大本営海軍部

まず序文をいくらか抜粋します。

「大東亜戦争に敗れたことは、我が国にとってまことに千載の恨事であるが、敗戦なればこそ、その教訓は勝利の場合にくらべて数倍に値するものがあるはずである」

「終戦直後の数年間、マッカーサー司令部のさしがねによって行われた、「真相はこうだ」というNHKのラジオ放送は、全部とはいわないまでも、その多くは、故意に真相を歪曲したものであった。そのため国民に誤解を与えると同時に、政府や軍にたいし大きな不信感を抱かせる結果となったのである」

「私はこの誤りを正さねばならぬと思い、また敗戦の跡を反省して戦訓を求めたいと考え、まだ記憶のうすれないうちにと、昭和二十五年にひとつの記録を書き残しておいた。支那事変から大東亜戦争にかけ、私は前後二回にわたって大本営海軍部の作戦課に勤務していたが、その記録は通算五年間に体験したことを、当時の簡単な日記と、記憶にもとづいて書きつづったものである。本書は最近、防衛庁戦史室の資料や先輩知人の口述筆記などによって、この記録を補正したものにほかならない」

「本書にのべたことは、ほとんど私個人のせまい体験と見解にすぎないが、事実は粉飾なく、赤裸々にのべたつもりである。これによってこの戦争にかんする世人の誤解を少しでもとき、またこの戦争を知らない新しい時代の人びとに、真実を知ってもらうことができれば幸いである」

大本営海軍部

回想の大東亜戦争

山本親雄 〈白金書房〉  

  目次
自序
はじめに
  大本営の歴史
  大本営の編成
  海軍省と軍令部
第一章 太平洋に戦雲暗し
  誰もが避けようとした対米英戦争
  国防方針に反する対多数国作戦
  開戦時の大本営の作戦計画
  三段階に分けた作戦
  開戦を前に戦闘機不足論
第二章 破竹の進撃・第一段作戦
  檜舞台で戦艦無用論を実証
  世界を震駭させた真珠湾の奇襲
  零戦の威力
  困難だった機密保持
  戦果拡大に伴う危惧
  さえないスラバヤ沖海戦
  海軍の花形、機動部隊
  第一段作戦の総括
第三章 連合軍反攻・第二段作戦
  戦略思想で陸海軍が対立
  戦略的勝利を逸した珊瑚海海戦
  海軍の面目つぶした東京空襲
  「慢心」がもたらしたミッドウェイの惨敗
  日米戦の天王山ガダルカナル
  ブルドーザーと人力の戦い
  壮絶なガ島周辺の夜戦
  日米空母機動部隊の決戦
  航空消耗戦に敗れる
  ガダルカナル撤退作戦
第四章 攻勢防禦ならず・第三段作戦
  昭和十八年二月の情勢
  攻勢防禦の方針決める
  アリューシャンに暗雲
  アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す
  ついに玉砕したアッツ守備隊
  山本連合艦隊司令長官の戦死
  戦艦「陸奥」謎の爆沈
  作戦方針転換で戦線縮小
  風雲急な中部太平洋
  連合艦隊、太平洋を去る
  トラック空襲
  真珠湾作戦の再現――「雄」作戦の構想
第五章  帝国海軍の終焉・第三段作戦
  古賀長官の事故死で全作戦に乱れ
  サイパンを失う――「あ」号作戦の失敗
  「捷」号作戦
  比島沖海戦――連合艦隊の壊滅
  比島沖海戦――余録
  連合艦隊司令部、陸上に移る
  フィリピンから沖縄へ
  終戦まで
第六章 戦い終わって
  潜水艦作戦の不振
  対潜水艦戦に完敗
  日本海軍の魚雷
  敗戦まねいた艦隊決戦主義
  特攻攻撃
  開き過ぎた飛行機生産力の差
  情報・暗号戦でまず敗北
  大本営発表はでたらめか?
  宿命的な陸海軍の対立
  実現できなかった「統帥一系」
  東條大将の天皇親政論
  実現しなかった日独協同作戦
  「統帥権独立」の弊害

米内光政・山本五十六・井上成美のときは、
三国同盟はなりませんでした。
それが、及川古志郎・豊田貞次郎になったとたん
同盟締結に同意したのです。なぜか。

どんな理由で海軍が豹変し、陸軍や松岡外相の
主張に追従したのかを明らかにするため、
戦後関係者が行った口述や談話などを調べてみたそうで、
こんな感じでまとめられています。

(一) 自動参戦の問題
従来、海軍が反対した大きな理由は、自動参戦を付加とするにあった。ところが成立した条約では、この条項がなくなったから、海軍が反対する理由が消滅した。松岡外相は和戦の決は天皇の大権に属し、日本が自主的に決定しうるものであって、ドイツも了解している、と主張して海軍を押し切ったということである。
(二) 米国との戦争を避ける手段としての同盟
ドイツも日本も、アメリカとの戦争は避けたい、と望んでいた。この点、日独の利害が一致するというのが政府の判断で、これにたいしては海軍も異存はなかった。しかし当時、松岡外相が主張したのとは反対に、同盟締結によって、日本が毅然たる態度をとれば、米国はさらに強硬策をとり、日米の関係はますます尖鋭化し、ついに和解不可能に陥る、ということは軽視されたようである。
(三) 陸海軍の対立緩和
当時、陸海軍の対立は、極度に尖鋭化していた。とくに陸軍の態度は硬化して、国内動乱のおそれもあるという情勢であった。海軍はこの際大乗的見地にたち、このような事態の勃発を避けるため条約締結に同意した。
(四) 海軍存在の意義
海軍があくまで同盟に反対するならば、「対英米戦には”勝てない”から”戦えない”ということを海軍から表明されたい」ということを、首相の側近や陸軍から申し入れてきた。これまで対米戦を目標として整備訓練してきた海軍としては、このような表明はできない。もし表明すれば、海軍存在の意義を失い、また艦隊の士気にも悪影響を及ぼすことにもなるので、勢い同盟に賛成せざるを得なくなった。
(五) 予算、資材、人員等の割当上
支那事変が始まってから、予算、資材の割当は、陸軍優先の建前となっていた。そこで国策を米英に指向することになれば、これらの割当を海軍優先に転換させうるという望ましい結果になる。もし同盟に反対すれば、海軍への割当は不要である、というのが陸軍の空気であった。
(六) 近衛首相の不決断
政府内にも、外相、陸相以外の大臣には、同盟にあまり賛成でないものもいた。近衛首相も、海軍が必ず反対するだろうから、自分はしぶしぶ賛成しておけばよかろう、という考えであったともいわれている。海軍は、このような重大な国策の決定に、海軍が主導して反対することは迷惑であるとして、なんとか首相の責任において反対に導かれるように努めた、ということがいわれている。
(七) 朝野世論の硬化
支那事変が長期化し、不安と焦慮にかられた国民の間に、陸軍の巧みな宣伝によって”親独反米”の機運が起きてきた。朝野の親英米派は口を閉じ、強硬論をとなえる親独派が幅をきかすようになったのは、自然の勢いであった。したがって政府内部の空気もしだいに硬化し、外務省や内務省の官僚が、同盟論を指示したばかりでなく、海軍部内においてすら同盟賛成論者が出るようになった。大臣や総長もこのような空気を制しきれなかった、という点もあったらしい。

そして、このような結論めいたことを述べられています。

海軍が同盟に賛成した理由も、
国家全体のことよりも、海軍だけのことを
重く考えてのこととしか思えないふしが多い。

大本営海軍部

一海軍士官の回想

この本を書いた中山定義さんは、
井上成美さんが支那方面艦隊の参謀長だったときの
政策担当参謀で、井上さんが軍令部に乗り込んでいって、
アホなこと(対米戦になりかねない政策)すな!
って言い寄ったときにお供させられた人です。

開戦時は南米におり、
「中山さん。日本の海軍機がパール・ハーバーの
 米艦隊をさかんに攻撃しているというニュースが
 繰り返されていますからお知らせします」
という、同盟通信の椎名氏からの
突然の電話が第一報となったそうで、
「パール・ハーバーだけですか。
 フィリピンというような地名はありませんか」
と答えたそうです。
というのは、3日前にワシントンから
暗号関係を処分したという機密電報を受けており、
時間の問題。と観念していたからだそうです。
その後はチリで監禁状態。
第二次交換戦で昭和18年霜月、横浜着。
昭和18年といえば、ガダルカナル撤退、
山本五十六さんの戦死、アッツ島の玉砕と、
みるみる戦況が悪くなった年で、
中山さんがチリを出たころには、
イタリアが降伏しています。

