります。
山本さんの時は宇垣参謀長の乗った飛行機は
海に落ち、宇垣さん他二人が救助されています。
乙事件でも二番機(参謀長の乗る機)は、海上に不時着、
参謀長の福留と作戦参謀の山本祐二他七名が助かっています。
ただし、この乙事件は、その後が大きな問題で、
この九人はフィリピン人ゲリラの捕虜となり、
暗号書をとられています。
これは大問題なんですが、ここで言いたいのは
そもそもこの乙事件、司令部の移動自体がチグハグで、
中島さんの言うとおりにしていれば、
長官が遭難に会うこともなかった事件なのです。

昭和18年長月、中島さんは連合艦隊参謀に補せられトラックに向かいます。
このとき決意するんですね。情報参謀たろう、と。
で、通信長に通信参謀を兼務させることとし、
中島さんは情報に専念します。

昭和19年弥生の27日夜の通信状況から、
中島さんは連合艦隊司令部のあるパラオに空襲があると判断します。
28日朝の定例作戦会議に
「30日の朝からパラオ空襲が始まり二日間続く」と、
自身の予想を説明します。
はたして30日の早朝から敵の空襲が始まります。
このとき地下に埋設した線が切断され、
応急修理完成まで送信不能という事態が起こり、
日没後の作戦会議で、参謀長の福留がダバオへの移動を主張します。
中島さんは、この空襲は明日で終わること、
ダバオの通信施設は貧弱で、
とうてい連合艦隊司令部の機能を発揮できないことを挙げ、
パラオに留まることを提案しましたが、
参謀長の主張でもあり、ほかの参謀が発言しないため、
ダバオ経由でサイパンに行くことに決定します。

翌31日も空襲が続きましたが、
午後になると敵機からの戦果報告の電話が多くなり、
2時ごろ偵察機も引き上げたので、中島さんは予想通り
これで空襲は終わったと長官に自身の推測を伝えに行きます。
ところが、すでに
『本日夜または明日黎明、パラオ発ダバオ経由サイパンに進出す』
という電報を打っているというんです。
気象長からダバオとの中間に弱い不連続線があるという説明があったので、
中島さんは明朝未明、偵察機を飛ばしたうえで、
敵を認めなければダバオに向かうという提案します。
そして、中島さんは基地通信隊に残り、通信諜報を続けることとし、
各部の被害状況の視察に出かけます。

夜7時に帰ってみると、
幕僚が飛行艇基地に向かって出かけ始めています。
夜間出発になった理由を聞くと、
敵の大部隊発見という電報があったというのです。
中島さんがおかしいと思って海図に当たってみますと、
発見したという場所はクツルー環礁の上です。
かなり強い西風が吹いていますから、
中島さんは、そのための白波を敵部隊と誤認したものと推測するのですが、
すでに発動していることでもあり「お気をつけて」と送り出したそうです。
この間参謀長の福留は中島さんに口をききませんでした。
これは、福留が逃げることに一心となっていたとボクは考えます。

このための海軍乙事件であり、
暗号書を盗まれた福留が、しらを切って不問に付されていることから、
ボクは福留に対して非常に良からぬ思いがありますが、
こういうやつの話は捨て、中島さんの話です。

このように、ことごとくアメリカ軍の動きを正しく読んだため、
戦後、アメリカの調査団に「暗号を解いていたのか?」と、
質問されたほどの人です。
陸軍にもいましたね、マッカーサーの参謀などと言われた堀栄三さん。

日本人は、やりだしたらやはり有能なんです。
ただ、少なくとも海軍では、諜報活動は低く見られていたようです。
まぁ、忍びのイメージなんじゃないかと思うんです。
身分は低いですよね。足軽でしょ?武将がやる仕事ではない。

海軍のなかでの職種としては、
砲術が一番の人気です。当然出世コースにもなります。
あと人気になるのは、新しい職種ですね。航空とか潜水艦です。
通信は、残った人が行く。体壊しちゃった人とか。
となると、どうしても発言力は弱くなるんです。
中島さんはガタイもよく、成績も超優秀でした。
そんな中島さんが書いた本です。

連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争

中島親孝 〈光人社〉

  目次
 序 〈豊田穣〉
 はじめに
第一章 万里の波濤 (第二艦隊参謀時代[1])
第二章 驕慢の返礼 (第二艦隊参謀時代[2])
第三章 敗北の構図 (第三艦隊参謀時代[1])
第四章 南溟の砲声 (第三艦隊参謀時代[2])
第五章 運命の決断 (連合艦隊参謀時代[1])
第六章 最大の海戦 (連合艦隊参謀時代[2])
第七章 落日の山河 (海軍総隊参謀時代)
 付:日本海軍の情報活動の概要
    日本海軍の通信諜報
    日本海軍の情報活動
    日本海軍の情報活動の特徴
付表:連合艦隊編制・軍隊区分一覧
 あとがき

最後に「日本海軍の情報活動の概要」という文が
付されていますが、これは昭和58年に
航空自衛隊幹部学校で講演を行ったときの原稿だそうです。
その最後にはこうあります。
「日本海軍の状況判断の基礎は、
個々の小さな徴候の積み重ねであって、
いつも同じ手順が繰り返されるという前提に立つものであった。
もちろん、その過程で因果関係を考えて、
おかしなものを省いていたけれども、
もし欺瞞策を採られれば、これに乗ぜられる危険が多かった。
しかし、暗号が解読できても偽電があり、
諜報者にも謀略があることを考えれば、
この小さな徴候を積み重ねてゆくという方法は、
かえって確実なものと思われる。
ところが、
情報関係者がこのようにきめ細かい考慮を払っているのに対し、
作戦担当者の希望的判断と場当たり的処置は終戦までつづいた」

なんだか、中島さんの悔しい思いがひしひしと伝わってきます。

中島さんは海軍反省会にも出席されていて、
非常にいい意見を述べられますが、
どちらかというと、
うながされて初めて発言するといったような感じで、
こちらの方が本来の性格のように思われます。
第二艦隊や第三艦隊のころ、相当悔やまれたんだと思います。
せっかく正確な情報を伝えても、
指揮官が先入観にとらわれていては、
その情報の価値が反映されない。
参謀としてはみずから状況判断を行ない、
その基礎となる情報をよく説明し、
その結果として自分の判断を生み出した経過を述べる。
このことを決意し、
自らを情報参謀と自称することとしたようです。

連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争

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