井上成美

阿川弘之著 新潮社
この本、目次がないんです。

表紙などにフリガナはないんですが、
これなんていうんだろう、最後のところ
著者や発行者、発行所とかが書いてあるところ
ここの題名には「いのうえせいび」ってふりがながあります。
変わった人ね、阿川さん。

本文には、第何章って記述はあります。
ありますが、題名はないです。
そんなわけで、差し出がましいのは重々承知の上で、
各章の紹介もかねて、
ボクが題名なような紹介文を書くことにします。

序章 (8項)
主に海兵37期の同期生を通した井上成美の評判です。

第一章 (10項)
軍事参議官時の副官金谷善文大尉の紹介から、井上英語塾開校まで。

第二章 (10項)
米国戦略爆撃調査団から、杉田主馬の紹介、
海大教官、軍務局第一課長。

第三章 (9項)
ミスター井上の英語塾、山崎晃の紹介から、
米内光政の死、娘靜子の死、そして孫。

第四章 (12項)
「比叡」艦長時代、今川福男大尉と花岡雄二大尉、
そして、大井篤と海大34期の海兵51期組。
横須賀鎮守府参謀長、二・二六事件。

第五章 (9項)
一系問題、そして、米内光政海軍大臣、
山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長で三国同盟に反対。

第六章 (9項)
「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」
平沼内閣の総辞職から、支那方面艦隊参謀長。
須賀彦次郎少将のこと。

第七章 (9項)
海軍三国同盟承認、航空本部長へ。
中山定義少佐と扇一登中佐。
『新軍備計画論』一系問題に取り組む高田利種。
臨時局部長会報と司令長官への説明会。

第八章 (12項)
第四艦隊司令長官、近衛内閣総辞職。
土肥一夫少佐の焦燥。作戦打ち合わせ会議。
開戦。ポートモレスビー攻略計画、珊瑚海海戦。
松田夫婦、新宮一司の話。「小松」トラック支店。
ガダルカナルの攻防。海軍兵学校校長へ。

第九章 (10項)
山上実機関参謀、「東京タイムズ」記事を見るから、
井上塾生たちの話。今川福雄との貧窮問答から、吐血。そして再婚。

第十章 (9項)
飯田秀雄参謀を随え、海軍兵学校へ。各改革。
企画課長小田切政徳。
予備学生教官。賀陽宮治憲王への訓示。

第十一章 (8項)
教育者井上。森浩主計中尉から帯刀与志夫主計中尉へ。
嶋田海軍大臣兼軍令部総長。

第十二章 (8項)
東條内閣総辞職。米内大臣、井上次官。
軍令部出仕兼海軍大学校研究部員次官承認服務、高木惣吉。
兵備局二課長浜田祐生。倉橋友二郎少佐。調査課中山定義中佐。

第十三章 (10項)
陸海軍統合案。鈴木貫太郎内閣。米内海軍大臣続投。
ドイツ降伏。大将昇進、軍事参議官へ。
水交社、井上・高木・中山。ポツダム対日宣言。
原子爆弾。情報参謀中島親孝の発言。終戦。

終章 (10項)
喜寿の祝い。幹部学校長中山海将補、高木惣吉連続講義。
富士子夫人。孫、丸田研一の訪問。古鷹ビル、深田秀明・岩田友男。
海上自衛隊幹部学校長石塚栄。防衛大学校長猪木正道。豊田譲。

井上成美

井上成美のすべて

執筆者は、半藤一利、野村実、千早正隆、
大井篤、深田秀明、妹尾作太男、生出寿。

半藤さんと言えば、ボクには長老のイメージだけど、
この中に入っちゃうと小僧ですよね。
他はみんな海軍兵学校出てるから、
半藤さんの年は、戦争に駆り出されない世代の年長かな。

野村実(71期)、防衛庁の戦史室戦史編纂官をしてらして、かなり多くの海軍に関する著作のある方です。現役時に、小沢治三郎さんとも直接会話を交わした最後の世代くらいになるんじゃなかろうか。

千早正隆(58期)、終戦時は連合艦隊参謀。小澤さんの参謀です。GHQの戦史室調査員になったことなどから、『トラトラトラ』を訳したりしてます。千早猛彦さんのお兄さん。

大井篤(51期)、このクラスは終戦時は大佐ですから、司令や課長など重い役職についています。大井さんは海上護衛総司令部立ち上げ時からの作戦参謀。高松宮様の日記が発見されて、妃殿下から委嘱を受けて整理閲読にあたったのが、この大井さんと同期の豊田隈雄さんでした。

深田秀明(73期)、井上さんが送り出した最後の卒業生クラス。井上成美伝記刊行会の代表。

妹尾作太男(74期)、この期は井上さんが校長になって最初に迎え入れたクラスです。ということは、井上さんの同期である前校長草鹿任一さんとは、現役時は縁がなかったはずですが、草鹿さんの晩年は縁が深かったようで、草鹿さんの伝記刊行会の幹事をされています。

生出寿(74期)、妹尾さんと同期。
妹尾さんも本を書いたり訳したりしていますが、生出さんは完全に作家ですね。ボクの海軍軍人へのとっかかりは、この生出さんでした。

井上成美のすべて

〈新人物往来社〉

  目次
井上成美アルバム
昭和海軍のなかの井上成美
            半藤一利
珊瑚海海戦は果たして失敗だったか
            野村実
情報・戦略に見る井上成美
            千早正隆
昭和海軍の軍政と井上成美
            大井篤
教育家としての井上成美
            深田秀明
アメリカ海軍が見た井上成美
            妹尾作太男
井上成美エピソード抄
            生出寿
井上成美略年譜
執筆者略歴

野村実さんが珊瑚海海戦を解説してくれています。
従来、井上は戦が下手だ。と、
さんざんな言われ方をしていますが、
情状酌量の余地あり、と言ってますね。

野村さんの意見は本を読んでいただくことにして、
井上成美の遺言:海軍兵学校第37期編〈中〉
で触れたこともあることですし、
ここは、ボクが弁護側として訴えることにします。
珊瑚海海戦の現場指揮官は高木武雄さんで、
航空戦の指揮に関しては第五航空戦隊司令官の原忠一さんでした。
そして、もうひとつ参加した部隊があります。
山田定義さんの第25航空戦隊で、
この部隊は井上さんの指揮下に入らず、
もともとの上司、第11航空艦隊司令長官の
塚原二四三さんの指揮下のままです。


さらに、井上さんの第四艦隊の参謀をしていた
土肥一夫さんが海軍反省会でこういう証言をしています。
「あの作戦は、まったく事前の打ち合わせができていなかった」
実際原さんの部隊がトラックに来たのは卯月の25日、
皐月の1日には出撃しています。
土肥さんの言葉を借りれば、
「参謀が飛行機で駆けつけて打ち合わせただけで」
図演などもやってないわけで、即席の寄せ集めなんです。


作戦が始まってからも、
井上さんが、連合軍側の基地航空部隊を
たたくことを強く求めますがゴネます。
そのやり取りを聞いてた連合艦隊の方が、
ミッドウェーのことがありますから、
それまでは航空機を温存しておきたくて、口をはさんできます。
戦闘に入ってからも、敵部隊を2つ発見して、
井上さんが西の部隊へ行けって言ってんのに現場が従ってません。
山田さんにも要請はしてますけど、指揮権がないから、
命令は出せず、サボられています。


そして、問題の「北上せよ」ですが、
土肥さんが言います。
「味方の飛行機が返ってきて着艦が始まったとき」
土肥さんは総攻撃の命令を書いて
井上さんのところに持っていったそうです。
「君、これ間に合うかい」
こう言われたというんですね。
土肥さんとしては状況は分かりませんが
行くしかないと思ってますから、
「間に合います」って言うわけです。
井上さんはサインをくれたそうで、
それを暗号室に持って行ったんだけど、
5分もしたら暗号室から、
原さんから「北上す」って電報が来た。と、
時間を見ると30分前に発令してる。
その時間を考えると相当北にもう行ってる。
それで、井上さんは「北上よろしい」という意味で、
「攻撃を止め、北上せよ」という電報を打ったというんです。