中山さんは、駆逐艦艦長を強く希望しましたが、
「君の乗るような駆逐艦はもう一隻もない」
なんて一蹴されてしまい、相手にされなかったそうです。
海軍省副官、第二艦隊参謀、軍令部五課(米国情報)、
軍務局二課などが、ワシントンから
南米経由で帰った中山さんを欲しがっていました。
辞令は「海軍省軍務局二課」でした。
ドイツ駐在が決定していた扇一登さんの後です。
ひと月もすると、こんな事例が追加されます。
「調査課課員、兼軍務局局員、南方政務部部員」
調査課といえば、
高木惣吉さんが作ったブレーン・ブラストがあります。
そんなわけで、中山さんは
次官を退いてからの井上成美さんとの連絡など、
高木さんの終戦工作にかかわることになります。

一海軍士官の回想

開戦前夜から終戦まで

中山定義 〈毎日新聞社〉

  目次
Ⅰ 北米時代
  危機せまる米国へ
    井上成美参謀長の憂い
    「米国駐在を命ず」
    「鎌倉丸」の乗客たち
    野村大使の述懐
    神ならぬ身
    北米大陸に第一歩
    Gメンに追跡される
    ワシントンへ
  プリンストン大学
    大の日本海軍ファン
    アインシュタイン博士
    直接の殺し合いは避けよう
    教会の反日演説
    レーダー情報
    アナポリス見学
  視察旅行
    一ヶ月のドライブ旅行
    在留邦人に時局講演
    大西洋の独・英艦隊決戦
    米大統領の「国家非常事態宣言」
    立花事件
Ⅱ 南米時代
  アルゼンチンとブラジル
    次は中山だ
    米国から南米へ
    チリ進出を意見具申
    欧州から転進の海軍使節団
    最後の日本船「東亜丸」
    来るべきものが来た
  日米開戦下のチリ
    アンデスを越えて
    チリ公使館附海軍武官
    ドイツ武官と情報活動
    自前の情報宣伝戦
    大本営発表
    盗聴覚悟の電話連絡
    ついに国交断絶
    監禁生活
  帰国の途へ
    第二次交換船
    帰国の途へ
    上甲板の「海ゆかば」
    交換船「帝亜丸」
    昭南寄港
    マニラから最後の航海へ
Ⅲ 海軍省軍務局時代
  新任務と帝国議会
    帰朝報告に反応なし
    新配置
  ブレーン・トラスト
    調査課のブレーン・トラスト
    二年現役主計士官のこと
    地価大食堂の激論
    石川信吾少将の政治活動
  東条政権の崩壊
    反東条熱に驚く
    四方東京憲兵隊長
    自滅の道をたどる
    潜行する内閣打倒運動
    海軍人事に陸軍の横槍
    「敵はついに倒れたぞ」
    飛行機工場の現実
    原子爆弾
  小磯・米内協力内閣と海軍
    海軍に活気戻る
    米内大臣と井上次官のこと
    大臣演説草案に四苦八苦
    陸軍強硬派からのアプローチ
  鈴木内閣と終戦
    小磯内閣から鈴木内閣へ
    激化する空襲
    本土決戦の準備
    混乱の第87臨時議会
    身を切られる思いの終戦工作
    幻の大和大本営
    ぐずぐずしてはいられない
    エピローグ
 注
あとがき
  索引

サイパンからの決別電は文月の六日です。
12日、東條は、嶋田繁太郎と申し合わせ、
内閣改造で乗り切ろうとします。
そのことを木戸幸一内大臣に伝えると、
木戸から条件を出されます。
統帥権の確立(総長と大臣の分離)。
嶋田海相の更迭。
重臣(総理経験者)の入閣。
木戸は、陛下の思し召しであることをほのめかします。
東條は、参謀総長には梅津美次郎さん、
嶋田は軍令部総長に専任させ、
新海相には野村直邦を当て、
阿部(陸軍大将元総理)と米内さんの入閣を
求めるという内閣改造方針を木戸に説明し、
了解を取りつけます。
そんなわけで17日、野村海軍大臣が誕生しますが、
米内さんに入閣を断られ、
18日東條内閣は総辞職します。
重臣会議が開かれ小磯国昭が選ばれますが、
19日、近衛が米内さんを訪ねます。
「小磯一人じゃ心配だから、
 あなたが出て連立でやってもらえないか」
米内さんは連立なんてうまくいくはずがない、
としたうえで、海軍大臣ならやれると告げますと、
近衛は、小磯首相・米内海相というお言葉を
陛下からいただくように木戸に含みます。
20日、小磯・米内の二人に組閣の大命が下ります。
可哀そうなのは野村君で、
小磯から辞表を出せと言われるわけです。
「お上から米内を現役に戻して大臣にするよう言われて
 おりますので、海軍の方で、手続きをお願いします」
21日、野村君は参内して陛下に確認します。
「その通り」
小磯・米内連立内閣は22日誕生します。
米内さんは副総理格ですが、
小磯には「お前がやれ」と、海軍大臣に専念します。
葉月の5日には井上さんが次官になります。

中山さんによれば、海軍の空気がガラッと変わり、
海軍省を訪問する顔ぶれが一変したそうです。
中山さんの表現ではこうなります。
「とにかく米内海相・井上次官のコンビが
 出現したことは、海軍省構内に聳え立つ
 あの高い無線用鉄塔の上に、
 いわば”霞ヶ関灯台”とでも称すべきものが点灯され、
 遠く日本の針路を照射しだしたような思いで、
 懐中電灯で足元を照らしながらうろうろし、
 とかく大きい針路を見失いがちな
 われわれ事務当局にとっては大助かりであった」


一海軍士官の回想

自伝的日本海軍始末記

高木惣吉さんは東條首相暗殺を企てた人で、
決行前に内閣が崩れたので実行には至りませんでした。
その後は終戦工作に尽力しました。
海軍大臣の命を受けてやったもので、
個人的にやった陸軍のものとは全く違う。と、
井上成美さんは、この点を強調しています。

高木さんはちょっと変わった経歴を持ちます。
ロンドン海軍軍縮会議の連絡事務担当から
大臣の副官兼秘書官となり、
無理がたたって体を壊してしまい、
そこから塩っ気のある勤務ができなくなってしまったのです。
それでも海大を首席で出ていますから中央で活躍し、
大佐のときは海軍省官房調査課長なんてのになり、
ブレーン・トラストなどという組織を作り
外部の人との接触が多くなります。
このことが終戦工作に役立つわけです。

高木さんは、早い段階から著作活動をしており、
海軍の伏せておきたいような部分も書いたりして
反発も多かったようですが、井上成美さんに
すべてを明るみに出せ。とはっぱをかけられて、
拍車がかかったりしたようなところもあるみたいです。
もともとというか、全般的に反骨の人ですね。

自伝的日本海軍始末記

帝国海軍の内に秘められたる栄光と悲劇の事情

高木惣吉 〈光人社〉

  まえがき
第一章 反骨児、海軍へ入る
  わが生い立ちの記
  ヒヨコ士官のクリ言
  時代おくれの海兵教育
  江田島をはなれて
  第一次世界大戦おこる
  くやし涙の遠洋航海
  わが反骨時代はじまる
  上村副長の鬱憤ばらし
  御難つづきの「明石」
  シベリア出兵の悲劇
  大いなる迷いの果てに
  まぼろしの八・八艦隊
  加藤中将のくやし涙
第二章 疑いを胸中に秘めて
  わが青春の思い出
  大正も終わりに近く
  海軍大学というところ
  作戦方針に疑問あり
  フランスにて思うこと
第三章 揺れ動く昭和を生きて
  つわものどもの夢の跡
  軍縮条約の波紋ひろがる
  海軍大臣秘書官として
  戦火、上海におこる
  運命の糸にあやつられて
  第四艦隊事件の教訓
第四章 大陸に戦火ひろがる
  相つぐ不祥事の中で
  政党政治の崩れ去る日
  ある日の山本五十六
  日米抗争激化の前夜
  暴走陸軍を止め得ず
  多事多難な昭和十二年
  揚子江に沈んだ星条旗
  ついに戦火は消えず
第五章 陸軍の横暴に抗して
  軍部独裁への道ひらく
  悔いを千載にのこす
  明暗を分けた分岐点
  急を告げる内外の動き
  こじれた日独軍事同盟
  くすぶりつづける禍根
第六章 世界の戦火を浴びて
  戦火いよいよ拡大す
  崩壊への路線きまる
  恐竜と化した米経済界
  高まりゆく陸軍の圧力
第七章 日本苦境に立つ
  反骨精神で生きる
  日米戦争はじまる
  軍艦マーチひびけど
  忘れえぬことども
第八章 無為無策な指揮下で
  山本五十六大将死す
  ああ万骨枯れるのみ
  粉飾の戦果におどる
  崩れゆく日本の日々
  活路を得んとして
  東条内閣の最後近し
第九章 戦争の時代終焉近し
  ドタン場の海軍人事
  有馬正文の遺言
  有名無実の防御線
  戦局とみに逼迫す
  極秘裏に平和へ動く
  若き憂国者たちの不満
  決裂した大西との密談
  樹てられた暗殺計画
  押し寄せてきた破局
  色あせた”楠公精神”
  沢本次官とのウワサ話
  成算すでにゼロ!
  ついに東条内閣崩る

高木さんは、こういう記述も残しています。

二・二六事件のときのエピソードです。

世間は腹はくさっていても、
肩書のものものしい人々には注意をするが、
忘れがちなのは、真に日本人として
誇るべき、無名の男女性の行動である。
総理官邸に、反乱軍の乱入した騒ぎの中で
「旦那様のご遺骸があるうちは、
 一歩もここから立ち去ることはできません」
と、監視する反乱兵士の銃剣の前で言い切った
秋元さく、府川きぬえさん両女性の総理守護の心境、
警視庁が反乱軍に包囲され、
背後に監視兵がいるまえで、
32時間にわたり電話交換台を死守した
石田末子さん以下12名の交換嬢、
また右の人々と交替した佐伯八重子さんら18名が、
27日午前10時半、交換台が神田錦町署に
移されるまでの凛々しい働きぶりには、
まったく頭のさがる思いで、
派閥根性に国民を忘れた軍事参議官たちを
愧死せるに足るものがある。
また、総理官邸で衆寡けん絶した反軍と戦って
殉職した巡査部長村上嘉茂左衛門、
巡査小館喜代松、土井清松、清水真四郎の四名、
牧野伯の避難をたすけて殉職した巡査皆川義孝、
岡田総理の救助、脱出にかぎりしれぬ助力を与えた
麹町憲兵分隊長森健太郎少佐、
特高班長小坂慶助曹長以下の憲兵諸士、
とくに最初に総理の生存を知った
青柳利之軍曹、篠田惣寿上等兵らの、
きわめて正しい判断と処置は、
国民が忘れてはならないとうとい鏡で、
われわれは国や社会が困難に出会うごとに、
官階や地位や貧富とかかわりなく、
その人のヒューマニズムにもとづく行動が、
人間としての価値を示してくれることを痛感する。

東日本大震災のときの、
腹のくさった菅や枝野でなく、遠藤未希さんですね。

自伝的日本海軍始末記


波濤を越えて

手元の本は昭和60年になっていますが、
もともとは日本出版共同株式会社から
「海戦」の題名で刊行されたものらしく、
作品としては昭和31年のものです。

若いころの吉田さんは、
こういった本を出されていたようですね。
こういった本というのがなにか
吉田さんのあとがきを抜粋します。

あとがき

大東亜戦争の記録を手当たり次第に読みはじめ、
集めはじめたのは戦後三年目ころからであった。
その後も戦争当時の責任者や研究者たちが、
それぞれの「戦記」や「戦史」を活字にした。
連合国側でも、いわゆる権威ある戦史が刊行され、
彼我の主張の間に、
真実がようやくうかがい知られるまでになってきた。

しかし、私には、それらのものを読むたびに、
どうしても満足できないものが、しこりのように残った。
――これが、私たち日本人がすべてをあげて戦った
大東亜戦争の、ほんとうの姿なのだろうか。

私には、いまだに親交を重ねている、
当時下士官兵であった人々、
あるいは当時大尉、中尉くらいであった友人たちがある。
少しも際立たない、生活の間に埋もれている、
ごく当たりまえの人たちであるが、
そういう人たちの話は、経験は、
高級指揮官や参謀たちの手で書かれた
いわゆる戦記の肌あいと、著しく違っている。

駆逐艦一隻喪失、という冷たい文字のかげには、
乗員二百五十人の真剣な、
真面目な努力と魂の燃焼があり、
飛行機消耗五機という裏には、
五人ないし三十五人の若い生命の奔騰と
お守り札や千人針を持たせてくれた家族の祈りと、
――その祈りも及ばぬところでの、彼らの死がある。
勇敢で、崇高で、献身的な戦いが、
その人たちが無名の人であるばかりに、
あらゆる記録から追い落とされ、
たんに兵籍名簿のカードに、何月何日戦死と、赤インキで書いてあるだけである。
これでいいのか。
作戦計画を実施するために、
あらゆる苦悩や悲惨とたたかったのは、彼らである。
艦や飛行機や兵器を動かし、
それに燃え上がる生命力を吹き込んだのは、彼らである。
他の人たちを救うために、
他の人たちの失敗をつぐなうために、
他の人たちの名誉が傷つけられるのを防ぐために、
恐るべき苦難の道を突き進んだのは、彼らである。
その彼ら――人間的なつながりを
一人一人大切にしながら、人の子の喜びと悲しみを
つつましく、しかも無邪気に現して、
恩賞や名称や世間体には目もくれず、
敵撃滅の悲願を胸におさめて黙々と死地に臨んだ
これらの人々こそ、この大東亜戦争を
本当に戦った人たちであり、
戦争を語る資格がもっとも大きい人たちであり、
「戦争」それ自身についても、最も切実に、
最も力強く語り得る人たちであるはずである。

この本に盛られたものは、そういう人たちの
口から直接に語られ、また、何事かを語ろうとしながら、
その機を得ずに死んでいった人たちが、
その心を知る戦友たちの口を借りて語った話を、
その史実を、異常な環境の中において、
素直に、歪めずに、いろいろな角度から現わそうとした、
私のささやかな努力の結実である。
しかしその私は、残念ではあるが、
最期の筆をおいた瞬間、もうそれが、
彼らの心情を現わすにははなはだしく足りなかったこと、
私の心の沈め方の至らなかったことが、
自ら激しく責めなければならなかった。
述べるべくして述べ得なかったことが、
山ほど残されてしまったのである。

私の願いは、こういう埋もれた人たち、
たとえば戦後の電車の混雑の中で、
つい右隣のツリ革につかまっているような人たちが、
いかに勇敢に、自己を捨てて祖国の急に赴いたか、
いかに崇高な魂を打ち込んで、人を、家を、村を、
街を、日本を、愛するがゆえに奮戦したかを、
日本の栄えゆく限り、私たちの記憶から
消滅させたくない、ということにある。
しかも、彼らのその尊い献身が、
すべて素朴に祖国の安泰を求めつつ
なされたものであるからには、彼らの奮戦を
私たちの記憶から消滅させないようにすることによって、
私たちの希望と矜恃と実力を養うばかりでなく、
その上にさらに一歩をすすめて、彼らの願いを生かし、
その献身に栄光あらしめるために、
ふたたび戦争の惨禍が、国土の上に、国民の上に、
国民の知らぬ間に襲い掛かるようなことがないよう、
積極的に努力したいのである。

波濤を越えて

吉田俊雄 〈朝日ソノラマ〉

  目次
第一部 第二水雷戦隊
第二部 戦艦比叡
第三部 空母瑞鳳

吉田さん、若いころはこういう思いで
積極的に下士官兵たちの素顔を書いてたんでしょうね。
ご自身が年齢を重ねて、
指揮官であった人たちの年齢を超えて
その心情が理解できるようになって、
やっぱり、上層部はおかしいぞ。と、
それでそれぞれの連合艦隊司令長官や
参謀長。また、参謀とは、なんて題材のものを
書くようになったんじゃないかなと思います。