前線指揮官として、井上さんが向いていなかった。
これは、ある程度言えると思います。
井上さんは、軍政一筋みたいな海軍生活をしてきました。
小澤さんのように中佐時代から先任参謀として
戦隊の指揮を切り盛りしてきたような人だったら、
違う結果もあったでしょう。
さらに、このときの四艦隊の参謀も、
参謀長、先任参謀が共に優秀な能史型
の人だったそうです。

別の点でいいますと、
この時点で海軍の暗号は取られています。
そして、それまでの日本海軍が築き上げた戦歴
(真珠湾奇襲やマレー沖海戦)とは違い、
敵は準備を整えて臨んできていたという点。
中央は、この点を抜きにして、批判しているように思えます。

野村さんは総括でこう言っています。
戦術的な失敗の責任は、高木、原、山田にあり、
戦略的には塚原を指揮できる立場にあった山本に大半がある。


井上成美のすべて


太平洋戦争秘史

副題に「海軍は何故開戦に同意したか」とあります。

執筆は保科善四郎さん、大井篤さん、末国正雄さん。
総括編集・財団法人日本国防協会となっております。

保科さんというのは、戦争が始まる前に
軍務局から兵備局が分かれるんですが、
その局長に収まる人です。
時期が時期でして、山本五十六さんは
保科さんに潜水艦の使い方を研究してほしい。
だから、お前潜水戦隊の司令官やってくれ。
軍務局と人事局には言ってあるから。
こんなこと言われちゃうんです。
保科さんは潜水艦のことを知りませんから、
まず断る。断り切れないとみると、
じゃ、一ヶ月研究させてくれ、その後でお受けする。
そう答えたんですが、実は人事局でも
伊藤整一さんが、自分のあとを保科にやってほしい。
って思ってた。大井さんは、海軍反省会で、
「その時保科さんが人事局長やってたら、
 戦争にならずに済んだ」こんなこと言ってます。
保科さんってどんな人なんでしょう。

米内光政さんが第三艦隊司令長官のとき、
保科さんは、その先任参謀でした。
揚子江を遡ったとき、座礁事故を起こしまして、
米内さんは進退伺いを書きます。
保科さんは、それを預かると
そのままポケットに入れてしまいました。
こんなことで、この人の経歴に
傷を付けちゃいけないと思ったみたいです。
こうすべきってことは、独断決行できる人です。
しかも、仕事大好き人間で、
「保科を殺すには、仕事を取り上げたらいい」
なんて言われるような人です。

こんな人なんで、井上成美さんが海軍次官を退いてからは
海軍次官を継いだ多田武雄はお飾りで、
軍務局長の保科さんが米内大臣の右腕となっています。
そして、米内さんの遺言を守るため、
衆議院に出、国防協会の初代会長にもなります。

大井さんや末国さんは、
海軍反省会での発言がかなり多い人たちで、
末国さんの場合は、ずいぶん研究されてて、
その発表をする場面が多く、非常に分かりやすいです。
大井さんの場合は、発言が多いですね。
理屈っぽい人で、
そのこだわりが、ボクは好きなんですが、
人によっては辟易するかもしれない。

海軍反省会は全11巻で終了し、
録音テープが残っていない回などもかなりあり、
たまたま末国さんが登場するところが
多く残っただけなのかもしれませんが、
防衛庁戦史室調査員として研究した時期がありますので、
研究調査の量が多いんだと思います。

海軍は何故開戦に同意したか
    『太平洋戦争秘史

保科善四郎・大井篤・末國正雄

目次
 序
第一篇 保科メモの全貌と回想
  はしがき
 第一章 大東亜戦争(日本側呼称)への道
  第一節 遠因はワシントン、ロンドン条約に
  第二節 世界恐慌と二・二六事件
  第三節 南北論争と「国策基準」の決定
  第四節 陸軍のドイツへの接近
  第五節 「日独伊三国同盟」締結の内幕
  第六節 開戦直前の私の進言
 第二章 開戦に至るまでの秘録
  第一節 日米首脳会談の流産
  第二節 政略重点から戦略重点へ
  第三節 白紙還元―国策の再検討
  第四節 御前会議―深夜の大激論
  第五節 開戦直前の「保科メモ」
 第三章 兵備局長時代の回想
  第一節 兵備局長の任務
  第二節 兵備局長初期の物動計画
  第三節 海務院の誕生
  第四節 物動計画(昭和19年度)
  第五節 サイパン奪回作戦論議の真相
  第六節 レイテ決戦敗北以後
 第四章 秘められた終戦工作
  第一節 知られざる東条発言
  第二節 保科兵備局長の和平工作
  第三節 岡軍務局長の独ソ和平工作
  第四節 保科兵備局長のサイパン奪回作戦
  第五節 東条内閣総辞職の意義
 第五章 終戦への動き
  第一節 陛下の御信念
  第二節 時局収拾への御前会議
  第三節 お召しによる六巨頭会議
  第四節 ポツダム宣言「諾」か「否」か
  第五節 御聖断下る―終戦決定
 第六章 日米単独講和の条件
  第一節 在スイスの藤村中佐からの電報
  第二節 藤村中佐のGHQでの陳述
  第三節 米国務省から見た藤村工作
  第四節 米国首脳の「天皇制存置論」
  第五節 知日派グルーの活躍
  第六節 無警告原爆投下の決定
  第七節 歴史の歯車は狂った
 第七章 終戦余話
  第一節 クーデター前後
  第二節 米内海軍大将に関する余話
  第三節 日本本土分割案
  第四節 戦後の「保科メモ」から
  第五節 大東亜戦争を回顧して
  あとがき

第二篇 開戦と終戦
 第一章 海軍は何故に対米開戦に賛成したか
  第一節 開戦時私は海軍省人事局員
  第ニ節 海軍の日独伊同盟への賛成
  第三節 三国同盟成立後の海軍中央
  第四節 永野修身の軍令部総長就任
  第五節 開戦決意を迫る参謀本部
  第六節 及川海相退陣
  第七節 ついに嶋田海相が開戦に同意
 第二章 終戦における海軍の役割(水交会月例講演)
  第一回 昭和61年1月20日
  第二回 昭和61年4月14日
 第三章 米内海軍大将の現役復帰、海軍大臣就任の経緯とその意義、太平洋戦争関係海軍大臣更迭の経緯
  一、米内海軍大将の経歴概要
  二、米内海軍大将の組閣とその内閣の崩壊
  三、嶋田大将、海軍大臣として登場
  四、東條内閣とその崩壊
  五、後継内閣成立までの過程
  六、小磯内閣の組閣、米内大将の登場
  七、鈴木貫太郎海軍大将の内閣成立と米内海軍大臣の留任
  八、東久邇宮稔彦王陸軍大将の内閣
  九、幣原内閣の誕生と米内大臣留任の経緯
  十、終戦処理内閣東久邇宮内閣と幣原内閣における米内海軍大臣のとった措置

附表
 一、参考資料
 二、主要事件略年表
 三、太平洋戦争中歴代内閣閣僚一覧
 四、太平洋戦争中各部各方面の幹部首脳者一覧
 五、太平洋戦争中陸海軍中央省部首脳者一覧

保科さんの「はしがき」を抜粋。

「私は昭和五年六月、米国の名門エール大学に在学していた。
翌六年九月一八日に満州事変が勃発したが、
そのとき米国に在住する中国人の反日への結束ぶりと、
米国人の中国に対する同情の深さを目の当たりに見聞して、
私はただならぬものを感じ取った」
「日本のことを知らない米国人なら、
中国人の誇大な排日・反日の宣伝にすぐに同調してしまう。
そのため日本に対する無理解のために、
どんな不祥事が発生するか分からない。
日本はもっと自分の立場をPRする必要があると、
しみじみと痛感させられたのであった。
その後中国に勤務したが、いたるところで
排日・抗日・侮日の運動が執拗にくり返されており、
中国人の国民性のしつこい胆汁質は、
日本人のあき易い、忘れっぽい淡白性から見ると、
実に恐るべき民族的差異だと感じた」
「私は多忙の中で走り書きの日記を綴っていた。
それは私の個人的備忘録であったが、
今や当時の海軍省の中枢部の動向を伝える
資料の一つとなった。この際
『大東亜戦争秘史』として世に真相を発表することは、
私の最後の祖国への義務だと思うようになってきた」

保科さんは、ルーズベルトの腹黒さは
知らないままであったようです。

「実際のところ、
日本も米国も進んで戦争を起こす気は毛頭なかった。
しかしそれなのに戦争に突入してしまったのは、
つまり米国も日本も相手のことが
よく分からなかったからである」

アメリカ国民が戦争を欲していなかったのは事実ですが、
ルーズベルトは、日本を戦争に巻き込みたかったのです。
戦争をしないと言って大統領に再選したので、
どうしても、日本に手を出させたかったのです。

ちょっと内容が違うと思われますが、
    ↓↓↓↓↓↓↓↓

大東亜戦争秘史





なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか

フーヴァー大統領の回想録
『フリーダム・ビトレイド』〈裏切られた自由〉
が刊行されたのが2011年。
この本は2012年のものです。

加瀬英明さんと
ヘンリー・S・ストークスさんの共著というのかな。
加瀬さんのお父さんは加瀬俊一(としかず)さんで、
同時代に加瀬俊一(しゅんいち)さんという人が
いてややこしいですね。どちらも外交官です。
従妹にオノ・ヨーコさんがいます。
靖国に連れて行ってもらったジョンレノンが
神道の説明を聞いて生れたのが
「イマジン」だとおっしゃってました。
そう考えると「イマジン」に何となく惹かれていた
自分が弁解できるようでうれしいですね。

一般には「イマジン」は、
お花畑の歌と認識されてるんじゃないでしょうか。
ジツは、神道なんですね。
神道は本気で平和を求め、目指していますから、
そういう常識がない人が受けるインスピレーションは、
あんな感じになるんじゃないでしょうか。

日本の文化は異質ですから、
平和主義も八紘一宇も誤解されますね。
ボクは、平和ボケっていわれている日本ですが、
一旦緩急あれば、相当の数の人が
義勇を基に立ち上がるものと思っています。
ただ、ちょっと、楽観する性分ではないものですから、
こんなブログを立ち上げたわけです。

なぜアメリカは、
対日戦争を仕掛けたのか

加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス 〈祥伝社〉

  目次
第一部 アメリカに強要された日米戦争の真実
 第1章 ルーズベルトが敷いた開戦へのレール
   アメリカの決意、日本の独り芝居
   ルーズベルトによる敵対政策の始まり
   なぜルーズベルトは、中国に肩入れしたか
   中国空軍機による九州来襲
   日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
   中国軍に偽装した日本本土空襲計画
   日本を戦争におびき寄せた本当の理由
   ルーズベルトを喜ばせた三国同盟の締結
   着々と進む日本追い詰め政策
   開戦五ヵ月前に日本爆撃を承認した文書
   「日本という赤子をあやす」
   直前まで対米戦争を想定していなかった日本
   日米首脳会談に望みをかけた近衛首相
 第2章 米政府が秘匿した真珠湾の真実
   海戦を前にした昭和天皇の懊悩
   山本五十六の無責任発言
   アメリカに筒抜けだった連絡会議の結論
   日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
   開戦強要の最後の一手
   その時、ルーズベルトは何をしていたか
   なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
   万策尽きての開戦決定
   暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
   ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
   アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
   ルーズベルトは、いかにして四選を果たしたか 
   終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
   アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
   終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
   日本国憲法にこめたアメリカの狙い
 第3章 日本人が知らない日本の歴史的功績
   盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった
   東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
   日米戦争の原因の一つは人種差別
   トルーマンもマッカーサーも、人種差別主義者だった
   トインビーが日本に与えた歴史的評価
   軍人としては無能だったマッカーサー
   マッカーサーの日本非武装中立論
   日本の”宗教改革”をたくらんだマッカーサー
   ルーズベルトを「狂人」と呼んだフーバー元大統領
 第4章 この教訓から何を学ぶか
   国際政治は、いかに非情であることか
   まやかしの「平和主義国家」
   無責任なコンセンサスに縛られた「日本国憲法」
   小室直樹氏の吉田茂に対する辛辣な評価
   インドとインドネシアの独立に果たした日本の役割

第二部 ペリー来襲から真珠湾への道
 第1章 100年にわたるアメリカの野望
   アメリカが隠蔽してきた史実
   三島由紀夫と「黒船」
   ペリーという”海賊”が犯した罪業
   「神の意志」によって正当化された侵略行為
   日本に埋蔵されていた「黒いダイヤモンド」
   ペリーの野望が結実した横須賀米海軍基地
   世界一の文化都市だった江戸
   アメリカ人が持っていたひどい偏見
   日本という獲物を虎視眈耽と狙う列強
   「レイプ・オブ・江戸」
   わざわざペリー艦隊の艦旗を取り寄せたマッカーサー
 第2章 ペリーが開けた「パンドラの箱」
   パリ講和会議における日本の人種差別撤廃提案
   白人不敗神話の終焉と日本
   インドネシア独立に果たした日本の功績
   独立記念日の日付は、なぜ05817なのか
   インドネシア独立戦争で戦死した1000人の日本兵
   イギリスのインド支配とチャンドラ・ボース
   日比谷公会堂で行なわれたボースの演説
   インパール作戦は、けっして犬死にではない
   公開された日本本土侵攻作戦計画
   アメリカ政府が弄した奸計
   「パンドラの箱」とは何か

ヘンリー・スコット・ストークスさんは、
イギリス生まれのジャーナリスト。
新聞社の東京支局長とかやってた方で、
最近では、本屋さんに行くと、
近現代史のコーナーに必ず何冊が並んでますね。
ストークスさんの訳は藤田裕行さん。

お二人が共通の項を設けていますね。

加瀬
インドとインドネシアの独立に果たした日本の役割

ストークス
インドネシア独立に果たした日本の功績

加瀬
「インドネシアは日本が降伏した二日後に独立を宣言したが、オランダ軍がイギリス軍とともに、インドネシアをもう一度、オランダの支配のもとに置くために来攻すると、祖国防衛義勇軍(PETA)が中心となって迎え撃ち、以後四年にわたって凄惨な独立戦争が戦われた」

ストークス
「インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダがジャワに艦隊を派遣したことに始まる。インドネシア人は悲しいことに、抵抗する術を持たなかった」
「オランダの350年あまりにわたるインドネシア支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の侵攻によるものだった。インドネシアにあったオランダ軍は、生命惜しさに、わずか七日間で降伏してしまった」
「日本は第二次大戦で、アジアの国々を侵略したとされている。しかし、どうして侵略する国が、侵略をされた国の青年に軍事教練を施し、精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国にわたって作り、近代組織の経営方法を教えるということがあろうか?この事実はとりもなおさず、侵略したのが日本ではなかったことを、証明している。日本がアジアの国々を侵略していた西洋諸国から、アジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を惜しまなかったと見るのが、正しい認識であると思える」