波濤を越えて

指揮官と参謀

なんか、この手の作品が多いんです。
吉田俊雄さん、海軍兵学校第59期。
終戦で中佐になった期です。
永野さん、米内さん、嶋田繁太郎の副官をしていますから、
気になったんでしょうね。指揮官。
ボクの持っている本の中では比較的早い段階のものです。
80歳を過ぎたころの作品が多いですね。
ボクの勝手な想像ですが、
やはり、中佐ぐらいになった方
特に実際に大臣になった人の副官などしていれば
「やはり、残さない方がいいか、、、」
なんて思うエピソードとかもあると思うんですよね。
でも、80にもなると、その人たちと
同じだけ生きたことになるし、言ってもいい、残すべき。と、
ちょっと違った視点というか、
ある程度割り切った考えに達するんじゃないか。
そんなふうに思えたりもします。

指揮官と参謀

その思考と行動に見る功罪

吉田俊雄 〈光人社〉

  目次
一、先見性・山本五十六
 艦隊決戦から航空主兵の時代へ
   主体的で視野の広い軍政家山本と部下、
   軍令部との認識上のギャップが悲劇を生んだ
二、年功序列・山本五十六と小沢治三郎
 悲劇に彩られた二人の司令長官
   生死を度外視、知能の限りを傾けて
   己の職責を果たすべく情熱を燃やしつづけた
三、上将と猛将・山本五十六とハルゼー
 太平洋で睨みあった異色の好敵手
   奇しき縁に結ばれた日米の二人の司令長官は
   虚々実々の秘術を尽くして戦いつづけた
四、適材適所・南雲忠一
 難局で問われた指揮官の真価
   勇猛果敢な水雷戦隊司令官は、なぜ
   航空艦隊司令長官になって因循姑息に豹変したか
五、逆境・山口多聞、角田覚治、大西瀧治郎
 退勢挽回をはかった三人の提督
   絶体絶命の窮地にあっても、攻撃こそ
   最良の防御なりを実践して果敢に戦いを挑んだ
六、決断・栗田建男
 沈黙の提督、レイテ突入せず
   死中に活を求め、すさまじいまでの決意を抱いて
   決戦にのぞんだ栗田艦隊指揮官の真実
七、責任感・西村祥治
 水雷屋提督、スリガオに死す
   任務を達成しようという責任感で常に
   事にあたった私心なき知勇兼備の提督の真骨頂
八、指揮官先頭・村田重治と江草隆繁
 海軍魂をもった二人の猛将の最後
   艦攻の鬼、艦爆の鬼とうたわれ、つねに
   先頭きって飛びつづけた第一線指揮官の風貌
九、参謀の条件・宇垣纒、福留繁、草鹿龍之介、矢野志加三
 連合艦隊司令長官と四人の参謀長
   変化への対応ができなかった上部指導機構の
   頭脳たちは無能な失格者ぞろいだったか

開戦時の連合艦隊司令部

真珠湾攻撃後、海軍省は報道禁止事項を示達したそうです。
「連合艦隊司令長官山本五十六大将が勝負事に巧みなること」
山本さんはモナコのカジノで入場を断られるほどバクチがうまく、
断られたのは世界で二人目だという伝説になったとか。
シマハン(嶋田繁太郎海軍大臣)としては、
それを真珠湾とからめて論じられては
海軍の恥辱とでも考えたのだろうと吉田さん。

兵学校、術科学校、大学校で徹底した均質化教育をされ、
それぞれのレベルでは、だれをそのポストに配しても、
そのために戦力を落とさない規格品の海軍士官
――悪い言葉で言えば、教えられたところを忠実に実行し、
私見を差し挟まずに行動する、
将棋の駒のようになった人たちに比べると、
五十六さんは異質である。と、こうも言っています。

そんなわけで、
五十六さんは主体性を持った人が好きだったようですが、
黒島の場合はただの変人であったと、
いや、今の言葉でいえばオタクでしょうね。
そう見極めて活用すれば、
それは非常に生かされたのだと思いますが、
先任参謀にしてしまった。
せめて宇垣さん(参謀長)が、
黒島に具体的な指示を与えてこき使うような
形になっていればよかったんですが、
五十六さんは黒島の変人の才を愛するあまり、
宇垣さんを飛び越えさせてしまっていました。

五十六さんが連合艦隊司令長官になってからすぐ、
参謀長は福留に替わります。
永野さんは軍令部総長になったときに福留を欲しがります。
それでじゃあ一部長の宇垣(福留、宇垣は同期)と
交換しようってことになったんだけど、
五十六さんが婉曲にお断りします。
「戦隊司令の経験のない人は、、、」
ようは宇垣さんのことが嫌いなんです。
それで、宇垣さんは第八戦隊の司令官になって、
第八戦隊の司令官だった伊藤さんが参謀長になります。
今度は永野さんが伊藤さんを次長に欲しいって言いだします。
宇垣さん、「司令経験あり」になっちゃったもんだから、
もう、五十六さんも受け入れるしかなくなっちゃったんですね。
これが、昭和16年の葉月で、
真珠湾の作戦は出来上がってました。
そんなわけで宇垣さんは蚊帳の外状態で開戦を迎えるのです。

このとき五十六さんは五十六さんで、
そろそろ俺も交代だろう。なんて思いもあります。
なにがなんでもって、参謀長の適任者を
模索するって意欲が薄かったのかもしれませんね。

それぞれの参謀長

吉田さんはこのように説明しています。参謀長とは、
「司令長官の幕僚として司令長官を佐け、隊務を整理し、
 幕僚その他隊務に参与する職員の職務を監督する」
足りないものを補って完全なものにするのであるから、
長官の言うままに従うのでは
参謀長の職責を果たしたことにはならない。
そして、
先任参謀以下の参謀はこれとは違う。といいます。
「参謀長の命を承け服務する」
参謀長の言うままに従わなければならない。

これを見れば明らかで、参謀長というのは
指揮権はないものの非常に重要な役目です。
それをないがしろにして、変人参謀に任せた。
五十六さんは任せた相手を尊重しますからなおさら良くない。

五十六さんのあとをとった古賀さんは、福留をもらいます。
この福留って人は
「戦略戦術の大家」なんて言われ方をしていたんですけど、
ジツは教科書の内容をたくさん覚えただけで、
イレギュラーなことには全く機転が利かないタイプ。
ここまで言っちゃ失礼かなとも思うんですけど、
吉田さんも言ってるし、何よりもご本人が告白してます。
「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、
 南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉功を奏したのちもなお、
 機動部隊は補助作戦に任ずべきもので、
 決戦兵力は依然大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」

吉田さんはさらに手厳しいですね。
豊田長官の場合は、南雲艦隊参謀長として戦ってきた
ベテランの草鹿龍之介を引っ張った。
しかし、豊田に輪をかけた主観性、直感性、心情性の持ち主で、
性格の似た者同士、すっかり欠点が増幅されることとなった。

指揮官と参謀

捨身提督小澤治三郎

ミッドウェー海戦のとき、
連合艦隊司令部より真剣に戦況を注視していた人がいました。
南遣艦隊司令長官であった小澤治三郎さんです。
第一航空艦隊ができたとき、
司令長官は南雲さんよりも小沢さんがなるほうが自然であった。
そんな見方をする人が多いんです。
ジツは、航空艦隊(または機動艦隊)を作るべき
と提案したのは、この小澤さんだったんです。
しかし、日本海軍の人事は年功序列でいきました。
南雲さんも小澤さんも水雷で、南雲さんが一期先輩です。

小澤さんは南遣艦隊司令長官として、
陸軍のマレー作戦に多大な貢献をしました。
陸軍ではシンゴラ、パタニー(共にタイ)と同時に
コタバル上陸作戦もやりたかったのですが、
これには護衛すべき海軍が反対したのです。
コタバルは英領マレーであり、
有力な飛行場があるため危険が多すぎるというものです。
しかし、攻める側の陸軍からすれば、
この飛行場が敵の管理下にあったのでは、
タイ上陸後の進撃がはかどりません。
中央の話し合いでは結論が出ず、
連合艦隊司令長官として参加した五十六さんが、
「現地の小澤がうまくやると思うんで・・・」
そんなわけで、現地司令官同士が話し合って決める。
という事になりました。
海軍中央は反対でしたが、
五十六さんは反対ではなかったのではないか。
でも、よくわからないし、小澤に任せとけば安心だ。
そんな感覚だったんじゃないでしょうか。
五十六さんは、「作戦は落第」の人ですから。