次の項にはこんな説明まで丁寧にされています。

「インドネシアの記念すべき独立の日は”05年8月17日”となっている。05年は、日本の皇紀2605年なのだ」

ここまできちんと外国の方が証明していただけるのには、
今村均将軍の軍政によるところが大きいと思います。
今村将軍のジャワにおける軍政に関しては、
「井上成美の遺言:海軍兵学校第37期編〈中〉」
こちらがいくらか参考になるかと思います。

凄惨な独立戦争が始まると、
日本側としては大っぴらにはできませんので、
奪われたという形をとったりして、
武器を義勇兵に横流しします。
そして、日本兵も参加し、千人ほどの方々が英雄墓地で眠っています。

なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか

大本営海軍部

まず序文をいくらか抜粋します。

「大東亜戦争に敗れたことは、我が国にとってまことに千載の恨事であるが、敗戦なればこそ、その教訓は勝利の場合にくらべて数倍に値するものがあるはずである」

「終戦直後の数年間、マッカーサー司令部のさしがねによって行われた、「真相はこうだ」というNHKのラジオ放送は、全部とはいわないまでも、その多くは、故意に真相を歪曲したものであった。そのため国民に誤解を与えると同時に、政府や軍にたいし大きな不信感を抱かせる結果となったのである」

「私はこの誤りを正さねばならぬと思い、また敗戦の跡を反省して戦訓を求めたいと考え、まだ記憶のうすれないうちにと、昭和二十五年にひとつの記録を書き残しておいた。支那事変から大東亜戦争にかけ、私は前後二回にわたって大本営海軍部の作戦課に勤務していたが、その記録は通算五年間に体験したことを、当時の簡単な日記と、記憶にもとづいて書きつづったものである。本書は最近、防衛庁戦史室の資料や先輩知人の口述筆記などによって、この記録を補正したものにほかならない」

「本書にのべたことは、ほとんど私個人のせまい体験と見解にすぎないが、事実は粉飾なく、赤裸々にのべたつもりである。これによってこの戦争にかんする世人の誤解を少しでもとき、またこの戦争を知らない新しい時代の人びとに、真実を知ってもらうことができれば幸いである」

大本営海軍部

回想の大東亜戦争

山本親雄 〈白金書房〉  

  目次
自序
はじめに
  大本営の歴史
  大本営の編成
  海軍省と軍令部
第一章 太平洋に戦雲暗し
  誰もが避けようとした対米英戦争
  国防方針に反する対多数国作戦
  開戦時の大本営の作戦計画
  三段階に分けた作戦
  開戦を前に戦闘機不足論
第二章 破竹の進撃・第一段作戦
  檜舞台で戦艦無用論を実証
  世界を震駭させた真珠湾の奇襲
  零戦の威力
  困難だった機密保持
  戦果拡大に伴う危惧
  さえないスラバヤ沖海戦
  海軍の花形、機動部隊
  第一段作戦の総括
第三章 連合軍反攻・第二段作戦
  戦略思想で陸海軍が対立
  戦略的勝利を逸した珊瑚海海戦
  海軍の面目つぶした東京空襲
  「慢心」がもたらしたミッドウェイの惨敗
  日米戦の天王山ガダルカナル
  ブルドーザーと人力の戦い
  壮絶なガ島周辺の夜戦
  日米空母機動部隊の決戦
  航空消耗戦に敗れる
  ガダルカナル撤退作戦
第四章 攻勢防禦ならず・第三段作戦
  昭和十八年二月の情勢
  攻勢防禦の方針決める
  アリューシャンに暗雲
  アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す
  ついに玉砕したアッツ守備隊
  山本連合艦隊司令長官の戦死
  戦艦「陸奥」謎の爆沈
  作戦方針転換で戦線縮小
  風雲急な中部太平洋
  連合艦隊、太平洋を去る
  トラック空襲
  真珠湾作戦の再現――「雄」作戦の構想
第五章  帝国海軍の終焉・第三段作戦
  古賀長官の事故死で全作戦に乱れ
  サイパンを失う――「あ」号作戦の失敗
  「捷」号作戦
  比島沖海戦――連合艦隊の壊滅
  比島沖海戦――余録
  連合艦隊司令部、陸上に移る
  フィリピンから沖縄へ
  終戦まで
第六章 戦い終わって
  潜水艦作戦の不振
  対潜水艦戦に完敗
  日本海軍の魚雷
  敗戦まねいた艦隊決戦主義
  特攻攻撃
  開き過ぎた飛行機生産力の差
  情報・暗号戦でまず敗北
  大本営発表はでたらめか?
  宿命的な陸海軍の対立
  実現できなかった「統帥一系」
  東條大将の天皇親政論
  実現しなかった日独協同作戦
  「統帥権独立」の弊害

米内光政・山本五十六・井上成美のときは、
三国同盟はなりませんでした。
それが、及川古志郎・豊田貞次郎になったとたん
同盟締結に同意したのです。なぜか。

どんな理由で海軍が豹変し、陸軍や松岡外相の
主張に追従したのかを明らかにするため、
戦後関係者が行った口述や談話などを調べてみたそうで、
こんな感じでまとめられています。

(一) 自動参戦の問題
従来、海軍が反対した大きな理由は、自動参戦を付加とするにあった。ところが成立した条約では、この条項がなくなったから、海軍が反対する理由が消滅した。松岡外相は和戦の決は天皇の大権に属し、日本が自主的に決定しうるものであって、ドイツも了解している、と主張して海軍を押し切ったということである。
(二) 米国との戦争を避ける手段としての同盟
ドイツも日本も、アメリカとの戦争は避けたい、と望んでいた。この点、日独の利害が一致するというのが政府の判断で、これにたいしては海軍も異存はなかった。しかし当時、松岡外相が主張したのとは反対に、同盟締結によって、日本が毅然たる態度をとれば、米国はさらに強硬策をとり、日米の関係はますます尖鋭化し、ついに和解不可能に陥る、ということは軽視されたようである。
(三) 陸海軍の対立緩和
当時、陸海軍の対立は、極度に尖鋭化していた。とくに陸軍の態度は硬化して、国内動乱のおそれもあるという情勢であった。海軍はこの際大乗的見地にたち、このような事態の勃発を避けるため条約締結に同意した。
(四) 海軍存在の意義
海軍があくまで同盟に反対するならば、「対英米戦には”勝てない”から”戦えない”ということを海軍から表明されたい」ということを、首相の側近や陸軍から申し入れてきた。これまで対米戦を目標として整備訓練してきた海軍としては、このような表明はできない。もし表明すれば、海軍存在の意義を失い、また艦隊の士気にも悪影響を及ぼすことにもなるので、勢い同盟に賛成せざるを得なくなった。
(五) 予算、資材、人員等の割当上
支那事変が始まってから、予算、資材の割当は、陸軍優先の建前となっていた。そこで国策を米英に指向することになれば、これらの割当を海軍優先に転換させうるという望ましい結果になる。もし同盟に反対すれば、海軍への割当は不要である、というのが陸軍の空気であった。
(六) 近衛首相の不決断
政府内にも、外相、陸相以外の大臣には、同盟にあまり賛成でないものもいた。近衛首相も、海軍が必ず反対するだろうから、自分はしぶしぶ賛成しておけばよかろう、という考えであったともいわれている。海軍は、このような重大な国策の決定に、海軍が主導して反対することは迷惑であるとして、なんとか首相の責任において反対に導かれるように努めた、ということがいわれている。
(七) 朝野世論の硬化
支那事変が長期化し、不安と焦慮にかられた国民の間に、陸軍の巧みな宣伝によって”親独反米”の機運が起きてきた。朝野の親英米派は口を閉じ、強硬論をとなえる親独派が幅をきかすようになったのは、自然の勢いであった。したがって政府内部の空気もしだいに硬化し、外務省や内務省の官僚が、同盟論を指示したばかりでなく、海軍部内においてすら同盟賛成論者が出るようになった。大臣や総長もこのような空気を制しきれなかった、という点もあったらしい。

そして、このような結論めいたことを述べられています。

海軍が同盟に賛成した理由も、
国家全体のことよりも、海軍だけのことを
重く考えてのこととしか思えないふしが多い。

大本営海軍部

一海軍士官の回想

この本を書いた中山定義さんは、
井上成美さんが支那方面艦隊の参謀長だったときの
政策担当参謀で、井上さんが軍令部に乗り込んでいって、
アホなこと(対米戦になりかねない政策)すな!
って言い寄ったときにお供させられた人です。

開戦時は南米におり、
「中山さん。日本の海軍機がパール・ハーバーの
 米艦隊をさかんに攻撃しているというニュースが
 繰り返されていますからお知らせします」
という、同盟通信の椎名氏からの
突然の電話が第一報となったそうで、
「パール・ハーバーだけですか。
 フィリピンというような地名はありませんか」
と答えたそうです。
というのは、3日前にワシントンから
暗号関係を処分したという機密電報を受けており、
時間の問題。と観念していたからだそうです。
その後はチリで監禁状態。
第二次交換戦で昭和18年霜月、横浜着。
昭和18年といえば、ガダルカナル撤退、
山本五十六さんの戦死、アッツ島の玉砕と、
みるみる戦況が悪くなった年で、
中山さんがチリを出たころには、
イタリアが降伏しています。

中山さんは、駆逐艦艦長を強く希望しましたが、
「君の乗るような駆逐艦はもう一隻もない」
なんて一蹴されてしまい、相手にされなかったそうです。
海軍省副官、第二艦隊参謀、軍令部五課(米国情報)、
軍務局二課などが、ワシントンから
南米経由で帰った中山さんを欲しがっていました。
辞令は「海軍省軍務局二課」でした。
ドイツ駐在が決定していた扇一登さんの後です。
ひと月もすると、こんな事例が追加されます。
「調査課課員、兼軍務局局員、南方政務部部員」
調査課といえば、
高木惣吉さんが作ったブレーン・ブラストがあります。
そんなわけで、中山さんは
次官を退いてからの井上成美さんとの連絡など、
高木さんの終戦工作にかかわることになります。

一海軍士官の回想

開戦前夜から終戦まで

中山定義 〈毎日新聞社〉

  目次
Ⅰ 北米時代
  危機せまる米国へ
    井上成美参謀長の憂い
    「米国駐在を命ず」
    「鎌倉丸」の乗客たち
    野村大使の述懐
    神ならぬ身
    北米大陸に第一歩
    Gメンに追跡される
    ワシントンへ
  プリンストン大学
    大の日本海軍ファン
    アインシュタイン博士
    直接の殺し合いは避けよう
    教会の反日演説
    レーダー情報
    アナポリス見学
  視察旅行
    一ヶ月のドライブ旅行
    在留邦人に時局講演
    大西洋の独・英艦隊決戦
    米大統領の「国家非常事態宣言」
    立花事件
Ⅱ 南米時代
  アルゼンチンとブラジル
    次は中山だ
    米国から南米へ
    チリ進出を意見具申
    欧州から転進の海軍使節団
    最後の日本船「東亜丸」
    来るべきものが来た
  日米開戦下のチリ
    アンデスを越えて
    チリ公使館附海軍武官
    ドイツ武官と情報活動
    自前の情報宣伝戦
    大本営発表
    盗聴覚悟の電話連絡
    ついに国交断絶
    監禁生活
  帰国の途へ
    第二次交換船
    帰国の途へ
    上甲板の「海ゆかば」
    交換船「帝亜丸」
    昭南寄港
    マニラから最後の航海へ
Ⅲ 海軍省軍務局時代
  新任務と帝国議会
    帰朝報告に反応なし
    新配置
  ブレーン・トラスト
    調査課のブレーン・トラスト
    二年現役主計士官のこと
    地価大食堂の激論
    石川信吾少将の政治活動
  東条政権の崩壊
    反東条熱に驚く
    四方東京憲兵隊長
    自滅の道をたどる
    潜行する内閣打倒運動
    海軍人事に陸軍の横槍
    「敵はついに倒れたぞ」
    飛行機工場の現実
    原子爆弾
  小磯・米内協力内閣と海軍
    海軍に活気戻る
    米内大臣と井上次官のこと
    大臣演説草案に四苦八苦
    陸軍強硬派からのアプローチ
  鈴木内閣と終戦
    小磯内閣から鈴木内閣へ
    激化する空襲
    本土決戦の準備
    混乱の第87臨時議会
    身を切られる思いの終戦工作
    幻の大和大本営
    ぐずぐずしてはいられない
    エピローグ
 注
あとがき
  索引

サイパンからの決別電は文月の六日です。
12日、東條は、嶋田繁太郎と申し合わせ、
内閣改造で乗り切ろうとします。
そのことを木戸幸一内大臣に伝えると、
木戸から条件を出されます。
統帥権の確立(総長と大臣の分離)。
嶋田海相の更迭。
重臣(総理経験者)の入閣。
木戸は、陛下の思し召しであることをほのめかします。
東條は、参謀総長には梅津美次郎さん、
嶋田は軍令部総長に専任させ、
新海相には野村直邦を当て、
阿部(陸軍大将元総理)と米内さんの入閣を
求めるという内閣改造方針を木戸に説明し、
了解を取りつけます。
そんなわけで17日、野村海軍大臣が誕生しますが、
米内さんに入閣を断られ、
18日東條内閣は総辞職します。
重臣会議が開かれ小磯国昭が選ばれますが、
19日、近衛が米内さんを訪ねます。
「小磯一人じゃ心配だから、
 あなたが出て連立でやってもらえないか」
米内さんは連立なんてうまくいくはずがない、
としたうえで、海軍大臣ならやれると告げますと、
近衛は、小磯首相・米内海相というお言葉を
陛下からいただくように木戸に含みます。
20日、小磯・米内の二人に組閣の大命が下ります。
可哀そうなのは野村君で、
小磯から辞表を出せと言われるわけです。
「お上から米内を現役に戻して大臣にするよう言われて
 おりますので、海軍の方で、手続きをお願いします」
21日、野村君は参内して陛下に確認します。
「その通り」
小磯・米内連立内閣は22日誕生します。
米内さんは副総理格ですが、
小磯には「お前がやれ」と、海軍大臣に専念します。
葉月の5日には井上さんが次官になります。

中山さんによれば、海軍の空気がガラッと変わり、
海軍省を訪問する顔ぶれが一変したそうです。
中山さんの表現ではこうなります。
「とにかく米内海相・井上次官のコンビが
 出現したことは、海軍省構内に聳え立つ
 あの高い無線用鉄塔の上に、
 いわば”霞ヶ関灯台”とでも称すべきものが点灯され、
 遠く日本の針路を照射しだしたような思いで、
 懐中電灯で足元を照らしながらうろうろし、
 とかく大きい針路を見失いがちな
 われわれ事務当局にとっては大助かりであった」


一海軍士官の回想

自伝的日本海軍始末記

高木惣吉さんは東條首相暗殺を企てた人で、
決行前に内閣が崩れたので実行には至りませんでした。
その後は終戦工作に尽力しました。
海軍大臣の命を受けてやったもので、
個人的にやった陸軍のものとは全く違う。と、
井上成美さんは、この点を強調しています。

高木さんはちょっと変わった経歴を持ちます。
ロンドン海軍軍縮会議の連絡事務担当から
大臣の副官兼秘書官となり、
無理がたたって体を壊してしまい、
そこから塩っ気のある勤務ができなくなってしまったのです。
それでも海大を首席で出ていますから中央で活躍し、
大佐のときは海軍省官房調査課長なんてのになり、
ブレーン・トラストなどという組織を作り
外部の人との接触が多くなります。
このことが終戦工作に役立つわけです。