五十六さんは、軍政のほかは航空関係の仕事が多かったんですが、
部隊の長ではなく、教育や航空行政です。
それで連合艦隊司令長官になっちゃったもんだから、
参謀長も経験し、駆逐隊司令や戦隊司令官を歴任した
小澤さんに頼ることが多かったんですよね。

小澤さんは、コタバル上陸について考え、
これはやるべき。と判断し、できるか。を考え、
陸軍の25軍司令官、山下さんに対してこういいます。
「コタバルには第25軍の考え通り上陸作戦を実行されたい。
 私は全滅を賭しても責任完遂に邁進する」
こんなことがあったので、
陸軍の人は小澤さんのことをひどく尊敬しています。

では、小澤さんは陸軍との協調のために
何でも聞いたのかというとそうではありませんでした。
小澤さんにしてみれば、
コタバル上陸は勝算あってのことなんです。
戦闘が進み、さらに先に陸兵を送りたいので
護衛してほしいという注文がきたときは、
それは危険を冒してまでやる作戦ではない。と、
陸軍を説得しています。
陸軍に、このような交渉ができた海軍の人は、
他にはいなかったんじゃないでしょうか。

そんな小澤さんが、ミットウェー海戦のときは
南方の作戦が一段落し、やることがありません。
小澤さんの参謀などを務めた寺崎隆治さんの言葉をかりれば、
「飯より戦の好きな小澤さんは」
ミッドウェーの状況を無線で聞き、
戦況を地図に書き込むなどして過ごしました。
そして、こう言ったのです。
「これは、暗号が取られているぞ」
米軍の攻撃が、非常に計画的だというんですね。
その後軍令部の山本祐二さんが出張してきたんで、
小澤さんは調査を依頼しています。
「そういう心配は全くありません」
これが軍令部側の答えですが、
このときに認識を変えていれば、
山本五十六さんは暗殺されることはなかったはずです。
中央は今のヤクニンみたいな仕事ぶりだったんだと思います。

捨身提督小澤治三郎

生出寿 〈徳間書店〉

目次
まえがき
国運を担う南遣艦隊司令長官
全滅を賭したコタバル上陸作戦
開戦まえに英軍機撃墜
正解のマレー沖海戦
陸軍の山下奉文、今村均を支援
海軍の諸葛孔明を志す
水雷艇長で船乗り修行
水雷学校、海軍大学校の戦術教官
酒豪提督、「辺幅を飾らず」
永野長官と小沢参謀長の対決
山本五十六と「航空主兵」て一致
兵力激減の機動艦隊を率いる
“鬼がわら”の号泣
アメリカ主力機動部隊撃滅の戦法
敵にわたった軍機作戦計画書
飛べない空母飛行機隊
ニミッツの大謀略
無力化された陸上飛行機隊
攻める小澤、守るスプルーアンス
自分は死に場所をなくした
敵と耦刺を期す
源田実の「戦闘機無用論」
まじめに戦ったのは西村ひとり
ハルゼー艦隊を釣り上げる
大和の沖縄特攻は自分に責任あり
戦やめるらしいぞ
あとがき
参考・引用文献

捨身提督の「捨身」は、おそらくレイテ沖海戦での
ハルゼーを北方に釣り上げるためのオトリ作戦のことでしょう。
このときの小澤さんの任務遂行は、
アメリカ側の軍人、研究家から高く評価されています。

その小澤さんが評価したのは西村さんでした。
「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」
アメリカ側では非常に評価が低いです。
途中で引返した志摩さんの方がいい評価をされています。
この辺の考え方が、アメリカ的だと思う。
ただし、日本文化を深く理解したアメリカの研究者は、
西村司令官の行動を愚かとは言っていません。

レイテ沖海戦で、最大のポイントは、
栗田さんが引き返したことです。
でも、アメリカ側の評価では、
栗田さんは満場一致で否定されてはいません。
アメリカで、満点で非難されているのは、
豊田副武(連合艦隊司令長官)と、ハルゼーです。
そして、満点で高評価を得ているのが、
オトリ艦隊を指揮した小澤さんと
西村艦隊を壊滅させたオルデンドルフです。

第一航空艦隊ができたとき
南雲さんでなくて小澤さんなら、
という声は当時からあったようですが、
ボクは、小澤さん以外で、コタバル上陸作戦を
決意できた提督はいないと思っています。
このときの判断も、フリーではないんです。
海軍中央は、中央の考えを伝えるために
軍令部の航空担当の三代さんを派遣しています。
小澤さんは、それをはねのけて「やりましょう」と言ったんです。
これが言える人は、いなかったと思います。

真珠湾攻撃の功績を以て南雲さんをどこかに栄転させて
ミッドウェーを小澤さんで戦っていたら、
おもしろいことになっていたでしょうね。
こんなこと言っても詮無いんだけど、
小澤さんは、戦力をもぎ取られては戦わされたから、
充実した状態で一戦交えたかっただろうな。と、
なんか、その辺がボクにこれを訴えさせるんです。

捨身提督小澤治三郎

航空作戦参謀源田実

山本五十六さんは、真珠湾奇襲をしたくて
大西さんに手紙を書きます。
「開戦劈頭、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって痛撃し、当分のあいだ米国艦隊の西太平洋侵攻を不可能とする必要がある。目標は米戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易なことではないが、本職はみずからこの空襲部隊の指揮官となり、作戦遂行に全力を尽くす決意である。ついてはこの作戦をいかなる方法によって実施すればよいか、研究してもらいたい」
大西さんは、源田実を「相談したいことがある」と言って呼びつけると、この手紙を読ませました。

源田って人は、こういうの、好きなんですよ。
周りをアッと言わせるようなことね。
このときは第一航空戦隊参謀で、中佐です。

源田は素案を大西さんに提出し、
大西さんがまとめ上げて五十六さんに渡します。
ボクの想像ですが、
真珠湾攻撃のひな型はこのときにできてて、
黒島ってのちに特攻兵器ばかり考えてた先任参謀は、
これと言った独創性を付加したようなことはないんじゃないか。
そんなふうに思いますね。
こう考えたとき、源田には独創性はあったと言えるのではないか。

ただし、こんなことを同期の淵田さんに洩らしているんです。
「オレの案がスイスイ通ってしまう。このことが非常に怖い」
第一航空艦隊ができた時、源田は航空参謀になります。
長官は南雲忠一。
参謀長は草鹿龍之介。
先任参謀は大石保。
南雲さんは水雷、大石さんは航海。
草鹿龍之介は飛行機乗りではないんだけど、
周辺の勤務が多く、一応航空に明るいってことになってましたが、
下の意見を取り上げるってタイプの人で、
源田の意見がそのまま通るわけです。
「源田艦隊」なんて言われてたらしいですね。
中佐が艦隊を動かしちゃいけません。
本来であれば、中佐の判断と中将の判断とでは、
その深み重みが違うはずなんです。
源田という人はよく言えばチョープラス思考の人で、
思考的姿勢は頼もしいんですが、
最悪を想定した行き届いた作戦を考えるような
そういう幅には乏しかったんじゃないかと思います。
こういう点でいうと、
淵田さんの方が実務者タイプだったのではないかと思います。
その淵田さんを攻撃隊の総指揮官に、と
引っ張ってきたのは源田ですから、
自分の足りないところを
ある程度知っていたんじゃないかとも思えますね。

ミッドウェーでは惜しいことをしました。
ただでさえチョープラス思考なところに、熱を出してて、
細部にわたって目をやるってことができなかったように思います。
そして、頼みの綱である淵田さんは、
盲腸の手術をして寝てました。

源田って人は、自分のところに
いい搭乗員をそろえることに夢中になりましてね。
一期先輩の大井さんが、
「そんなに連れて行ってもらっちゃ困る。
後進育成のために教官にいいのを残しておかなきゃダメだろ」
そう言っても、あんたにゃ頼まない。ってなもんで
上の方にかけ合いに行っちゃうようなところがあるんです。
ボクのいうチョープラス思考っていうのは、
こういう意味を含んだ表現です。