高木さんは、早い段階から著作活動をしており、
海軍の伏せておきたいような部分も書いたりして
反発も多かったようですが、井上成美さんに
すべてを明るみに出せ。とはっぱをかけられて、
拍車がかかったりしたようなところもあるみたいです。
もともとというか、全般的に反骨の人ですね。

自伝的日本海軍始末記

帝国海軍の内に秘められたる栄光と悲劇の事情

高木惣吉 〈光人社〉

  まえがき
第一章 反骨児、海軍へ入る
  わが生い立ちの記
  ヒヨコ士官のクリ言
  時代おくれの海兵教育
  江田島をはなれて
  第一次世界大戦おこる
  くやし涙の遠洋航海
  わが反骨時代はじまる
  上村副長の鬱憤ばらし
  御難つづきの「明石」
  シベリア出兵の悲劇
  大いなる迷いの果てに
  まぼろしの八・八艦隊
  加藤中将のくやし涙
第二章 疑いを胸中に秘めて
  わが青春の思い出
  大正も終わりに近く
  海軍大学というところ
  作戦方針に疑問あり
  フランスにて思うこと
第三章 揺れ動く昭和を生きて
  つわものどもの夢の跡
  軍縮条約の波紋ひろがる
  海軍大臣秘書官として
  戦火、上海におこる
  運命の糸にあやつられて
  第四艦隊事件の教訓
第四章 大陸に戦火ひろがる
  相つぐ不祥事の中で
  政党政治の崩れ去る日
  ある日の山本五十六
  日米抗争激化の前夜
  暴走陸軍を止め得ず
  多事多難な昭和十二年
  揚子江に沈んだ星条旗
  ついに戦火は消えず
第五章 陸軍の横暴に抗して
  軍部独裁への道ひらく
  悔いを千載にのこす
  明暗を分けた分岐点
  急を告げる内外の動き
  こじれた日独軍事同盟
  くすぶりつづける禍根
第六章 世界の戦火を浴びて
  戦火いよいよ拡大す
  崩壊への路線きまる
  恐竜と化した米経済界
  高まりゆく陸軍の圧力
第七章 日本苦境に立つ
  反骨精神で生きる
  日米戦争はじまる
  軍艦マーチひびけど
  忘れえぬことども
第八章 無為無策な指揮下で
  山本五十六大将死す
  ああ万骨枯れるのみ
  粉飾の戦果におどる
  崩れゆく日本の日々
  活路を得んとして
  東条内閣の最後近し
第九章 戦争の時代終焉近し
  ドタン場の海軍人事
  有馬正文の遺言
  有名無実の防御線
  戦局とみに逼迫す
  極秘裏に平和へ動く
  若き憂国者たちの不満
  決裂した大西との密談
  樹てられた暗殺計画
  押し寄せてきた破局
  色あせた”楠公精神”
  沢本次官とのウワサ話
  成算すでにゼロ!
  ついに東条内閣崩る

高木さんは、こういう記述も残しています。

二・二六事件のときのエピソードです。

世間は腹はくさっていても、
肩書のものものしい人々には注意をするが、
忘れがちなのは、真に日本人として
誇るべき、無名の男女性の行動である。
総理官邸に、反乱軍の乱入した騒ぎの中で
「旦那様のご遺骸があるうちは、
 一歩もここから立ち去ることはできません」
と、監視する反乱兵士の銃剣の前で言い切った
秋元さく、府川きぬえさん両女性の総理守護の心境、
警視庁が反乱軍に包囲され、
背後に監視兵がいるまえで、
32時間にわたり電話交換台を死守した
石田末子さん以下12名の交換嬢、
また右の人々と交替した佐伯八重子さんら18名が、
27日午前10時半、交換台が神田錦町署に
移されるまでの凛々しい働きぶりには、
まったく頭のさがる思いで、
派閥根性に国民を忘れた軍事参議官たちを
愧死せるに足るものがある。
また、総理官邸で衆寡けん絶した反軍と戦って
殉職した巡査部長村上嘉茂左衛門、
巡査小館喜代松、土井清松、清水真四郎の四名、
牧野伯の避難をたすけて殉職した巡査皆川義孝、
岡田総理の救助、脱出にかぎりしれぬ助力を与えた
麹町憲兵分隊長森健太郎少佐、
特高班長小坂慶助曹長以下の憲兵諸士、
とくに最初に総理の生存を知った
青柳利之軍曹、篠田惣寿上等兵らの、
きわめて正しい判断と処置は、
国民が忘れてはならないとうとい鏡で、
われわれは国や社会が困難に出会うごとに、
官階や地位や貧富とかかわりなく、
その人のヒューマニズムにもとづく行動が、
人間としての価値を示してくれることを痛感する。

東日本大震災のときの、
腹のくさった菅や枝野でなく、遠藤未希さんですね。

自伝的日本海軍始末記


波濤を越えて

手元の本は昭和60年になっていますが、
もともとは日本出版共同株式会社から
「海戦」の題名で刊行されたものらしく、
作品としては昭和31年のものです。

若いころの吉田さんは、
こういった本を出されていたようですね。
こういった本というのがなにか
吉田さんのあとがきを抜粋します。

あとがき

大東亜戦争の記録を手当たり次第に読みはじめ、
集めはじめたのは戦後三年目ころからであった。
その後も戦争当時の責任者や研究者たちが、
それぞれの「戦記」や「戦史」を活字にした。
連合国側でも、いわゆる権威ある戦史が刊行され、
彼我の主張の間に、
真実がようやくうかがい知られるまでになってきた。

しかし、私には、それらのものを読むたびに、
どうしても満足できないものが、しこりのように残った。
――これが、私たち日本人がすべてをあげて戦った
大東亜戦争の、ほんとうの姿なのだろうか。

私には、いまだに親交を重ねている、
当時下士官兵であった人々、
あるいは当時大尉、中尉くらいであった友人たちがある。
少しも際立たない、生活の間に埋もれている、
ごく当たりまえの人たちであるが、
そういう人たちの話は、経験は、
高級指揮官や参謀たちの手で書かれた
いわゆる戦記の肌あいと、著しく違っている。

駆逐艦一隻喪失、という冷たい文字のかげには、
乗員二百五十人の真剣な、
真面目な努力と魂の燃焼があり、
飛行機消耗五機という裏には、
五人ないし三十五人の若い生命の奔騰と
お守り札や千人針を持たせてくれた家族の祈りと、
――その祈りも及ばぬところでの、彼らの死がある。
勇敢で、崇高で、献身的な戦いが、
その人たちが無名の人であるばかりに、
あらゆる記録から追い落とされ、
たんに兵籍名簿のカードに、何月何日戦死と、赤インキで書いてあるだけである。
これでいいのか。
作戦計画を実施するために、
あらゆる苦悩や悲惨とたたかったのは、彼らである。
艦や飛行機や兵器を動かし、
それに燃え上がる生命力を吹き込んだのは、彼らである。
他の人たちを救うために、
他の人たちの失敗をつぐなうために、
他の人たちの名誉が傷つけられるのを防ぐために、
恐るべき苦難の道を突き進んだのは、彼らである。
その彼ら――人間的なつながりを
一人一人大切にしながら、人の子の喜びと悲しみを
つつましく、しかも無邪気に現して、
恩賞や名称や世間体には目もくれず、
敵撃滅の悲願を胸におさめて黙々と死地に臨んだ
これらの人々こそ、この大東亜戦争を
本当に戦った人たちであり、
戦争を語る資格がもっとも大きい人たちであり、
「戦争」それ自身についても、最も切実に、
最も力強く語り得る人たちであるはずである。

この本に盛られたものは、そういう人たちの
口から直接に語られ、また、何事かを語ろうとしながら、
その機を得ずに死んでいった人たちが、
その心を知る戦友たちの口を借りて語った話を、
その史実を、異常な環境の中において、
素直に、歪めずに、いろいろな角度から現わそうとした、
私のささやかな努力の結実である。
しかしその私は、残念ではあるが、
最期の筆をおいた瞬間、もうそれが、
彼らの心情を現わすにははなはだしく足りなかったこと、
私の心の沈め方の至らなかったことが、
自ら激しく責めなければならなかった。
述べるべくして述べ得なかったことが、
山ほど残されてしまったのである。

私の願いは、こういう埋もれた人たち、
たとえば戦後の電車の混雑の中で、
つい右隣のツリ革につかまっているような人たちが、
いかに勇敢に、自己を捨てて祖国の急に赴いたか、
いかに崇高な魂を打ち込んで、人を、家を、村を、
街を、日本を、愛するがゆえに奮戦したかを、
日本の栄えゆく限り、私たちの記憶から
消滅させたくない、ということにある。
しかも、彼らのその尊い献身が、
すべて素朴に祖国の安泰を求めつつ
なされたものであるからには、彼らの奮戦を
私たちの記憶から消滅させないようにすることによって、
私たちの希望と矜恃と実力を養うばかりでなく、
その上にさらに一歩をすすめて、彼らの願いを生かし、
その献身に栄光あらしめるために、
ふたたび戦争の惨禍が、国土の上に、国民の上に、
国民の知らぬ間に襲い掛かるようなことがないよう、
積極的に努力したいのである。

波濤を越えて

吉田俊雄 〈朝日ソノラマ〉

  目次
第一部 第二水雷戦隊
第二部 戦艦比叡
第三部 空母瑞鳳

吉田さん、若いころはこういう思いで
積極的に下士官兵たちの素顔を書いてたんでしょうね。
ご自身が年齢を重ねて、
指揮官であった人たちの年齢を超えて
その心情が理解できるようになって、
やっぱり、上層部はおかしいぞ。と、
それでそれぞれの連合艦隊司令長官や
参謀長。また、参謀とは、なんて題材のものを
書くようになったんじゃないかなと思います。

波濤を越えて

指揮官と参謀

なんか、この手の作品が多いんです。
吉田俊雄さん、海軍兵学校第59期。
終戦で中佐になった期です。
永野さん、米内さん、嶋田繁太郎の副官をしていますから、
気になったんでしょうね。指揮官。
ボクの持っている本の中では比較的早い段階のものです。
80歳を過ぎたころの作品が多いですね。
ボクの勝手な想像ですが、
やはり、中佐ぐらいになった方
特に実際に大臣になった人の副官などしていれば
「やはり、残さない方がいいか、、、」
なんて思うエピソードとかもあると思うんですよね。
でも、80にもなると、その人たちと
同じだけ生きたことになるし、言ってもいい、残すべき。と、
ちょっと違った視点というか、
ある程度割り切った考えに達するんじゃないか。
そんなふうに思えたりもします。

指揮官と参謀

その思考と行動に見る功罪

吉田俊雄 〈光人社〉

  目次
一、先見性・山本五十六
 艦隊決戦から航空主兵の時代へ
   主体的で視野の広い軍政家山本と部下、
   軍令部との認識上のギャップが悲劇を生んだ
二、年功序列・山本五十六と小沢治三郎
 悲劇に彩られた二人の司令長官
   生死を度外視、知能の限りを傾けて
   己の職責を果たすべく情熱を燃やしつづけた
三、上将と猛将・山本五十六とハルゼー
 太平洋で睨みあった異色の好敵手
   奇しき縁に結ばれた日米の二人の司令長官は
   虚々実々の秘術を尽くして戦いつづけた
四、適材適所・南雲忠一
 難局で問われた指揮官の真価
   勇猛果敢な水雷戦隊司令官は、なぜ
   航空艦隊司令長官になって因循姑息に豹変したか
五、逆境・山口多聞、角田覚治、大西瀧治郎
 退勢挽回をはかった三人の提督
   絶体絶命の窮地にあっても、攻撃こそ
   最良の防御なりを実践して果敢に戦いを挑んだ
六、決断・栗田建男
 沈黙の提督、レイテ突入せず
   死中に活を求め、すさまじいまでの決意を抱いて
   決戦にのぞんだ栗田艦隊指揮官の真実
七、責任感・西村祥治
 水雷屋提督、スリガオに死す
   任務を達成しようという責任感で常に
   事にあたった私心なき知勇兼備の提督の真骨頂
八、指揮官先頭・村田重治と江草隆繁
 海軍魂をもった二人の猛将の最後
   艦攻の鬼、艦爆の鬼とうたわれ、つねに
   先頭きって飛びつづけた第一線指揮官の風貌
九、参謀の条件・宇垣纒、福留繁、草鹿龍之介、矢野志加三
 連合艦隊司令長官と四人の参謀長
   変化への対応ができなかった上部指導機構の
   頭脳たちは無能な失格者ぞろいだったか

開戦時の連合艦隊司令部

真珠湾攻撃後、海軍省は報道禁止事項を示達したそうです。
「連合艦隊司令長官山本五十六大将が勝負事に巧みなること」
山本さんはモナコのカジノで入場を断られるほどバクチがうまく、
断られたのは世界で二人目だという伝説になったとか。
シマハン(嶋田繁太郎海軍大臣)としては、
それを真珠湾とからめて論じられては
海軍の恥辱とでも考えたのだろうと吉田さん。

兵学校、術科学校、大学校で徹底した均質化教育をされ、
それぞれのレベルでは、だれをそのポストに配しても、
そのために戦力を落とさない規格品の海軍士官
――悪い言葉で言えば、教えられたところを忠実に実行し、
私見を差し挟まずに行動する、
将棋の駒のようになった人たちに比べると、
五十六さんは異質である。と、こうも言っています。

そんなわけで、
五十六さんは主体性を持った人が好きだったようですが、
黒島の場合はただの変人であったと、
いや、今の言葉でいえばオタクでしょうね。
そう見極めて活用すれば、
それは非常に生かされたのだと思いますが、
先任参謀にしてしまった。
せめて宇垣さん(参謀長)が、
黒島に具体的な指示を与えてこき使うような
形になっていればよかったんですが、
五十六さんは黒島の変人の才を愛するあまり、
宇垣さんを飛び越えさせてしまっていました。

五十六さんが連合艦隊司令長官になってからすぐ、
参謀長は福留に替わります。
永野さんは軍令部総長になったときに福留を欲しがります。
それでじゃあ一部長の宇垣(福留、宇垣は同期)と
交換しようってことになったんだけど、
五十六さんが婉曲にお断りします。
「戦隊司令の経験のない人は、、、」
ようは宇垣さんのことが嫌いなんです。
それで、宇垣さんは第八戦隊の司令官になって、
第八戦隊の司令官だった伊藤さんが参謀長になります。
今度は永野さんが伊藤さんを次長に欲しいって言いだします。
宇垣さん、「司令経験あり」になっちゃったもんだから、
もう、五十六さんも受け入れるしかなくなっちゃったんですね。
これが、昭和16年の葉月で、
真珠湾の作戦は出来上がってました。
そんなわけで宇垣さんは蚊帳の外状態で開戦を迎えるのです。

このとき五十六さんは五十六さんで、
そろそろ俺も交代だろう。なんて思いもあります。
なにがなんでもって、参謀長の適任者を
模索するって意欲が薄かったのかもしれませんね。

それぞれの参謀長

吉田さんはこのように説明しています。参謀長とは、
「司令長官の幕僚として司令長官を佐け、隊務を整理し、
 幕僚その他隊務に参与する職員の職務を監督する」
足りないものを補って完全なものにするのであるから、
長官の言うままに従うのでは
参謀長の職責を果たしたことにはならない。
そして、
先任参謀以下の参謀はこれとは違う。といいます。
「参謀長の命を承け服務する」
参謀長の言うままに従わなければならない。