そんな源田実を、
生出寿さんが批判的に書いたのが、この本です。

航空作戦参謀源田実

生出寿 〈徳間文庫〉

  目次
奇想天外
ハワイ奇襲に燃える
理想の名将
無我の境
幻の真珠湾第二撃進言
快勝また快勝
危うしインド洋作戦
乱れる連合艦隊司令部
その名も源田艦隊
東郷・秋山と山本・黒島・源田
摩訶不思議な主力部隊出動
不覚の敵情判断
山口多門の卓見
源田流用兵の破綻
大本営の誇大戦果発表
導師大西瀧治郎
マリアナ基地航空部隊の壊滅
最後の奇策「T攻撃部隊」
 初刊本あとがき
 参考文献
 解説 妹尾作太男

山本さんは、自らが率いて真珠湾攻撃をするつもりでいました。
「いざ開戦になったら、米内さんに復帰を願い、
 (米内さんはこのとき予備役です)
 連合艦隊司令長官になってもらって、
 自分がハワイに攻め込む」と、こんなことを
複数の人に手紙を送ったり言ったりしています。
ちょっとヘンテコな話ですが、事情がありました。
本来でいえば、着任してすでに二年を超えていましたから、
嶋田にでもあとを譲る。なんて思いでいましたが、
「今、山本さんに中央に来られては困る」
というのが、前のめりになってた課長級たちの思いでしたから、
たとえば「海軍大臣を」といったお声はかかりませんでした。

この時期もう一つ、持ち上がっていた話があります。
それまで第一艦隊は連合艦隊司令長官が直卒する。
という事になっていましたが、
第一艦隊司令長官を新たに設けて、
連合艦隊司令部は独立旗艦にしようという話です。
この話に乗じて、米内さんを連合艦隊司令長官に迎え、
自分は第一艦隊司令長官として前線に出る。と、
まぁ、こういう理屈でのハワイ攻撃参戦です。

もし、これが実現して、山本さんが自滅覚悟で
徹底的に真珠湾の基地そのものを壊滅状態にして、
その機を見て、米内さんが和平の話を中央に持ち掛けたところで、
中央が、幕引きを考えてなかったんですから、
どうなるわけでもありませんでした。
このダメージにより、
太平洋側の米海軍が足腰立たない状態になって、
反撃に移るのに何年かかかるようなことになったとしても、
その間に、マリアナ・カロリン諸島のラインで
敵潜水艦の出入りを完全にシャットアウトするぐらいの
シーレーンの確保を真剣に考え、実施しようとする人は
中央の要職にはいませんでしたから、
時期がずれるだけで、悲惨な結果になっていたと思います。

何が言いたいかと言いますと、
和平を真剣に考えたいのであれば、
米内さんは連合艦隊司令長官ではなく、
海軍大臣、せめて軍令部総長のはずです。
それなのに、山本さんは自分が暴れやすいように
直属の上司に米内さんが欲しかっただけなんじゃないか?
ボクは、こんなふうに思っています。

大西さんは、頼まれて真珠湾攻撃の原案を起案しましたが、
開戦間際になって「やめましょうよ」って、
山本さんのところまで出向いています。

大西さんの考えは、
「日本の力でワシントンを攻め落とすことはできない。
 となれば、いいところで講和に持ち込まなきゃならない。
 であるならば、アメリカ国民を刺激するような
 真珠湾攻撃なんてのはやるもんじゃない」
こんな考えでした。が、面と向かってここまでは言えず、
さすがの大西さんも言えなかったんですね。
で、大西さんはこのころ南方の航空部隊の参謀長ですから、
「南方作戦には母艦機を使わないと、戦力的に手薄です。
 ハワイに持っていくのは考え直してもらえませんか」
こんな言い方になっちゃった。
こういうのって「じゃあ、そこんとこ解消できたらオッケーね」
って言われちゃうと、詰んじゃうんですよね。

真珠湾攻撃っていうのは、
二重にも三重にも四重にも
結果的にいうと、やっちゃいけない作戦でした。
違う言い方をすると、
アメリカに、結果を最大限に利用された作戦でした。

でも、戦争ですから、戦闘的には成功は成功で、
帰ってすぐ、山本さんは
「勝って兜の緒を閉めろ!」って、
結構強い口調で言ってるんです。
これを司令官クラスがキチンと受け取っていれば、
おそらく暗号を取られていても、
ミッドウェーは勝っています。
そこを考えると、意識が全く違い過ぎたんだと思います。
当然です。
機動部隊は中佐が動かしていたんですから。
せめて、南雲さんの参謀長が山口さんか大西さんであったなら、
そんなことを考えちゃいますね。

航空作戦参謀源田実






回想の大西瀧治郎

「山口の下なら喜んで働ける」と言った
大西さんの方がどうであったか。

大西さんは海軍大学を出ていません。
なのに出世が、トップとは言いませんが、明らかに上位です。
大西さん、海軍大学の筆記試験に受かったんだけど、
口頭試験の前に、暴力沙汰で新聞にでちゃったんですよね。
優秀なんだけど、ちょっと元気が良すぎた。

大西さんは特攻隊指揮官になる前は、軍需省にいました。
航空兵器総局を立ち上げたときに、
陸軍からは遠藤さん(神風手ぬぐいを作らせた人です)、
海軍からは大西さんが出て、
大西さんは遠藤さんを長官にして、
自分は総務局長として実権を握りました。
このとき、特攻をやろう!という人たちが、
大西さんのところに来るんです。
特攻兵器の考案・製造ですね。兵器総局ですから。

大西さんは開戦時は南方の航空隊の参謀長でした。
まだ景気のいい時分に中央に戻されましたので、
そこまで戦況がひどい(普通にやっては通じない)とは、
実感としては持てなかったんだと思います。
軍需省にいる間は、特攻しかない!とは思っていませんでした。

いよいよとなったら自分がやるしかあるまい。
マニラに赴く時は、そんな心境だったんじゃないかと思います。
この心境の経過を、ボクはこう考えます。
兵器総局でいろいろ聞かされているうちに、
技量が伴わないのに出撃して撃墜される若者たちが
かわいそうで仕方なかったんじゃないかと思うんです。
爆弾を命中させるより、自分で突っ込んだ方が可能性が高い。
そして、彼らは体当り攻撃を主張し始めるのです。
どうせ帰らぬのなら、結果を残させてやりたい。
「統率の外道」と知りながら、その作戦を実施するのは、
親心として、切実なる彼らの思いを認めてあげたのではないか。
ボクは、大西さんに関しては、このように想像しています。


その覚悟を及川君(軍令部総長)に伝えますと、
「命令という形はいけない。志願したという形で頼む」
三国同盟の時もそうですが、
この及川という人は、人に責任を預けるんですね。

大西さんが、特攻を指揮するのはマニラです。
第一航空艦隊司令長官。
陸軍というのは、副官は人についていくことが多かったようですが、
海軍は、その職責につきます。
大西さんの前の第一航空艦隊司令長官は、同期の寺岡で
その副官は、大西さんがきても副官です。
その副官、門司親徳さんがこの本の著者です。

回想の大西瀧治郎

門司親徳 〈光人社〉

  目次
第一章 幻の戦果
      台湾沖航空戦
第二章 士官室の沈黙
      神風特別攻撃隊
第三章 落日の波濤
      捷一号作戦
第四章 見敵必殺
      第二、第三神風特別攻撃隊
第五章 遠い編隊
      レイテ島決戦
第六章 冬枯れの風景
      クラーク複郭陣地
第七章 形見の巻紙
      司令部、台湾へ
第八章 棺を蔽うて
      沖縄天一号作戦
第九章 最後の別れ
      長官、軍令部次長へ
第十章 よく戦いたり
      終戦・遺書
 付Ⅰ セブの観音像
      特攻基地の熱き日々
 付Ⅱ 昇天
      特攻201空司令山本栄大佐の生と死
 付Ⅲ 慰霊の泉
      大西中将未亡人の思い出
  著者奉職履歴
  あとがき
  参考文献

出会い

昭和19年神無月の九日、
門司さんは小田原参謀長にこう言われれました。
「副官、もう内地までは無理だけど、
 せめて台湾までお迎えに行ってくれないか」
寺岡に替わって大西さんがくるんです。
すでに東京を立っているというんです。
マニラと台湾って近いんですよね。