これを見れば明らかで、参謀長というのは
指揮権はないものの非常に重要な役目です。
それをないがしろにして、変人参謀に任せた。
五十六さんは任せた相手を尊重しますからなおさら良くない。

五十六さんのあとをとった古賀さんは、福留をもらいます。
この福留って人は
「戦略戦術の大家」なんて言われ方をしていたんですけど、
ジツは教科書の内容をたくさん覚えただけで、
イレギュラーなことには全く機転が利かないタイプ。
ここまで言っちゃ失礼かなとも思うんですけど、
吉田さんも言ってるし、何よりもご本人が告白してます。
「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、
 南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉功を奏したのちもなお、
 機動部隊は補助作戦に任ずべきもので、
 決戦兵力は依然大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」

吉田さんはさらに手厳しいですね。
豊田長官の場合は、南雲艦隊参謀長として戦ってきた
ベテランの草鹿龍之介を引っ張った。
しかし、豊田に輪をかけた主観性、直感性、心情性の持ち主で、
性格の似た者同士、すっかり欠点が増幅されることとなった。

指揮官と参謀

捨身提督小澤治三郎

ミッドウェー海戦のとき、
連合艦隊司令部より真剣に戦況を注視していた人がいました。
南遣艦隊司令長官であった小澤治三郎さんです。
第一航空艦隊ができたとき、
司令長官は南雲さんよりも小沢さんがなるほうが自然であった。
そんな見方をする人が多いんです。
ジツは、航空艦隊(または機動艦隊)を作るべき
と提案したのは、この小澤さんだったんです。
しかし、日本海軍の人事は年功序列でいきました。
南雲さんも小澤さんも水雷で、南雲さんが一期先輩です。

小澤さんは南遣艦隊司令長官として、
陸軍のマレー作戦に多大な貢献をしました。
陸軍ではシンゴラ、パタニー(共にタイ)と同時に
コタバル上陸作戦もやりたかったのですが、
これには護衛すべき海軍が反対したのです。
コタバルは英領マレーであり、
有力な飛行場があるため危険が多すぎるというものです。
しかし、攻める側の陸軍からすれば、
この飛行場が敵の管理下にあったのでは、
タイ上陸後の進撃がはかどりません。
中央の話し合いでは結論が出ず、
連合艦隊司令長官として参加した五十六さんが、
「現地の小澤がうまくやると思うんで・・・」
そんなわけで、現地司令官同士が話し合って決める。
という事になりました。
海軍中央は反対でしたが、
五十六さんは反対ではなかったのではないか。
でも、よくわからないし、小澤に任せとけば安心だ。
そんな感覚だったんじゃないでしょうか。
五十六さんは、「作戦は落第」の人ですから。

五十六さんは、軍政のほかは航空関係の仕事が多かったんですが、
部隊の長ではなく、教育や航空行政です。
それで連合艦隊司令長官になっちゃったもんだから、
参謀長も経験し、駆逐隊司令や戦隊司令官を歴任した
小澤さんに頼ることが多かったんですよね。

小澤さんは、コタバル上陸について考え、
これはやるべき。と判断し、できるか。を考え、
陸軍の25軍司令官、山下さんに対してこういいます。
「コタバルには第25軍の考え通り上陸作戦を実行されたい。
 私は全滅を賭しても責任完遂に邁進する」
こんなことがあったので、
陸軍の人は小澤さんのことをひどく尊敬しています。

では、小澤さんは陸軍との協調のために
何でも聞いたのかというとそうではありませんでした。
小澤さんにしてみれば、
コタバル上陸は勝算あってのことなんです。
戦闘が進み、さらに先に陸兵を送りたいので
護衛してほしいという注文がきたときは、
それは危険を冒してまでやる作戦ではない。と、
陸軍を説得しています。
陸軍に、このような交渉ができた海軍の人は、
他にはいなかったんじゃないでしょうか。

そんな小澤さんが、ミットウェー海戦のときは
南方の作戦が一段落し、やることがありません。
小澤さんの参謀などを務めた寺崎隆治さんの言葉をかりれば、
「飯より戦の好きな小澤さんは」
ミッドウェーの状況を無線で聞き、
戦況を地図に書き込むなどして過ごしました。
そして、こう言ったのです。
「これは、暗号が取られているぞ」
米軍の攻撃が、非常に計画的だというんですね。
その後軍令部の山本祐二さんが出張してきたんで、
小澤さんは調査を依頼しています。
「そういう心配は全くありません」
これが軍令部側の答えですが、
このときに認識を変えていれば、
山本五十六さんは暗殺されることはなかったはずです。
中央は今のヤクニンみたいな仕事ぶりだったんだと思います。

捨身提督小澤治三郎

生出寿 〈徳間書店〉

目次
まえがき
国運を担う南遣艦隊司令長官
全滅を賭したコタバル上陸作戦
開戦まえに英軍機撃墜
正解のマレー沖海戦
陸軍の山下奉文、今村均を支援
海軍の諸葛孔明を志す
水雷艇長で船乗り修行
水雷学校、海軍大学校の戦術教官
酒豪提督、「辺幅を飾らず」
永野長官と小沢参謀長の対決
山本五十六と「航空主兵」て一致
兵力激減の機動艦隊を率いる
“鬼がわら”の号泣
アメリカ主力機動部隊撃滅の戦法
敵にわたった軍機作戦計画書
飛べない空母飛行機隊
ニミッツの大謀略
無力化された陸上飛行機隊
攻める小澤、守るスプルーアンス
自分は死に場所をなくした
敵と耦刺を期す
源田実の「戦闘機無用論」
まじめに戦ったのは西村ひとり
ハルゼー艦隊を釣り上げる
大和の沖縄特攻は自分に責任あり
戦やめるらしいぞ
あとがき
参考・引用文献

捨身提督の「捨身」は、おそらくレイテ沖海戦での
ハルゼーを北方に釣り上げるためのオトリ作戦のことでしょう。
このときの小澤さんの任務遂行は、
アメリカ側の軍人、研究家から高く評価されています。

その小澤さんが評価したのは西村さんでした。
「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」
アメリカ側では非常に評価が低いです。
途中で引返した志摩さんの方がいい評価をされています。
この辺の考え方が、アメリカ的だと思う。
ただし、日本文化を深く理解したアメリカの研究者は、
西村司令官の行動を愚かとは言っていません。

レイテ沖海戦で、最大のポイントは、
栗田さんが引き返したことです。
でも、アメリカ側の評価では、
栗田さんは満場一致で否定されてはいません。
アメリカで、満点で非難されているのは、
豊田副武(連合艦隊司令長官)と、ハルゼーです。
そして、満点で高評価を得ているのが、
オトリ艦隊を指揮した小澤さんと
西村艦隊を壊滅させたオルデンドルフです。

第一航空艦隊ができたとき
南雲さんでなくて小澤さんなら、
という声は当時からあったようですが、
ボクは、小澤さん以外で、コタバル上陸作戦を
決意できた提督はいないと思っています。
このときの判断も、フリーではないんです。
海軍中央は、中央の考えを伝えるために
軍令部の航空担当の三代さんを派遣しています。
小澤さんは、それをはねのけて「やりましょう」と言ったんです。
これが言える人は、いなかったと思います。

真珠湾攻撃の功績を以て南雲さんをどこかに栄転させて
ミッドウェーを小澤さんで戦っていたら、
おもしろいことになっていたでしょうね。
こんなこと言っても詮無いんだけど、
小澤さんは、戦力をもぎ取られては戦わされたから、
充実した状態で一戦交えたかっただろうな。と、
なんか、その辺がボクにこれを訴えさせるんです。

捨身提督小澤治三郎