門司さんは短期現役主計科士官6期で、
(のちの総理となった中曽根さんと同期です)
あまり海軍のお偉いさんのことなどは知らず、
大西瀧治郎中将などは初めて聞く名だったそうです。
若い参謀に聞いてみると、こんな答えが返ってきたそうです。
「寺岡長官と違って、怖い人だぞ。副官、大変だなぁ」

第一航空艦隊司令部に戻るまでの1週間ほどの台湾滞在中に
台湾沖航空戦が起きており、空襲に遭うことで
門司さんは大西さんの決断の速さ、胆力を知り、
大西さんは戦場慣れした門司さんを評価します。

別れ

昭和20年皐月、ベルリンが陥落しドイツが無条件降伏をしたころ、
大西さんに軍令部付という辞令の内報がありました。
門司さんは、長官は本土決戦に備えて
中央に呼び出されたのだと悟ります。
このころは、死ぬときは一緒ぐらいの気持ちでいましたから、
長官と離れ離れになることを思い気落ちしたそうですが、
参謀長に、東京まで随行するように言われ、
最後の二人旅ができると、ようやく気を取り直したといいます。

司令部全員で記念の写真を撮った後、
長官一人のものも撮るということになりました。
大西さんは「副官も並べ」と言います。
門司さん、ほかの人の手前、ちょっと遠慮してみせますが、
内心は嬉しくて、すぐに大西さんの椅子の後ろに立ったそうです。

大西さんは軍令部次長になるわけですが、
海軍省につくと、同期で次官の多田武雄に会います。
艦隊司令長官が戦地から戻ると、参内し報告します。
第一種軍装はフィリピンの山の中に置いてきてしまっているので、
「家へ行って、軍服を取ってきてくれ」という指示。
翌日、上落合の家に取りに行くと奥さんが出てきますが、
奥さんは大西さんが東京に帰っていることをまだ知りません。
「帰って来るって教えてくれればいいのに・・・」
軍服は疎開していて東京にないという。
そして、さして心配している風でもなく、
のんびりした口調で、
「困っちゃったわね」
こんな言われ方をすると、
門司さんの方も、大したことでないような気がしてきて、
「帰って、長官にご相談します」
大西は大西で「借りよう」と簡単に言い、
体型の似ていた軍務局長の保科さんのものをかりることにします。

そんなことで、門司さんは戦後も大西夫人とは交流がありますが、
皐月の19日、門司さんは台湾に向かうため大西さんに挨拶に行きます。
「そうか、元気でな。握手すると、みんな先に死ぬんでなぁ」
これが大西さんとの別れになります。
なぜあのとき「かまいません」と言って、
長官と握手をしなかったのか。
そのことが悔やまれてならなかったとつづっています。

自決

大西さんは、陛下の玉音放送を聞いた夜、
遺書を残して、次長官舎で割腹します。

特攻隊の英霊にもうす よく戦いたり、深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり
然れどもその信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い
聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸いなり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ
諸子は国の宝なり
平時に処し
なお克く特攻精神を堅持し、
日本民族の福祉と世界人類の和平のため、
最善を尽せよ

回想の大西瀧治郎

勇断提督山口多門

官僚みたいな軍人ばかりだったのか。。。
こういう残念な思いにみなさんを浸らせる
そんなつもりで、書いているわけではないんです。

まぁ、当然と言えば当然なのかもしれないけど、
勇敢な方々は、より早く命を失っています。

山本五十六さんの暗殺に「GO」を出すとき、
アメリカ海軍でこんな会話があったとかなかったとか。
「もし山本を殺して、もっと優れた指揮官が正面に来たらどうする?」
「それは困る。しかし山口はミッドウェーで死んでるから大丈夫だ」

このような評価を受けていた提督がいたという点。
これはこれで注目すべきですが、
ボクは、このことから、
いかにアメリカが日本を研究し尽くしていたか。
こちらの方に驚きを感じます。
とにかく、アメリカは研究熱心です。
そして研究して、それを必ず実地に生かしますね。
真珠湾攻撃で航空兵力の重要性を知ると、
真珠湾に沈んだ古びた戦艦を見て、
あっ、この動かさなくていいんだから
このベテランたちを空母の方の人員に仕える!
こういうプラス思考をしますね。
ゼロ戦は化け物だな。
そう考えると、無理に戦うな、逃げろ!
なんて平気で指示を出す。
そして、墜ちたゼロ戦拾ってきて
分解しては、一生懸命研究します。

なんか、だんだん山口さんから離れちゃったけど、
そろそろ戻りましょうか。
山口多門さん。海軍兵学校40期です。
同期には山本五十六さんの参謀長で、
『戦藻録』を残した宇垣纒さん。
特攻作戦を最初に指揮した大西瀧治郎さん。
けっこう武人がそろっています。
左近充尚正さんとか、城島高次さんもそうですね。

山口さんは、部下にこのような話をしていました。
「生死いずれかと迷える時は潔く死ね」
武士道ですね。
『葉隠』の一部を渡部昇一さんが現代語に訳しています。
『武士道の本質は死ぬことだと知った。生死二つのうち、どちらを取るかといえば、早く死ぬ方を選ぶ。その覚悟さえあれば、腹を据え、よけいなことは考えずに邁進することができる。「事を成し遂げないうちに死ぬのは犬死だ」などというのは、上方ふうの打算的な武士道にすぎない。二者択一を迫られたとき、「絶体に正しい」という道を選ぶのは難しい。人は誰でも生きる方が好きだから、多かれ少なかれ、生きる方に理屈を付けがちだ。しかし、生きるほうを選んで、失敗に終わってなお生きているとすれば「腰抜け」といわれる。そこがむずかしいところである。ところが、死を選んでいれば、もし失敗して死んだとしても「犬死」といわれるだけで、恥になることはない。ここが、つまりは武士道の本質だ。武士道を極めるためには、朝夕、繰り返して死を覚悟することが必要である。常に死を覚悟しているときは武士道が自分のものとなり、一生誤りなく、主君にご奉公し尽くすことができる』

「繰り返して死を覚悟する」ということは、
大きな決断に出会ってはじめて決断しようっていうと、
これ、ムリです。
ただ、人間って先が見えないかっていうとそうではなくてね。
こうしたら、こういう懸念があるな。とか、
そういうことってわかるんですよね。
ただ、そのときは切羽詰まってないし、
となると、なおざりになりやすい。
常に死を覚悟している状態というのは、
常に切羽詰まった状態として判断し続けるってことだと思います。
これはなおざりにはできなくなります。
分からなければ調べますね。
こういう生き方をしたら相当忙しいと思います。
でも、今騒がれているような
統計不正問題みたいなものはないですよね。
官僚は国に尽くすべき立場ですからね。
こうあらねばならないわけですよ。

また、山口さんから離れちゃったなぁ。

勇断提督山口多門

生出寿 〈徳間書店〉

  目次
まえがき
平々凡々の大物少年
地中海でドイツ潜水艦と戦う
高慢米英に闘志を燃やす
連合艦隊先任参謀の信条
駐米海軍武官の情報活動
軽巡五十鈴艦長と皇族出身士官
戦艦伊勢が立てた金字塔
事故艦長を軍法会議から救う
心服した猛将大西瀧治郎少将
かっぽれ飛龍艦長と恵比寿司令官
ハワイ反復攻撃の進言
択捉島単冠湾で歌う”決死隊”
真珠湾への海路三千五百浬
全機撃突の決意で出撃
一撃だけで引き揚げた禍根
部下をみすみす殺せない
英米屈服の史上最大の作戦計画
ミッドウェーに待ち伏せた米艦隊
現装備のまま発進せよ
米空母ヨークタウンを倒す
猛火の中の勇士たち
艦とともに沈むのが正道
あとがき
参考文献


特攻を最初に指揮した大西さんが、
「山口の下なら喜んで働ける」
と言ったなんて残っていますし、
さらに一期上の闘将角田覚治さん、
山口さんの戦死を聞いた時の言葉として伝わっています。
「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。
 彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」

非常に惜しまれますね。
戦闘で死んだのではなく、司令官として
ミッドウェー敗戦の責任をとって艦とともに沈みました。

ミッドウェー海戦の指揮官は南雲さんです。
空母四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)が沈んでいますが、
「赤城」「加賀」は南雲さん直卒、
「蒼龍」「飛龍」が山口さんの担当です。
ジツは南雲さんは責任を取って沈むつもりでいました。
ところが参謀長の草鹿龍之介に引き摺られるようにして艦を降りたんです。
その後も南雲さんは腹を切るつもりでいましたが、
草鹿龍之介に説得されて思いとどまります。
この戦闘で山口さんは「飛龍」に乗っており、
「赤城」「加賀」「蒼龍」が立て続けにやられて、
山口さんの「飛龍」だけが孤軍奮闘したのち沈みました。
南雲さんが山口さんに「託す」と電報を打って沈んでたら、
山口さんは沈むわけにはいかなかったんじゃないかな。と、
ボクはその点を惜しみます。

ミッドウェーは驕りのために負けた海戦で、
海軍乙事件同様、
避けられた被害を被った戦だったと思います。

勇断提督山口多門

連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争

アメリカから帰った実松さんが軍令部の情報部に入ります。
担当はアメリカ。
大井さんが認めるほどの人ですから
周りの空気には惑わされず、的確にアメリカの情報をまとめていました。
でも、大きな声にはならない。
この情報を常に確認していたのが
自らを情報参謀と名乗った中島親孝さんです。

通常海軍では通信参謀と呼ばれていました。
中島さんの感性としては、来た通信情報をただ右から左に渡す。
そんなものは参謀の仕事じゃない。と、
情報を吟味し、元情報を示したうえで自分の考えも伝えるべきで、
その意見を作戦に反映させてこその参謀だと、
このような考えをもって積極的に取り組んだようです。

海軍乙事件は防げた

海軍乙事件というのがあります。
この事件は山本五十六さんのあとをとった
古賀峯一連合艦隊司令長官の乗る飛行機が天候不良により墜落した事件です。
山本さんの乗る飛行機が撃墜された事件が海軍甲事件です。

司令部異動では、被害分散のために参謀長は別の飛行機に乗ります。
山本さんの時は宇垣参謀長の乗った飛行機は
海に落ち、宇垣さん他二人が救助されています。
乙事件でも二番機(参謀長の乗る機)は、海上に不時着、
参謀長の福留と作戦参謀の山本祐二他七名が助かっています。
ただし、この乙事件は、その後が大きな問題で、
この九人はフィリピン人ゲリラの捕虜となり、
暗号書をとられています。
これは大問題なんですが、ここで言いたいのは
そもそもこの乙事件、司令部の移動自体がチグハグで、
中島さんの言うとおりにしていれば、
長官が遭難に会うこともなかった事件なのです。

昭和18年長月、中島さんは連合艦隊参謀に補せられトラックに向かいます。
このとき決意するんですね。情報参謀たろう、と。
で、通信長に通信参謀を兼務させることとし、
中島さんは情報に専念します。

昭和19年弥生の27日夜の通信状況から、
中島さんは連合艦隊司令部のあるパラオに空襲があると判断します。
28日朝の定例作戦会議に
「30日の朝からパラオ空襲が始まり二日間続く」と、
自身の予想を説明します。
はたして30日の早朝から敵の空襲が始まります。
このとき地下に埋設した線が切断され、
応急修理完成まで送信不能という事態が起こり、
日没後の作戦会議で、参謀長の福留がダバオへの移動を主張します。
中島さんは、この空襲は明日で終わること、
ダバオの通信施設は貧弱で、
とうてい連合艦隊司令部の機能を発揮できないことを挙げ、
パラオに留まることを提案しましたが、
参謀長の主張でもあり、ほかの参謀が発言しないため、
ダバオ経由でサイパンに行くことに決定します。

翌31日も空襲が続きましたが、
午後になると敵機からの戦果報告の電話が多くなり、
2時ごろ偵察機も引き上げたので、中島さんは予想通り
これで空襲は終わったと長官に自身の推測を伝えに行きます。
ところが、すでに
『本日夜または明日黎明、パラオ発ダバオ経由サイパンに進出す』
という電報を打っているというんです。
気象長からダバオとの中間に弱い不連続線があるという説明があったので、
中島さんは明朝未明、偵察機を飛ばしたうえで、
敵を認めなければダバオに向かうという提案します。
そして、中島さんは基地通信隊に残り、通信諜報を続けることとし、
各部の被害状況の視察に出かけます。

夜7時に帰ってみると、
幕僚が飛行艇基地に向かって出かけ始めています。
夜間出発になった理由を聞くと、
敵の大部隊発見という電報があったというのです。
中島さんがおかしいと思って海図に当たってみますと、
発見したという場所はクツルー環礁の上です。
かなり強い西風が吹いていますから、
中島さんは、そのための白波を敵部隊と誤認したものと推測するのですが、
すでに発動していることでもあり「お気をつけて」と送り出したそうです。
この間参謀長の福留は中島さんに口をききませんでした。
これは、福留が逃げることに一心となっていたとボクは考えます。

このための海軍乙事件であり、
暗号書を盗まれた福留が、しらを切って不問に付されていることから、
ボクは福留に対して非常に良からぬ思いがありますが、
こういうやつの話は捨て、中島さんの話です。

このように、ことごとくアメリカ軍の動きを正しく読んだため、
戦後、アメリカの調査団に「暗号を解いていたのか?」と、
質問されたほどの人です。
陸軍にもいましたね、マッカーサーの参謀などと言われた堀栄三さん。

日本人は、やりだしたらやはり有能なんです。
ただ、少なくとも海軍では、諜報活動は低く見られていたようです。
まぁ、忍びのイメージなんじゃないかと思うんです。
身分は低いですよね。足軽でしょ?武将がやる仕事ではない。

海軍のなかでの職種としては、
砲術が一番の人気です。当然出世コースにもなります。
あと人気になるのは、新しい職種ですね。航空とか潜水艦です。
通信は、残った人が行く。体壊しちゃった人とか。
となると、どうしても発言力は弱くなるんです。
中島さんはガタイもよく、成績も超優秀でした。
そんな中島さんが書いた本です。

連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争

中島親孝 〈光人社〉

  目次
 序 〈豊田穣〉
 はじめに
第一章 万里の波濤 (第二艦隊参謀時代[1])
第二章 驕慢の返礼 (第二艦隊参謀時代[2])
第三章 敗北の構図 (第三艦隊参謀時代[1])
第四章 南溟の砲声 (第三艦隊参謀時代[2])
第五章 運命の決断 (連合艦隊参謀時代[1])
第六章 最大の海戦 (連合艦隊参謀時代[2])
第七章 落日の山河 (海軍総隊参謀時代)
 付:日本海軍の情報活動の概要
    日本海軍の通信諜報
    日本海軍の情報活動
    日本海軍の情報活動の特徴
付表:連合艦隊編制・軍隊区分一覧
 あとがき

最後に「日本海軍の情報活動の概要」という文が
付されていますが、これは昭和58年に
航空自衛隊幹部学校で講演を行ったときの原稿だそうです。
その最後にはこうあります。
「日本海軍の状況判断の基礎は、
個々の小さな徴候の積み重ねであって、
いつも同じ手順が繰り返されるという前提に立つものであった。
もちろん、その過程で因果関係を考えて、
おかしなものを省いていたけれども、
もし欺瞞策を採られれば、これに乗ぜられる危険が多かった。
しかし、暗号が解読できても偽電があり、
諜報者にも謀略があることを考えれば、
この小さな徴候を積み重ねてゆくという方法は、
かえって確実なものと思われる。
ところが、
情報関係者がこのようにきめ細かい考慮を払っているのに対し、
作戦担当者の希望的判断と場当たり的処置は終戦までつづいた」

なんだか、中島さんの悔しい思いがひしひしと伝わってきます。

中島さんは海軍反省会にも出席されていて、
非常にいい意見を述べられますが、
どちらかというと、
うながされて初めて発言するといったような感じで、
こちらの方が本来の性格のように思われます。
第二艦隊や第三艦隊のころ、相当悔やまれたんだと思います。
せっかく正確な情報を伝えても、
指揮官が先入観にとらわれていては、
その情報の価値が反映されない。
参謀としてはみずから状況判断を行ない、
その基礎となる情報をよく説明し、
その結果として自分の判断を生み出した経過を述べる。
このことを決意し、
自らを情報参謀と自称することとしたようです。

連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争